82 由良 ◇ 理想以上の
『お誕生日を教えてください。』
時計はもうすぐ午後9時。
スマートフォンに打ち込んだ文章を見ながら、もうずいぶん迷ってる。送ろうかどうしようか、って。
(送って…いいよね?)
当然だ。わたしは佐矢原くんの彼女なんだもの。お誕生日をお祝いしてあげたいと思うのは当然のこと。
それに、お誕生日を尋ねたら、それだけで佐矢原くんが喜んでくれるだろうな、と思う。メールを見ながら照れる姿を想像すると……。
(うふふ、かわいい。)
胸がきゅーんとする。
(でも……。)
送信するのを迷っている。
(あの子たち……。)
今日のお昼休みに見た景色が頭を離れない。春野さんと山辺さんを両側にしたがえて歩いて行った佐矢原くん。
(お仕事だから仕方ないのに。)
分かってはいるけれど、胸の中がじくじくと疼く。
(本当は顔を見てお話ししたいけど……。)
直接訊きたい。近くでお話ししたい。その方が絶対に楽しいはず。
だけど、学校では話すチャンスが無い。放課後は部活があるし、部活が終わったあとに待ち合わせをする勇気はない。だから、メールで訊いてしまう方が確実なんだけど、今度はお昼休みのマネージャーさんたちのことが気になって……。
(こんな気持ちになるとは思わなかった……。)
「好き」という気持ちがこんなに強いものだなんて。
きのうまでだって、佐矢原くんのことはちゃんと好きだった。ほかの男の子たちとは別格だった。なのに。
今朝のあの一瞬。
あの瞬間から変わってしまった。まるで……そう、目隠しがはずされたみたいに。いろいろなことが鮮やかにくっきりと見えるようになった気がする。今は、その気持ちに浸っている感じ。ゆらゆらと心地良く。
「んー……。」
だけど。
(明日も話せないだろうなあ。)
まわりの目を思うと、自分から近付けるとは思えない。今日だって、朝と帰りにあいさつしただけ。明日になっても同じだと思う。
(そうだよね。送ろう。)
仕方ない。せめて、照れてる佐矢原くんを想像して楽しもう!
「行っといで。」
メールに声をかけてみた。
お返事はいつ来るかな。すぐには来ないかも知れないよね。近くにいないかも知れないもんね。テレビを見ているとか、お風呂に入っているとか、宿題してるとか――。
「うわ!」
(来た!)
すっごく早かった! そばにいたんだ!
『15分くらい待ってて。こっちから電話する。』
(おとりこみ中?)
それだったら、あとで返信してくれるだけで良かったのに。わざわざこんなふうに送ってくれなくても……。
(でも……電話?)
そうか、お話しできるんだ。電話してくれるんだ。話したいって思ってくれたんだ。
(う、れ、し、い♪)
こんなに嬉しいなんて。にやにやしちゃうんだけど。
そうだ。今のうちに明日の支度を済ませておこう。
(あ。)
マナーモードにしているスマホが机の上で震えた。画面には佐矢原くんの名前が。
「あの、はい。」
『あ、猫?』
聞こえてきた低くて少しかすれた声に、笑顔になって「うん。」と答えた。佐矢原くんは、今、どんな顔をしてるんだろう?
『あのさ、窓。』
「え?」
『窓の外。見て。』
「え!?」
(もしかして!)
大急ぎでカーテンをずらして外を見る。すると。
『やっほー。来ちゃった。』
向かいの公園の街灯の下で佐矢原くんが手を振った。腕まくりした白いシャツ。隣には自転車。気付いたら、わたしも手を振っていた。
『なんか、すっげえ嬉しくて。じっとしてられなくて。』
そう言いながら、片手で顔をこすっている。きっと恥ずかしいんだ。
『今日は全然話せなかったし。』
「うん。うん。そうだね。」
同じ気持ちだったんだ。佐矢原くんも、わたしと話したいと思ってくれたんだ。しかも、わざわざ来てくれるなんて!
『あー、あのさ、22日。10月の。』
佐矢原くんが片手をポケットに突っこんで、街灯の柱に寄りかかった。体を少し横向きにしたのは、やっぱり照れくさいから?
「あ、お誕生日?」
『そう。10月22日。結構すぐだろ?』
「うん。」
(でも、その日って……。)
「あのね、その日ね。」
『うん。』
「あたしも、同じ。」
『え?』
「お誕生日。10月22日。」
『うわ、マジか?』
声と同時に、柱に寄りかかるのをやめて真っ直ぐ立ったのが見えた。そして、こちらを見上げる。
「うん。」
『すげえ。』
「ね。すごいね。」
街灯の光で佐矢原くんの笑顔が見える。わたしも思いっきりにこにこしてみせる。でも、向こうからだと逆光で見えないかな。
「お祝い、一緒にできるかな? 何曜日だっけ?」
『月曜日。』
「あ、そうだっけ? よく覚えてるね。」
『えぇ? 実は期待してカレンダー確認してきた。へへ。』
今度は下を向いて足元の砂を蹴っている。また照れてるんだ。
「じゃあ、前日の日曜日?」
『ごめん。その日は練習試合。』
「その前の日は……練習だよね?」
『うん。』
「じゃあ、しょうがないね。プレゼントだけ用意――。」
『あ、あのさ』
少しあらたまった声が聞こえた。思わず姿勢を正すと、佐矢原くんもまっすぐにこちらを見上げていた。
『今度の日曜日、どっか行かない、かな?』
「今度の……?」
『う、うん。練習、無いんだ。だから、二人、で。』
つっかえつっかえの言葉。でも、気持ちは真っ直ぐに伝わってきた。
「うん、行く。ありがとう。」
嬉しくて、また笑顔になってしまった。
(あれ? んん?)
左側から歩いてくる人がいる。スーツ姿の男の人。
『ああ……良かった。ちょっと緊張しちゃって。俺――』
額の汗をぬぐっているらしい佐矢原くん。歩いてきた人が近付きながら1、2秒そちらを見て、うちの前に差し掛かる。
「やっぱり! お父さん!」
『え!? お父さん!?』
佐矢原くんの声が耳元ではっきり聞こえた。と思ったら、お父さんが門の前で立ち止まり、振り返って佐矢原くんを見た。
(聞こえたんだ!)
気を付けの姿勢をした佐矢原くんが、すごい勢いで頭を下げている。
(まずい!)
急いで窓を開ける。
「お父さん! ちょっと待ってて!」
二人が顔を上げたのがちらりと見えた。とにかく急いで玄関へ。お母さんの「どうしたの〜?」という声を無視し、サンダルが上手く履けないまま玄関のドアを開けた。すると。
(大丈夫、だった?)
門の前にお父さんと佐矢原くんがいた。向かい合って。笑いながら何か話している。
「あの、お父さん。」
急いでサンダルを履き直しながら近付くと、二人が同時にこちらを向いた。
「あのね、こちらは佐矢原くんです。同じクラスの。でね、」
「今、聞いたよ。」
お父さんが笑ったのでほっとした。
「前にあれだろ、ほら、雨宿りさせたっていう。」
「あ、そ、そう! そうだよ。よく覚えてたね。」
「お母さんが言ってたから。珍しい名前だし。」
そう言って佐矢原くんの方を向くと、佐矢原くんは「あのときはお世話になりました」と頭を下げた。それからわたしに「今日はこれで帰るよ」と微笑み、「失礼します」とお父さんにもう一度頭を下げた。そして、あっという間に自転車に乗って行ってしまった。
「入るぞ。」
自転車を見送っていたわたしに、お父さんから声がかかった。玄関を開ける後ろ姿……機嫌悪い?
「しっかりした礼儀正しい子だな。」
靴を脱ぎながらお父さんが言った。
「うん。野球部のキャプテンなの。」
「そうか。」
それで終わり? 悪い評価ではなさそうだけど……。
「お帰りなさい。誰か来てた?」
お父さんのあとから居間に入ると、キッチンからお母さんの声が。
「ああ、由良の――」
「さっ、佐矢原くんが来てたんだよ。」
お父さんに言われるよりも、自分で言う方が絶対にいい! お父さんに言われたりしたら、ものすごく気まずい気がする!
「え? 佐矢原くん? こんな時間に?」
三人で一斉に時計を見上げると、9時半だった。
「ちょっと電話で……。」
「電話? 由良が呼んだの?」
言われてみると、そういうことなのかも?
「窓越しに電話で話してたんだよ。」
(うわ、お父さん!?)
「窓越しに? 由良が2階にいて、佐矢原くんが外ってこと?」
「そう。」
「あらまあ、『ロミオとジュリエット』みたいじゃない? うふふ。」
「お母さん、そういうわけじゃ……。」
「あそこで『お父さん!』って言われたときにはびっくりしたよ。まさか自分の娘と話してるとは思わなかったからなあ、ははは。」
(だよね……。)
わたしがあわてなければ、お父さんは佐矢原くんのことをスルーしたに違いない。でも、笑ってるってことは、怒ってはいないらしい。
「佐矢原くん、良い子でしょう? 雨宿りのときも、由良が一人で留守番していたから、玄関までしか入らなかったのよ。」
(え、そうなの?)
だからあのとき、あんなに「玄関で」って言ったんだ。ただ遠慮しているだけなのかと思ってた。まあ、無理矢理お風呂に入らせちゃったけど。
「ああ、そう言えばそう聞いたっけ。今日だって、わざわざ来たのに窓越しに電話だなんて、考えてみたらストイックだよなあ。」
「そうよ。こっそり呼び出したりしないところは、あなたよりも信用できるわね。」
「うそ!? お父さん、お母さんのこと夜に呼び出したりしたの?」
「そうなのよ。あのころは携帯電話が無かったから合図を決めておいて――。」
「ば、ばかっ、あれはもうお前が就職してからの話だろう!?」
「そうだったかしら?」
(ひえーーー……。)
お父さんとお母さんにそんな時期があったなんて……。
(でも。)
あせったけど、見つかって良かったかな。佐矢原くんはちゃんとご挨拶してくれたし、お父さんも悪い印象を持ってはいないみたいだから。
それに、お父さんと話しているときの佐矢原くん、堂々としてて格好良かった。やっぱり佐矢原くんって、とっても素敵な彼氏だと思う。