76 由良 ◇ こんなふうに
(本当に怒ってないんだ…。)
自転車を押して歩きながら、隣の佐矢原くんをそうっと見た。
怒っていないことの方が「好き」と言われたことよりも気になるんなんて、変だろうか。でも、今日の午後はそのことだけを考えていたから……。
(あ。)
気配に気付いたのか、佐矢原くんがこちらを向いた。目が合って、思わずドキッとしてしまう。
「ふ、くっ……くくく。」
(笑われてる……。)
下を向いて肩を震わせる佐矢原くんを見て、なんだか自分が情けなくなってきた。わざわざ送ってもらっているのに、何を話したらよいのか分からないままの気の利かない自分が。
(まだ笑ってる…。)
情けないけれど、ほっとするかも。機嫌が悪いわけじゃないのだから。
「なあ、猫。」
「ん…、なあに?」
話題を提供してくれるのかと助かった思いで返事をすると、佐矢原くんは今度は思いっきりにこーっとした。
「俺、それ好き。」
嬉しそうな顔でそう言ったと思ったら、「うわ、恥ずかし。」とつぶやいて、片手で口元を覆って向こうを向いてしまった。
「え、え、あの?」
(呼ばれて返事をしただけなのに…。)
どうしたらいいのだろう? 佐矢原くんの反応がいつもと違う。
(なんか…恥ずかしいよう。)
頬に血が上ってきて熱い。それに気付かれるかも知れないと思うとまた恥ずかしい。どんな顔をしていたらいいのか分からない。
仕方がないので前方の道路に視線を戻す。
(「好き」って……こういうことなのかな……。)
だから今までと違うのだろうか。
「急に、ごめん。」
静かな声がした。いつの間にか佐矢原くんが落ち着いている。
「あ、ええと…。」
どのことを謝られているのかよく分からなくて、返事に困ってしまった。そんなわたしに軽く笑ってみせてから、佐矢原くんは続けた。
「拗ねて怒ったりするヤツなんか、嫌だよな。」
自嘲気味な言葉と態度。今日の午後のことをとても後悔しているらしい。
「嫌じゃないよ。」
今度はためらいなく言葉が出た。不思議なことに、これを言うのは恥ずかしくない。きっと、事実を口にしているだけだからだ。
「佐矢原くんは佐矢原くんだもの。嫌じゃないよ。」
「そうか。……ありがとう。」
「だけど……、よく分からない。」
「分からない?」
佐矢原くんにこくんとうなずいてみせる。
「ええと、あたしが…どうしたらいいのか。」
そう。どうしたら良いのか。
「だって、今までずっと、仲良しだって思って来たから…。」
一旦言葉を切って、考える。
具体的な気持ちなら言えそうだ。佐矢原くんが気持ちを伝えてくれた今だから。
「あたし…、こんなふうに佐矢原くんと一緒にいたり、話したりするの、好きだよ。落ち着くし、楽しい。」
佐矢原くんが目を丸くしてこちらを向いた。まるでわたしの言葉が信用できないみたいに。その驚いた顔が楽しくて、少しからかってみたくなった。
「背中も。」
笑って付け加えると、佐矢原くんが「ああ。」と微笑んだ。
「前に言ってたよな、背中が好きだって。」
笑顔になってくれたことが嬉しくて、口がなめらかになる。
「あとね、ちょっとイタズラしてみたいな、とか……、ほら、この前、お馬さんをやったみたいに。」
「あはは、落ちたのに。」
「うん。でもいいの、面白かったから。」
「ふうん。」
「でも……。」
どの言葉がちょうど良いか、考えてみる。
「ええと、そういうことって、好き……って、つまり、恋じゃなくてもあるでしょう? 違う?」
佐矢原くんがしばらく無言でわたしを見たあと前を向いた。
「俺も、猫と一緒にいるのが好きだ。こんなふうに。」
穏やかな、静かな低い声。この声に何度も助けてもらったことを思い出す。
「でも、友達とはちょっと違う。」
「違う?」
訊き返すと、佐矢原くんがこちらを向いて軽く笑った。
「うん。自転車が無ければいいな、って思ってる。」
「自転車が?」
「そうすれば、もっと猫の近くを歩けるから。」
(あたしの近くを……?)
言われた途端、その場面が頭に浮かんだ。
わたしの隣を歩く佐矢原くん。話しながら、笑いながら、二人の肩がぶつかって、間近に顔を見合わせる。ただの想像なのに、腕に佐矢原くんの体温を感じる。
(あれ……?)
ぽわん、と頬が熱くなった。
(や、やだな。今までだって、並んで歩いたことくらいあるのに。)
いつもと同じだと自分に言い聞かせても、頬の熱はちっとも冷めない。気付かれないかと不安になって佐矢原くんをこっそり見ると、前を向いて穏やかな微笑みを浮かべているだけだった。
(ああ……、こういう感じ、好きだなあ…。)
ふわりと言葉が浮かんだ。
みんなが「格好良い」と言うのとは違う。佐矢原くんには女の子が色めき立つような華やかさや、ドキドキするような危険な香りは無い。あるのは一緒にいるとほっとする安心感だ。それがわたしには心地良い。
(そう言えば、いつだったっけ…?)
彼氏ができるならこんな感じがいいなって――。
「ん?」
と、くるりと佐矢原くんがこっちを向いた。ドキン、と心臓が鳴った。
「あ、あのね。」
あせってしまって、話題も浮かばないまま声を出してしまう。たった今、「安心感」って思ったばかりなのに。
「ええええーと、」
街灯の下に差し掛かって、赤い顔を見られたら困ると思ったら、ますますあわててしまった。
「あ、分かった。」
佐矢原くんがニヤッとした。
「なに、が?」
自分の顔がひきつっているのが分かる。心臓がドキドキしている。
「今、『自転車があって良かった』って思ってただろ。」
「へ?」
「俺みたいなヤツに隣を歩かれたら何されるかわからない、って。」
「ええぇ?!」
あまりにも的外れな指摘でびっくりした。
「思ってない思ってない思ってない! まったく思ってないよ!」
「え?」
「だって、佐矢原くんはとっても安心できるひとだもん。」
佐矢原くんが眉間にしわを寄せた。
「思ってないのか? さっき……」
そこまで言うと、下を向いて「はぁーーー……。」と大きなため息をついた。
(そんな! どういうこと?!)
わたしは「佐矢原くんと並んで歩くのは嫌じゃない」っていう意味で「思ってない」って言ったのに。
どうしてがっかりするの? 佐矢原くんは、わたしに「いや」って言ってほしいの? それに、言いかけた「さっき」って…。
(あ。もしかして、あの…。)
抱き締められたことだろうか。
思い出したら、あらためて頬が熱くなった。
(あのときは気が動転しちゃってたけど…。)
よく考えたら、あれは佐矢原くんの愛情表現だったわけで……。
(そ、そうか。)
佐矢原くんだって、ああいうことするんだ。恥ずかしいけど、新鮮な発見にちょっと驚きだ。
(そ、そういえば…。)
あの追試の日の…勘違い事件は? あれは自分の考えすぎだって思ってたけど、もしかして佐矢原くんはあのとき――。
(ひゃあああああああ…。)
もう熱いのは頬だけじゃない。首から上全部がきっと真っ赤になってる!
「猫?」
「ひゃいっ?」
おかしな声が出てますますあわててしまう。佐矢原くんを見返したら、不思議そうな顔をしている。
「あ、あたしあたし…あのね、おおお、思ってたんだ。」
何か話さなくちゃ、と思って頭に浮かんだことを口にする。
「こ、こういう感じがいいなって。」
「うん…。」
佐矢原くんは意味を理解できない様子でうなずいた。ドキドキする心臓が口から飛び出しそう。
「あ、あのね、か、彼氏ができたらね、」
(この話題、失敗したかも!)
ついさっき考えていたことが頭に残っていたみたい。でも、こんな話題、ものすごく恥ずかしい。だけど、途中でやめたら変だ。佐矢原くんはもう聞く態勢に入っているし、ほかの話題が浮かばない。
(続けるしかないよね?!)
「こっ、こんなふうに、一緒に歩いたりしてね、」
「ああ、うん。」
「一緒に笑ったり、」
「うん。」
微笑んだ佐矢原くんの優しい雰囲気に目を奪われる。
「ちょっと……からかってみたり、」
「うん。」
「ときどき、あの……」
(あ、こんなこと言うのは……。)
次の言葉が言えなくて、自分の足元に目が行ってしまう。
「ん?」
続きを待つ佐矢原くんの声。
(べつに……。)
佐矢原くんにそうしてほしいと言うわけじゃない。あくまでも「彼氏ができたら」という仮定の話だ。
(よし。大丈夫。恥ずかしくないからね。)
思い切って顔を上げ、にっこり笑いかける。
「甘えたり、したいなあって。」
(ほら言えた!)
微笑みながら熱が上がった気がした。心臓がものすごく暴れていて、倒れるのではないかと思ってしまう。でも、佐矢原くんが笑顔で応えてくれて、それを見たら達成感で誇らしい気持ちになった。
「それ、俺でもいい?」
「え? い、いいよ、もちろん。」
反射的にうなずいていた。
(ん? あれ? あれ? あれ? 返事しちゃった?)
大急ぎで考えているわたしに、佐矢原くんの「よっしゃ!」というつぶやきが聞こえた。
「サンキュー、猫。」
恐る恐る見上げると、佐矢原くんが照れくさそうに笑った。
「今から俺、猫の彼氏な。」
(やっぱりそういうこと?)
頭の中で今のやり取りを猛スピードで確認する。
「本当はさ、」
佐矢原くんはそこで一瞬ためらってから、わたしに顔を向け直した。
「ずっと、『俺の猫』って思ってたんだ。」
その照れくさそうな笑顔で胸が痛いような気がした。
「俺、猫のこと大事にするから。」
「あ、あの、こちらこそ、よろしくお願いします。」
頭も胸もいっぱいいっぱいで、そんな言葉しか出て来なかった。
長いおはなしにお付き合いいただき、ありがとうございます。
やっと告白までたどり着きました。
さて、第五章「驚いて、笑って、怒った。」はここまでです。
次から第六章「恋って……。」に入ります。最終章です。