74 こんどこそ。
『佐矢原くん?』
スマホを通して弱々しい声が聞こえた。
「うん。」
悲しそうな彼女の姿も目に浮かぶ。それが俺たち兄弟のせいなのだと思うと、申し訳なくてやりきれない。
『佐矢原くん、あの、ごめんなさい。』
「猫、違うよ。謝るのは――」
『ううん、違わない。あたしが悪いの。だって、あたし、知ってたのに。』
「…知ってた?」
『うん。佐矢原くんが、内緒にされるの好きじゃないってこと。』
「え…? それは普通は……。」
みんな同じようなものだと思うけれど。
『ほら、空野くんと富里くんが、利恵ちゃんと聡美と付き合うことになったとき。佐矢原くんだけが知らされてなくて、淋しい気持ちになってたでしょう?』
「ああ……、そうだった。」
たった一か月前のことなのに忘れていた。いろいろなことがあったから。
(あのときは猫に慰めてもらったっけ……。)
『本当に、ごめんね。』
「いいよ。今回は仕方なかったんだろう?」
『でも…。』
「颯介に頼まれて、黙ってるしかなかったんだろ? さっき、颯介から聞いた。」
『颯介くんに……?』
「俺たち、兄弟で猫に迷惑かけちゃったんだな。悪かった。」
『そんなこと……。』
少しの間、沈黙があった。
それは不安を呼び寄せるようなものではなく、どこかほっとするような沈黙だった。
『颯介くんと話した?』
「うん。」
『良かった。会えたんだね。』
「うん。俺の方こそ、……話を聞かないで、逃げてごめんな。」
『ううん、そんなこと、気にしないで。』
きっと今、彼女は微笑んでいる。
『だって、びっくりしたでしょう? 騙されたと思って怒っても、仕方がないよ。』
(本当はそうじゃないんだ。)
胸の中で言葉が湧き上がる。
(猫と颯介のことを誤解して、焼きもちやいたんだよ。)
けれど、口に出したのは「ごめん。」だけ。
『颯介くんもあたしもずいぶん探したんだけど、見付けられなくて……。』
「ああ、俺……先生んとこにいたから。」
『先生のところ? 職員室?』
「いや、体育教官室。」
『そうなんだ……。何度もそばを通ったのに、気付かなかった。』
「だよな、普通はそんなところにいないから。」
楽しいイベントのときに先生といたいヤツなんて、そんなにいるわけがない。
『文化祭終わったあとも教室に戻って来ないし、後夜祭にも出て来ないし……、それでみんなが、帰っちゃったに違いないね、って…。』
「みんなにも心配かけちゃったんだな、俺。」
『んー…、でも、佐矢原くんなら危険なことに遭ったりはしないと思うから…。』
「はは、まあ、そうだな。もう終わったのか、後夜祭?」
『さあ、どうかな?』
「え?」
胸がざわっとした。
「後夜祭に出たんじゃないのか?」
『あ、うん、出たけど、途中で帰ってきたから……。』
「え、途中でって……なんで?」
『佐矢原くんに謝ろうと思って……。』
(「謝ろうと」って……。)
何か変だ。嫌な予感がする。
「猫、今、どこにいる? 家か?」
『ああ、たぶん、佐矢原くんの家の近くだと思うんだけど…。』
「『たぶん』って、どういうことだ?」
ドキドキする。彼女は何を?
『ええと……、あのね、佐矢原くんに直接会って謝ろうと思ったの。』
「うん。それで?」
『実は……その…迷子になっちゃって……。』
「えええええぇ?!」
思わず立ち上がっていた。驚きと「やっぱり!」という思いが交錯する。
『あの、あのねあのね、隣の学区だし、夏休みに一度、車で行ってるから分かると思ったの。だけど、住宅街に入ったら、どの道だったか分からなくなって。』
「どのくらい前から迷ってるんだ?!」
『どうだろう? 30分は経ってないと思うけど……。』
30分って!
「ひ、一人で来たのか?」
『あ、うん。後夜祭の途中だったから、聡美にだけ――』
「サイクリングコースを通ってか?」
『ああ、うん。ちょっと暗くて怖かったけど、遠回りするよりもいいかと思って。』
(「ちょっと」どころじゃないだろう!)
窓の外を確認する。やっぱりもう真っ暗だ。30分前だって明るくはなかったはずだ。
「ごめん、猫!」
『え? 佐矢原くんは何も悪くなんか――』
「だけど。」
(いや、そんなことを気にしてる場合じゃない。)
「猫、まわりに何か目印は?」
『そう言えば、佐矢原くんは家にいるの?』
「は? 俺? 俺は家にいるよ。だけど猫――」
『ああ、良かった。よく考えたら、学校にいないからって、家にいるとは限らないのにね。あたし――』
「そうじゃなくて!」
(心配でしょうがないのに!)
住宅街と言っても、このあたりは夜になると人通りが無い。去年はひったくりもあった。こんなふうに話しているあいだにも、変なヤツに狙われているかも知れないのに!
「猫、そこどこだ? 迷ってるんだろ? 迎えに行くから。」
『え、いいよ、大丈夫。スマホの地図で、自分の家には帰れるから。』
「だめだ。もう暗いのに一人で帰るなんて。」
『大丈夫だよ、自転車だし。中学のときは塾に――』
「猫、頼むから。」
彼女がやっと黙った。
「猫の顔が見たい。家まで送って行く。嫌だって言っても探し回るぞ。」
『え、あ、ええと、自治会館…。』
「自治会館?」
のんびりしている反応がもどかしい。
『うん。朝日ヶ丘第…三、自治会館、の、角』
(朝日ヶ丘第三。良かった! うちの一本裏の道だ!)
「わかった。すぐ行く。明るいところにいろよ。」
制服のままで良かった。これならすぐに出かけられる。自転車の鍵はポケットに入っている。
(うわ!)
スマホをポケットに入れようとしたら電話がかかってきた。剛だ。
「もしもし?」
『何回かけたと思ってんだ!』
いきなり怒鳴るとは!
「ごめん。ちょっと今、急いでて。」
部屋を出て、階段を下りる。
『こっちだって緊急事態だ。由良ちゃんに会ったか?!』
「あ、猫? 猫ならこっちに来てる。」
『行ってるのか?! ちゃんと顔見たのか?!』
「いや、これから行く。近所まで来て迷子に――」
『迷子?! てめぇ、何もたもたしてんだ! 早く行きやがれ!』
「だから、今から行くんだよ! 切るぞ!」
切りながら台所に声をかける。
「母ちゃん、ちょっと出かける! 先にメシ食ってていいから!」
母親ののんきな「どれくらい〜?」に「一時間…か、一時間半!」と答えながら靴を履く。
玄関のドアを思い切り閉め、自転車に鍵がささらなくて焦る。
(猫、ごめん!)
自転車で道に乗り出した。並ぶ門灯と街灯の明るさが、すでに夜だと告げている。
(猫!)
この中で彼女は迷子になったんだ。俺に謝るために一人で来て。俺がずっと逃げまわっていたから。ちゃんと話を聞かなかったから。
あれからどんな思いでいたのだろう。楽しいはずの文化祭だったのに。後夜祭もあったのに。
(俺のせいだ。)
嫌な思いをさせてしまった。危険なこともさせてしまった。
(本当にごめん!)
角を2つ曲がると自治会館のある道だ。確か、もう一区画先のはず。
(いた!)
前方右側の街灯の下に白い人影。うつむいてスマホを操作しているらしい。すぐそばに自転車が停めてある。
「猫!」
俺の声に反応して顔を上げた。やっぱり彼女だ!
急ぐ俺の横を車が追い越して行く。そのあとを追うように自転車をこいで道を渡る。
(無事だった。良かった!)
彼女が微笑む。俺に手を振る。
シュッ…と急ブレーキでタイヤが滑った。彼女が慌てて一歩下がった。スタンドを立てる時間ももどかしい。
「猫。」
駆け寄る俺に、笑顔だった彼女が大きく目を見開くのが見えた。次の瞬間には――。
(猫!)
彼女を腕で包み込んだ。頭と背中に腕をまわして。
「ごめん。」
体に感じる感触にほっとする。彼女は確かにここにいる。
「ん……。」
胸のあたりでくぐもったつぶやき声と、もぞもぞと動く気配。それには答えずに、一層腕に力を込める。
「ごめん、猫。俺、颯介のことを内緒にされたから怒ったんじゃないんだ。やきもち焼いて、拗ねただけなんだよ。」
(そうなんだ。だって。)
「俺、ずっと前から猫のことが好きだったから。」
一気にそこまで言ったら愛しい気持ちがあふれ出た。その勢いのままに、もう一度、彼女を強く抱き締めた。