66 由良 ◇ 不思議な気持ち
(もしかして、一等賞?)
気付いたときには、ゴールテープがすぐ前にあった。ずっと足元に注意を向けていたから、直前まで気付かなかったのだ。
(一等賞なんて初めて!)
わくわくして、思わず笑顔になってしまった。
「やったぜ!」
佐矢原くんの大きな声が聞こえた。ちらりと見上げると目が合って、笑い合う。
審判の「一等、赤!」という声が聞こえる。ゴールテープが体を横切ってすべって行く。
たったそれだけのことが珍しくて嬉しい。佐矢原くんにまわした腕にちょっとだけ力を込めて、嬉しい気持ちを表わしてみた。
「こちらにどうぞ〜。」
声の方を向くと、パイプ椅子が並べて置いてある。足のひもを解くための場所らしい。
「ゴールテープ切ったの初めてなの。」
歩調を合わせて椅子に向かう佐矢原くんに言ってみる。佐矢原くんが笑顔でうなずき、肩に置かれた手にぎゅっと力が入った。ふたりで一緒に一番になったのだと思ったら、余計に嬉しくなった。
(あ。)
椅子に座る直前、ふわりと体が軽くなった。佐矢原くんの手が離れたのだ。その反動で体のバランスが崩れて、転びそうになりながら椅子にドサッと座った。
「ふぅ。」
「あぁ…、疲れたなあ。」
息を整えるわたしの横で、佐矢原くんが椅子の背にもたれて空を見上げている。残りの3チームも順に到着し、周囲の生徒たちが忙しそうに行き交う。
隣の二人が足のひもを解き始めた。わたしも思い出してひもを解いて立ち上がると、すぐに回収係が来て、それを持って行ってしまった。入れ替わりに参加賞係が、クッキーを一枚手渡してくれた。
(終わりなんだなあ。)
ふと、名残惜しい気がした。
「戻るか。」
いつの間にか、佐矢原くんも立ち上がっていた。うなずいて隣に並ぶと、歩き始めながら、ぽん、とさっきのように肩に手が。
(あ。)
……と思う間に、するりとそれは消えてしまう。
(終わったんだもんね。)
淋しいような、不安なような、不思議な気持ちがわきあがってきた。そっと佐矢原くんを見上げたけれど、佐矢原くんは前を向いて歩いているだけ。
すれ違うお友だちに手を振って、もらったクッキーを見せびらかす。佐矢原くんも知り合いと冗談を交わしたり。
でも……。
なぜかわたしたちは言葉を交わさない。わたしは話したいのだけれど、何を言ったらいいのか……。
「佐矢原せんぱーい!」
野球部マネージャーの春野さんが駆け寄ってきた。
「お疲れさまでした〜!」
(あ…。)
ドキッとした。春野さんが佐矢原くんの腕を両手でつかんだから。
「速かったですね! さすがです!」
そう言いながら、佐矢原くんに並んで歩き出す春野さん。その場所はわたしの隣でもあるのだけれど、わたしは彼女との間に話題は無い。だから、そこにいても仕方がない。
「あ、利恵ちゃん!」
佐矢原くんと春野さんを見てはいけないような気がする。「いいな〜、クッキー。」という彼女の声を聞きながら、振り向かずにクラスの女の子たちのところに走った。
(ああ……、楽しかったな、今年は。)
家に帰って、リビングでぼんやりしながら思った。
(去年よりも、ちゃんと参加した感じがする。)
自分の友人関係が、去年よりも充実していることを頭の中で確認する。今日もテストのときと同じように、クラスのお友だちと一緒に大勢で帰って来た。
(佐矢原くんとも、帰りにはちゃんと話せたし。)
二人三脚のあと、少しだけ感じた気後れは、いろいろな感情が入り混じっていて、理由をはっきりと特定することはできない。でも、それも帰りに消えた。最後に二人だけになったとき、佐矢原くんがいつもと変わらず、明るく元気に話してくれたから。
そう。あれは何でもなかった。わたしが勝手に不安になっていただけ。
二人三脚の話もした。「解説が上手すぎ!」とか、「思っていたよりも簡単だった」とか。話しながら、わたしの中で、あの出来事を整理していた気がする。
ただ、そうやって話したのは表面的な部分に過ぎない。今、一人で静かに座っていると、起こったことが、その景色と音もまるごと一緒によみがえってくる。
(何と言ってもムカデ競走だよね。)
「ふふっ。」
思わず笑いが漏れてしまう。
あれはわたしには、とってもラッキーだった。ずっと気になっていた佐矢原くんの背中に、思う存分親しめたから。佐矢原くんは競走に夢中で気付かなかっただろうけど……って言うか、誰も気付かなかったはずだ。
(背中で喜んでるなんて、変かな?)
でも、やっぱり面白かった。目の前に背中だけしか見えなくて。つまずくとすぐに顔がぶつかってしまって。一回だけぎゅーっとしがみついちゃったけど、とっても安定感があったし。
思い出しながら、ソファのクッションを思いっきり抱き締めてみる。
(うん。大満足だ。)
クッションはちょっと体積が小さくて頼りないけれど。
(それにあのスピード!)
本当に面白かった。それで楽しくなって、二人三脚にも出ることになって……。
(その場になって、急に恥ずかしくなっちゃったんだよねー…。)
でも、佐矢原くんも同じだって聞いたら安心した。そして、一緒に出場することを後悔していない様子に勇気が出た。
(それに……。)
肩に置かれた手。力強く支えてもらって落ち着いた。
もちろん、恥ずかしさが消えたわけじゃない。けれど、それよりも安心感の方が大きかった。「一緒にいれば大丈夫」って。
(ああ……、そうだ。)
あんな感じがいいな。いつか彼氏ができるとしたら。
一緒にいると安心で、たまーにちょっと甘えてみたり。
(甘えられるひとがいるって、いいなあ。)
不安なときや落ち込んだときに、ぎゅーっと……っていうのは、ぬいぐるみやクッションでも同じ?
「ふふっ。」
まあ、わたしには無縁の話だよね。彼氏なんかできるわけがないもの。
(そうだよね。)
こんなぼんやりした子には誰も注目したりしない。顔も普通。体型も……普通よりもマイナス。
(瀬上先輩は……すごく良いひとだけど、少し変わってるもんね。)
きっと、女の子の好みも普通とは違うのだろう。それに、部活での付き合いは普通よりは深いから。
(あ、お母さんかな。)
玄関のカギを開ける音がする。何かしゃべっている声がするのは、弟が一緒なのかも?
パタパタとスリッパの音がして、リビングのドアを開けて入ってきたのはお母さんだけだった。
「あ、由良、佐矢原くんよ。」
「え?」
驚いて立ち上がる。
「ちょうど家の前で会ったのよ。上がるように言ったけど、すぐ帰るから玄関でいいって。」
「わかった。」
「ちょっと会わないあいだに雰囲気変わったわねえ。」
「そう?」
(なんだろう? 何の用事? さっきバイバイしたばかりなのに。)
ちょっとドキドキする。
「あれ?」
玄関に立っていたのは、佐矢原くんじゃなかった。ああ、いいえ、佐矢原くんで間違いないのだけれど…。
「颯介くん?」
「あ、由良ちゃん、こんちは。この前はありがとう。」
笑うと少し幼い笑顔、ふさふさの髪の毛、佐矢原くんよりも幅のあるがっちりした体格。
(お母さん! 全然違うじゃない!)
きっと名乗られて、勘違いしたんだ。この三日月の校章入りの開襟シャツは、どう見てもうちの学校のじゃないのに。それに、お母さんは佐矢原くんと2回も会って、そこそこ長い時間話してる。それなのに…。
「お礼、持ってきたんだ。」
そう言って、颯介くんが小さな紙袋を差し出した。
「お礼なんていらなかったのに。」
ちょっと消毒をしてあげただけでお礼をもらったりしたら申し訳ない。それに、この前の告白を思うと……。
「いいんだ。ちょっと用事もあるし。」
「用事?」
「うん。頼みごと。」
そういうことなら、いただいてもいいのかな。小さいものだし…。
「今月の最後の土日、文化祭だよね?」
「あ、ああ、うん、そうだよ。」
「俺……行ってもいいかな?」
(……?)
「うちはべつに女子校じゃないから、誰でも自由に入れるけど……?」
「ええと、そうじゃなくてー。」
颯介くんが下を向いて、ちらりとわたしを見る。
「案内してもらいたいんだけど。」
「案内?」
必要なのだろうか……?
「ええと、ほら、せっかくだから美味いもの食いたいなあ、とか。」
「あ! うちの豚汁は美味しいはずだよ。夏休みに試作もしたし。」
「由良ちゃんのクラス、豚汁出すんだ?」
「そうだよ。ふふ、やだな、お兄さんと話してないの?」
「そういう話はしない。」
「ふうん。」
男の兄弟ってそういうものなのかな。
「じゃあ俺さ、日曜日の1時に行くから、どこかで待ち合わせてくれないかな? それで、由良ちゃんの店に連れてって。」
勢い込んで言う颯介くんに、ちょっとだけ不安になる。
「いいけど…、それ、佐矢原くんに話してもいい?」
「やだ。」
「どうして? うちの店にも行くんでしょ?」
すると颯介くんがニヤッと笑った。その顔が佐矢原くんに似ていてドキッとした。
「そこで驚かせる。」
「ああ。」
(なるほど。そういうことか。)
お兄さんの驚く顔が見たいわけね。きっと、仲の良い兄弟なんだ。
「分かった。じゃあ…中庭の花壇の前で。」
「オーケー、中庭の花壇ね。じゃあ、日曜日の1時によろしく!」
「はい。じゃあね。」
サッと手を振って、颯介くんはあっという間に玄関から出て行った。閉まったドアに鍵をかけながら、何故か、小さなため息が出てしまった。