64 体育祭 その2
森梨が出ようと言ったのはムカデ競走だった。男女混合5人一組でエントリーする種目だ。
森梨に「出ようよ、みゃー子!」と言われると、鈴宮は自信なさそうな様子で迷った。でも、彼女が森梨に対抗なんてできるわけが無い。少しすると笑顔で「うん、そうだね。」とうなずいた。
そのときの森梨のはしゃぎようを見て俺は思った。森梨は本当は自分が出たかったのだ。
ただ、俺はその一瞬前の鈴宮の様子を忘れることができない。出場する楽しさや意義を並べていた森梨が、「佐矢原くんも出るって!」と言ったとき。彼女は尋ねるように俺を見上げ、照れくさくなった俺が小さくうなずくと、ほっとしたように微笑んだのだ。
そんな視線と表情だけのやり取りが、とても幸せな気持ちにさせてくれた。そして、彼女が俺を――友だちとしてだけど、好きでいてくれることが嬉しかった。
じゃあエントリー…というときになって、汰白が「あたしは出られないから」とあっさり言った。ムカデ競走は捻挫をする可能性があるから、リレーの選手の自分は出られないと言うのだ。となると、当然、剛もダメで、誰かを探そうということになったとき、野球部のマネージャーがあらわれた。「佐矢原先輩! 一緒に何かに出ましょう!」と。
その明るく積極的なキャラクターが森梨に気に入られ、“春野亜紀” という季節感ごちゃまぜの名前を持つマネージャーが、ムカデ競走に一緒に出ることになった。ショートカットで女子にしては長身の春野は、早々に森梨と意気投合していた。
「先頭は佐矢原くんね。」
ムカデ競走の集合場所で、赤いハチマキを凛々しく巻いた森梨が俺に命令した。
「え、先頭…?」
「そうだよ。文句ある?」
みんなの前では言えない。だって、俺が言いたいのは、鈴宮を俺の前にしてくれないのか、という苦情だから。
男は俺と空野、そして女子が森梨と鈴宮と春野。この中で一番強いのは、当然、森梨だ。
(「協力する」って言ってたのに……。)
「で、一番後ろが空ケン。」
「了解。」
空野が爽やかな笑顔で応じる。
ムカデ競走は、長い板の下駄――と言っても、靴のまま履ける――を5人が縦に並んで履き、フィールドの中を一往復して次へとまわすリレー形式の種目だ。森梨の作戦は、力のある俺が先頭で引っ張り、空野が後ろからそれを補助する、ということなのだろう。
「あたしたちは小さい順に、みゃー子、あたし、春野ちゃんね。」
(お、やった!)
疑ったりして悪かった。ちゃんと俺と鈴宮が並ぶように、言い訳まで考えてくれていたのだ。
喜びながら森梨の隣にいる鈴宮を見ると、不安そうに、結んだハチマキの先を引っ張っている。こっちを見てくれれば、安心させてやれるのに。
「え、先輩、大きい順じゃないんですか?」
「利恵りん、俺の前じゃないの?」
意外そうな春野の声と、情けない空野の声。あの様子だと、空野は触る気満々だったに違いない。
その二人に森梨が説明する。
「このメンバーだと、一番鈍いみゃー子を佐矢原くんに引っ張ってもらう必要があると思う。あとは背の順がつかまりやすいでしょ?」
はっきり「鈍い」と言われた鈴宮は、ますます自信喪失という顔をした。
「え、あ、でも……いいんですか?」
がっかりした様子の空野をうかがいながら、春野が森梨に尋ねた。空野が森梨の彼氏であることは、最初に説明済みだ。
「あ、いいのいいの。気にしないで。」
「でも…。」
森梨と春野がごちゃごちゃ言い合っているあいだに、俺は鈴宮のところへ移動。その気配に彼女が顔を上げた。
「そんな顔、久しぶりに見た。」
「…そうだっけ?」
「球技大会以来かな。」
「ああ……、そうかもね。ふふ。」
肩をすくめて笑う様子が可愛らしい。俺が笑顔にさせたのだと思うと嬉しい。
「大丈夫だよ。ムカデ競走なんて、普段から得意なヤツなんかいないんだから。」
「ん……、そうか。そうだね。」
「そういうこと。」
そこで、ぽん、と彼女の頭に手を乗せた。
「ん。」と彼女が声を出したのと同時に、こっちを向いた春野と目が合った。部活では一応先輩として振る舞っている自分のプライベートな部分を見られた気がして、慌てて目を逸らしながら手を引っ込めた。
「早く! 急げ!」
「あれ? 意外に間が詰まってますね。」
「みゃー子、入れる?」
「え、え、どうしよう?」
あっという間にムカデ競走の出番が来て、ムカデ下駄に飛び乗った。俺たちの出番は、ちょうど真ん中あたりだ。4チームの中で、今の順位は最下位。
でも、この下駄を履くのも意外に時間がかかる。今も、まだ2位の青チームが走り出したばかりだし、3位で隣の白チームは下駄を履き終わっていない。
「上手くつかまれない〜!」
後ろで鈴宮の声がする。下駄を履くだけでもバランスが取れないらしくて、さっきから俺の体のあちこちをつかんでいる。ちょっと嬉しいけど…と思っていたら、体操着の肩を引っ張られて、首が締まった。
「猫! ちょっと…苦しい!」
「みゃー子! 肩じゃないよ! 横だよ、横!」
服を戻しながら肩から後ろを振り返ると、どうにか下駄を履いたメンバーが鈴宮から後ろは肩につかまっていた。鈴宮は振り向いた俺の顔を見てうなずくと、俺の両脇あたりの体操着を遠慮がちに握った。
「うははは、それ、くすぐったい!」
やわらかく触れられて、思わず体をくねらせて笑ってしまった。隣の白チームが出発した。途端に、前に向かって倒れている。後ろから森梨の声が聞こえた。
「佐矢原くん! みゃー子の手をつかんで!」
「え? あ、おう!」
これも森梨の作戦か…と思いながら、両手で鈴宮の手を上から握る。彼女のこぶしは俺の手にすっぽりと包まれてしまうくらいだった。
(うわ、小っちゃ!)
…なんて感動したのは一瞬で、すぐに「せーの」と掛け声をかける。とにかく出発しなくちゃならない。順番待ちをしながらずっと練習していたリズムを思い出す。
「一、二、一、二。」
森梨と春野の威勢の良い声が聞こえる。それに合わせて一歩めが出た。二歩めも。そして三歩め――。
「ぐあ。」
「わ。」
下駄がついて来なかった。体が前にのめり、慌てて地面に両手をついた。
応援席から声援と笑い声がわき上がる。すぐ前では白チームの後ろ二人がしりもちをついているのが見える。さらにターンにさしかかった青チームが動けなくなっている。
(頑張れば追い付けるか?!)
起き上がろうとしたら、腰のあたりに鈴宮がしがみついてもがいている。喜ぶべき状況なのかも知れないが、そんなことを考えている暇は無い。
(急げ!)
両手をついたまま足を下駄からはずし、鈴宮ごと起き上がる。腹に巻き付いた鈴宮の腕をそのままつかんで、下駄に靴をねじ込んだ。
「行くぞ!」
「オッケー! 一、二!」
「一、二!」
とにかく片足ずつ、前に、前に、だ。
「あーーーーーー!」
「やっと終わった…。」
カラーコーンをまわり出発地点に戻って、次のメンバーにムカデ下駄を託したとき、全員が疲れ切っていた。俺たちは白チームを追い越し、2位の青チームとの差もだいぶ縮めたのだ!
「お前ら、すげえよ!」
「速かったねー!」
先に走ったチームメイトたちが口々に褒めて迎えてくれた。それに答えられないほど、みんなゼーゼー言っている。
「疲れた〜〜〜!」
列の後ろに座りながら、そのまま仰向けに寝転んで目を閉じた。背中が汚れようが、頭に砂がつこうが、もうどうでもいい。
ムカデ競走の先頭は予想以上の重労働だった。全員のリズムが合っていても、どうしても俺が下駄を引っ張ることになってしまうから。しかも、追いかけることに夢中になって、かなりスピードを上げた。それが逆に笑いを誘ったようで、歓声の中に冷やかしの野次も聞こえたけれど。
「あはははははは! もうダメ、苦し…あははは、やだもう。」
(猫の声だ……。)
疲れた反動で笑いが止まらないようだ。明るい笑い声が嬉しくて、つられて微笑んだそのとき。
(しまったーーーーーー!!)
「うあ。」
がばっと起き上がった俺に驚いて鈴宮がのけぞった。
(忘れてたよ!!)
愕然とする俺を、彼女が不思議そうに見返す。
(せっかくのチャンスだったのに…。)
そう。森梨がくれたチャンス。鈴宮を俺の後ろに……って。
なのに俺は勝負に気を取られて、彼女のことを何も覚えていない。いや、しがみつかれていたことと、ずっと手をつかんでいたことは覚えている。でも、その感触とか温かさとか、嬉しさとか気恥ずかしさとか、そういう記憶が何も無い!
「はあーーーーーー…。」
「そんなに疲れちゃった? でも、楽しかったねー?」
俺がため息をついた意味を勘違いしたらしい。でも。
「…楽しかったか?」
「うん! ついて行くのに必死になってる自分が可笑しくて! あはは! もう一つくらい、何かに出てもいいかなって思うくらい楽しい!」
(え、「もう一つ」?)
「出るか?」
気付いたら訊いていた。自分でもびっくりした。
「え?」
彼女も当然、目を丸くした。でも、せっかくのチャンスだ。言ってしまえ!
「出ようぜ、二人三脚。」
「え、それ……。」
彼女が「まずい。」という顔をする。
「何かあるのか?」
この流れで断られると、やっぱり傷つくけど……。
「さっき『出ない』って言っちゃったから……。」
(なんだ! そうか!)
きっと、浅野か中込のことだ。森梨と汰白の予想どおり、彼女は断ったんだ!
「そんなの、人数合わせで出ることになったって言っときゃいいよ。出ようぜ、猫。」
「人数合わせ……、大丈夫かな?」
「平気平気。文句言われたら俺のせいにしとけよ。」
「そう…? じゃあ、出よっかな。」
「おう。一位目指そうぜ!」
「うん!」
俺の隣で屈託なく笑う鈴宮。
彼女は俺を断らなかった。俺は彼女にとっては特別なんだ!