62 由良 ◇ 衝撃!
(キ、キス、されるかと、思った……。)
その場にへたり込みそうになって、慌てて階段に向かった。身が軽いことに気が付いて自分と周りを見回すと、カバンが廊下に落ちていた。戻ってそれを拾い、よろめくように階段にたどり着く。2段目の隅に腰掛けて、大きく息を吐きながら、コンクリートの壁に寄りかかった。
「はー……。」
こめかみと腕に感じる壁の冷たさにほっとする。目を閉じて頬を壁に押し付けてみるけれど、熱は冷めないし、心臓のバクバクもおさまらない。
(なんであんなこと考えちゃったんだろう……?)
あまりにもリアルな想像だった。だけど、あんなに近くで、あんなふうに――。
(うわー……。)
ダメだ。まだほっぺが熱い。きっと真っ赤になってる。佐矢原くんは気付かなかったかな。
(あ、や。)
佐矢原くんの名前を思ったら、さっきの手の感触が頬によみがえった。少し硬くて、耳元まで届く大きな手。それがふわりと両頬を覆って……。
(うわわわわわわ。だめだめだめ。)
すでに熱かった頬にさらにカーッと熱がのぼる。今度は頭のてっぺんまで熱くなる。心臓が胸を突き破りそう。
(ど、ど、どうしよう?!)
どうしたら良いのか分からない。ただ恥ずかしくて、ドキドキがおさまらなくて。
(あ〜〜〜〜〜〜っ!)
思い切り声を出したい気分。でも、ここでそんなことはできない。だけどじっとしていられない。苦しくて、大きく息を吐きながら膝に腕を乗せて顔を伏せた。
(こんなつもりじゃ無かったのに……。)
情けない気持ちがわいてくる。
(元気をあげるって、自分で言ったのに……。)
どうやってあげるのか選ばせたのもわたしだ。佐矢原くんが、背中は違うって言ったから。
(でも…、でも……。)
まさかこんなに恥ずかしいなんて!
(佐矢原くんは……。)
名前でまた心臓が大きく跳ねた。
(恥ずかしくなかったの……?)
なかったのかも知れない。十まで数えて、最後にニヤッて笑った。いつもの笑顔で。わたしの顔をギュッて挟んで。
(だけど……。)
ゆっくりと顔を上げてみる。さっきの出来事を確認しなくちゃいけないような気がする。何でもないことだと気持ちを整理するために。
体を起こしながら少しずつ上を向く。さっき佐矢原くんを見上げた角度まで。
(このくらい…?)
まだ顔が熱い。胸もドキドキしてる。それを静めるために呼吸をゆっくり深くする。
(何でもない、何でもない。)
胸の中で唱えながら、あのときの佐矢原くんを思い出してみる。
(あれ…?)
はっきりとは思い出せない。佐矢原くんがどんな表情をしていたか。声ははっきりと覚えているけれど。
なんとなくほっとした。これなら落ち着けるかも。
(気が動転しちゃってたからなあ…。)
顔をはさまれて目が合った瞬間から、何もかもが吹っ飛んでしまった気がする。
(だって…、だって……。)
思ってしまったから。「キスされる!」って。
(や〜〜〜〜!!)
顔と耳の熱がぶり返す。急いで腕に顔をうずめるけれど、叫び出したいほど恥ずかしい!
(だって、だって、思っちゃったんだもん!)
そう。あの瞬間に思ってしまった。キスされちゃうかもって。
(ああ! そんなこと考えちゃうなんて! 恥ずかしすぎる!)
あの佐矢原くんが、そんなことするはず無いのに!
(ああ…。)
そんな恥ずかしい想像を振り払えなくて、でも、目を閉じるわけにはいかなかった。だって、目を閉じたら、まるで佐矢原くんにキスされるのを待っているみたいに見えそうで。けれど、目を開けていても、頭の中には、目を閉じたわたしにそっと顔を近づける佐矢原くんの姿が何度も――。
(いや〜〜〜〜! ダメ!)
息苦しくなって顔を上げた。胸に手を当ててゆっくり深く呼吸をしながら、気持ちを落ち着けようとしてみる。けれど……。
(ダメだ……。)
胸はドキドキどころか大きな太鼓をたたいているみたい。頭の中からは映像が消えない。しかも、なんだかさっきよりもリアルだ。本人がいなくなったせいなのだろうか。
(でも……、)
突然ふわりと力が抜けて、気が緩む。
(キスって、どんな感じなの……?)
やわらかいのかな? 場所がずれたりしないのかな? 何秒くらいするものなの? 佐矢原くんなら――。
(うわ、やだ! 何を真剣に考えてるの?!)
真面目に首を傾げているなんて! いったいどれほどキスに興味があるのか……。
「あー……、ダメだ……。」
思わずつぶやきが漏れた。
(もう無理、今日は。)
思考が普通じゃない。顔も熱いままだし、ドキドキも繰り返してばかり。こんな状態では誰にも会えない。
(部活、休んじゃお。)
佐矢原くんに元気をあげるなんて、わたしには仕事が大き過ぎたのかも知れない。本当に元気を吸い取られちゃったような気がする。
(だって……。)
足がよろよろしてる。手すりにつかまって階段を下りるなんて、普段は絶対にしないのに。
自転車をこいで風に当たっても、頬はちっとも元に戻らなかった。ドキドキはとりあえずおさまったのに、顔だけがいつまでも熱い。夕食の準備をしているときには、お母さんにも指摘されてしまった。授業で指名されて恥をかいたと言ってごまかしたけれど。
おさまったのはお風呂に入ってから。湯船につかっているあいだに、全身の血が上手くまわるようになったみたい。けれど。
(きゃ〜〜〜〜〜〜!!)
スマートフォンにかかって来た電話に、またパニックになりかける。画面に表示された名前は「佐矢原直樹くん」。
(わ、わ、わ。)
震える左手を右手で押さえながら応答する。「はい。」という一言が信じられないほど弱々しかった。
『あ、あの、俺…佐矢原だけど。』
「うん、…うん、わかる。」
相手は分かるけど、何を言われるのか分からなくて怖い。心臓はまたしても超特急に。
『あの、今日、部活…休んだって聞いて……、空野から。』
「あ……。」
(心配してくれたんだ…。)
緊張が解けて力が抜けた。同時に、佐矢原くんのやさしさに胸がいっぱいになった。
『俺…、その…、もしかしたら猫のこと驚かせちゃったかな…って思って……。』
「そんなこと――」
そこまで言って、慌てて息を止めた。急に涙が出そうになってしまって。
(やだ、だめ!)
少し情緒不安定になっているのかも知れない。呼吸を整えながら、気持ちを落ち着ける。軽く咳払いをして言葉を探した。
全部を否定するのはウソっぽい気がする。ここは少しだけ本当のことを言おう。
「うん、びっくりした。ちょっとだけ。」
こうやって軽く打ち明けてしまう方が気持ちが楽だ。
「思ったより恥ずかしくて、『どうしよう?』って焦っちゃった。」
『だよな……。ごめん。』
「あはは、いいよ、もう平気だから。それに、あたしが『元気をあげる』って言ったんだもんね。」
そこでまたあのシーンが浮かんできた。わたしの頬を両手ではさんだ佐矢原くんが、そっと顔を――。
(違うから!)
目を閉じて頭を振り、その映像を追い払う。またしても火照ってきた頬を冷ましたくて、手の甲をあててみる。
『そうだけど、でも…。』
納得できない佐矢原くんの声が聞こえてくる。
「佐矢原くんは何もしてないでしょ?」
そう。ただ、わたしの頬に手を当てただけ。勝手な想像に走ってしまったのはわたしの方なのだから。
『だけど…。』
「それに、部活を休んだのは、家の用事を思い出したからなの。」
小さなウソ。でも、本当に佐矢原くんは何も悪くない。
『え、そうなのか?』
「うん。早く帰らなくちゃいけないの、忘れてたんだ。」
『そうか。それならいいけど…。』
ほっとした様子が伝わって来て、わたしもほっとした。そのまま話題を変えることにする。
「ねえ? 追試はどうだったの?」
『あ、ああ、まあ、結構できたと思うんだけど……。』
「じゃあ、良かったね。」
『うん……、だけど、前のときだって、できたつもりでいたんだぜ?』
「え、そうだったの?」
『そうだよ。なのにあんな点数でさあ……。』
普通の話をしているうちに、昼間のことは頭の隅に追いやられて行った。明日になれば、きっとあの出来事の位置づけが確定して、わたしの気持ちも落ち着いているに違いない。
「また明日ね。」と言って電話を切ったとき、まだ胸の中があたたかかった。そして。
(会いたいな……。)
浮かんできた言葉に首をひねった。
こんなことを思うのは初めてだ。
たった今まで話していたひとのことを懐かしく思うなんて……。