61 自分でびっくりした!
(ひぁぁぁぁぁぁ……。)
返された世界史の答案用紙を見て、髪の毛が逆立つような寒気を味わった。それから鼓動が速くなる。
(37点?)
ざっと見ただけで「○」よりも斜めの棒が多いことはすぐに分かる。だけど。
(37点……?)
自分の席へと戻るあいだも答案用紙から目が離せない。周囲のざわめきを背景に、ドッドッドッドッという心臓の音が耳に響いてくる。
(マジか…?)
ほとんど全部埋まっている回答欄。でも、そこについている「○」は少しだけ。
(ちゃんと勉強したのに……。)
信じられない。勉強はサボっていない。だから余計にショックだ。
(なんで……。)
席について、試験までの日々を思い出してみる。
鈴宮に声をかけようと決意した翌日から、ほとんど毎日、彼女と一緒に帰ることができた。と言っても、二人きりではなかったけれど。
俺は大きくて目立つせいか、すぐに男から「帰ろうぜ。」と声をかけられてしまう。俺が女子と縁が無いと思われているのが原因かも知れない。そう言われると断れず、そのあいだに鈴宮も、同じ方向に帰る女子に「みゃー子、帰ろう。」と誘われてしまう。
最初はがっかりだと思ったそれが、実際には都合が良かったことがすぐに判明した。しゃべったりふざけたりしながら彼女たちをグループに巻き込んで、みんなで一緒に学校を出れば、最後には自動的に俺と鈴宮が二人だけになれるのだ。それが何度も続いているうちに、彼女が俺と帰るのは当然にして自然なことと、本人も周囲も認めるに至った。ゆくゆくは、俺が彼女を「帰ろうぜ。」と誘っても、誰も気にしなく…なるに違いない。
そんな充実した気分で、試験勉強もはかどった。事実、この世界史以外の科目はすべて平均点以上だった。なのに。
(どうなるんだ、これは……。)
どんな成績が付くのだろう。今までテストでこんな点数を取ったことは無かったのに。
一番後ろの席で良かったと思いながらぼんやり答案用紙を見ていたら、全員に返し終わった先生の声が聞こえた。
「平均点は71点。40点以下は追試な〜。」
(平均71……。)
俺はそのほぼ半分だ。そして追試。
「対象者は自分で分かってるな〜? 追試で救ってやるんだから頑張れよ〜。実施は明日の放課後、視聴覚室だぞ〜。」
(明日?!)
そんなにすぐなのかと焦って顔を上げた。そこで気付いた。教室中でそんな焦った様子をしている生徒はほかにいなかった。
(まさか、俺だけ……?)
また髪の毛が逆立つような寒気におそわれた。先生と目が合いそうになって、慌てて視線を落とす。名指しされたりしたら格好がつかない。
何がなんでも追試で高得点を取らなくちゃ、と思うのに、あまりのショックで何も頭に入る気がしなかった。
翌日の放課後は、あっという間にやって来た。
前日に家でもう一度勉強してみたが、試験前にやったことばかりで、目新しいことは特に無いように思えた。だとすると、結果は同じじゃないだろうか。
(もうダメかも……。)
一日中、何度も頭に浮かんだ言葉を繰り返しながら、重い足取りで東棟にある視聴覚室へと向かう。野球部の剛にだけは、追試で部活に遅れることを話しておいた。
「佐矢原くん、どこに行くの?」
涼やかな可愛らしい声に振り向くと、鈴宮が微笑んでいた。昇降口のある西棟とは反対方向に向かう俺を不思議に思って声をかけたのだろう。切りそろえたしなやかな髪といつもの真っ白なベストと半袖ワイシャツが、今は一段とまぶしい。
彼女はぼんやりしていた俺の隣にちょこちょこと小走りにやってきて並んだ。北棟2階に部室のある彼女は、東棟を通る方が近い。並んで歩けるのは嬉しいけれど、俺の視線は憂うつに下を向く。
「ええと……視聴覚室。」
少し迷ったけれど、本当のことを言うことにした。みんなに知られるのは恥ずかしい。でも鈴宮になら、こういう自分を見せてもいいやと思った。彼女なら俺を馬鹿にすることは無いだろうし、弱音を吐いて甘えられる相手は、俺には彼女しかいない。
「視聴覚室?」
「そう。追試。世界史の。」
そこまで言ったら小さなため息が出た。
「ああ、そうだったんだ?」
明るく納得されて彼女の方を見たら、彼女も笑顔で俺を見上げた。
「今日、元気ないなあって思ってたんだ。それのせいかな?」
そう言ってやさしく「ふふっ。」笑った。
「俺、元気なかったか?」
「無かったよ。全然。」
「そうか…。」
(気付いてくれたんだ…。)
俺のことを見ていてくれたのだと思うと嬉しい。嬉しいけれど、やっぱりため息が出る。また点が取れなかったら…と考えて。
「きっと大丈夫だよ。ちゃんと勉強したんでしょ?」
「してきたけどさ、あーあ……。」
東棟に曲がってすぐのところにある階段を下りる。視聴覚室は3階だ。一緒に階段を下る彼女は、ちらちらと俺を見ながら黙っていた。
3階に下りると廊下が静かだった。この階はおもに3年生の教室で、もう部活を引退した先輩たちは、放課後にはまっすぐに昇降口に向かうからだろう。中庭を見下ろせる廊下には、今は誰の姿も無い。
「まさか俺だけなんじゃ……。」
立ち止まり、絶望的な気分でつぶやいた。
「ねえ?」
隣で鈴宮の声がする。
「ん……?」
沈んだ気持ちのまま見下ろすと、彼女は目をキラキラさせていた。
「ちょっとこっち来て。」
「え? え? おい。」
肩に掛けていた野球部のバッグを引っ張る彼女に慌ててついて行く。視聴覚室を通り過ぎ、突き当りを曲がって北棟に入ると、彼女は通って来た廊下とすぐ前にある階段をのぞいて確認した。俺はそれを見ながら、よく分からないまま、肩から野球部バッグを降ろす。
「佐矢原くんに、元気をあげなくちゃ。」
俺の前に立った彼女が、いきなり宣言した。その顔には少し得意げな微笑みが浮かんでいる。
「えぇ? ははっ。」
可愛らしい提案に笑ってしまった。でも、彼女は本気らしい。バッグを胸に抱えた格好で、俺に一歩近づいた。
「だってほら、前にあたし、元気をもらったでしょう? だから、今日はあたしがあげる。」
(え…?)
「あげる」という言葉に、思わずドキッとする。
そんな場合じゃないのは分かってるけど、こんな近くでそんなことを言われたら、「くれるんなら、もらっちゃうけど。」と言いたくなる。しかも彼女は、誰も来ないことを確認していた。と言うことは……。
(どこまで。何を。)
手がそわそわする。さり気なく姿勢を正しながら、手のひらをズボンにこすりつけた。
「どうやったら元気が出るのかなあ?」
その言葉になんとなくほっとした。何かすごいものをくれようとしたわけではなかったようだ。
人差し指をあごに当てて考える彼女をドキドキしながら見守る。俺の希望を口に出すわけにはいかない。万が一「いいよ」と言われても、公の場所では落ち着かなくて無理だ。
「やっぱり背中かな?」
(背中?!)
可愛らしく俺を見上げると、後ろを向こうとする彼女。でも。
「え、あ、いやあの。」
慌ててそれは止めた。
彼女が自然科学教室でのことを言っているのは分かった。彼女が想定しているのは、俺が手のひらで触れることだ。でも、俺は彼女の背中には違う思い出がある。またあれに触ってしまったらと思うと気が気じゃない。それに、こんな場所で後ろから体にさわったら、自分がどうなるか自信が無い。
「そ、そのちっちゃい背中から元気を吸い取ったら、猫がますます小さくなりそう。」
冗談に紛らせて断ると、彼女は「そんなの困る!」と笑った。そんなことさえ、やっぱり可愛い。それから今度は楽しそうに俺を見上げて首を傾げた。
「じゃあ、どこがいい?」
(俺に選ばせるのか……?)
どこまでも俺を疑っていないらしい。その信頼が嬉しくもあり、悲しくもあり……。
「そうだな、じゃあ…。」
そわそわする気持ちを隠しながら、どこなら許されるかと大急ぎで見極める。頭じゃいつもと変わらない。肩は抱き寄せるみたいで気が引ける。でも、せっかくだから、いつもとは違うどこか……。
「よし、ここだな。」
決めると同時に、素早く両手で彼女の頬をはさんだ。
「ふに?」
「ふ。」
驚いた彼女のおかしな声に思わず笑ってしまう。でもその直後――。
(う。)
息が止まってしまった。想像以上の近さに。
(ヤバいヤバいヤバい。まずいだろ、これは。)
心臓がどっかんどっかんと胸を叩き始めた。
俺に顔を固定されて、驚いたまま動けない彼女。人通りの無い廊下で、間近に見つめ合う俺たち。
(ヤバい…。)
頭の中に、窓を背景に向かい合う二人のシルエットが浮かぶ。女の子の頬に手をかけた背の高い男がゆっくりと身をかがめて――。
(うわわわわ! なんとかしろ!)
理性を奮い立たせながら息を吸う。何か言葉を――。
「いーち」
出てきた言葉は数字だった。それでも、やることが見つかってほっとする。
「にーい」
鈴宮がぱちりとまばたきをした。俺の心臓は変わらずパワー全開だ。
「さーん」
声が震えそうだ。頭の中の映像を追い払いたい。けれど、それは簡単ではなくて――。
「しーい」
(猫。好きだ。ものすごく。)
心が叫ぶ。
「ごーお」
(キスしたい。いや、ダメだ。ごめん。)
「ろーく」
(ああ……、チャンスなのに!)
「しーち」
彼女は大きな目で俺を見上げたまま。
「はーち」
俺は落ち着かなくなって視線を逸らす。
「きゅーう」
でも確認したい。彼女がどう感じているのか。
「じゅう!」
最後に彼女の瞳をのぞき込む。
(猫。好きだ。)
手を離したくない。
名残惜しい気持ちを振り払うため、頬をはさむ手にぎゅっと力を込めた。一瞬、面白い顔になった彼女が「う」と声を出しているあいだに手をひっこめる。
「うー……。」
自分の手を頬に当てて、困ったような情けない顔で俺を見上げる彼女。それにどうにか笑いかける。不敵な笑いに見えると良いけれど。心臓が爆発しそうだ。
「よーし、元気が出た! じゃあな、猫。サンキュー!」
床に置いたバッグを肩に掛け、くるりと彼女に背を向ける。
視聴覚室へと急ぎながら、頭がぐるぐるして、今にも尻もちをつきそうだった。