60 勉強中!
(あーあ。)
テスト勉強のために部活が無くなっているっていうのに、今日はちっとも勉強に身が入らない。教科書を開いたままずっと机に頬杖をついて、ぼんやり消しゴムを転がしているだけ。
(先に帰っちゃうんだもんなー……。)
考えるのは鈴宮のことばかり。俺がうちのマネージャーと話しているあいだに、普通に笑顔で「バイバイ。」と手を振って行ってしまった。
(きのうは一緒に帰ったのに…。)
それだって空野と森梨が半ば強制的に、俺に送ってもらえと彼女に勧めたからだけど。
本当はそんな協力をされなくても、俺は自分で彼女に声を掛けるつもりでいた。――まあ、鈴宮がOKしたかどうかは分からないから、二人には一応、感謝はしている。とは言っても、空野と森梨は心の底では面白がっているんじゃないかと思う。
(あーあ。)
でも、今日はうちのマネージャーがやって来て、帰る話もできなかった。
(だけどさあ…。)
いくら俺に来客があったからって、あんなにさっさと帰らなくてもいいのに。俺の様子をうかがう気配も無かった。「バイバイ。」って可愛く声をかけてくれたことだけでも嬉しく思わなくちゃいけないのかも知れないけれど。
(やっぱり猫は、俺のことなんかどうでもいいのかなあ…。)
夏休み中にも電話やメールもした。練習試合で勝ったときはアイスで一緒に祝った。剛たちのことで愚痴を聞いてもらったし、この前だって、電話で「俺たちは結構仲がいい」って言ったら、「そうだね」って認めたじゃないか。なのに。
(まあ、だからって、毎日一緒に帰るってことにはならないけどさあ…。)
マネージャーの用事なんかすぐに済んだのに。きのうは一緒に――。
(あ、まさか。)
もしかして、きのう、つまらなかったのか? 楽しそうに見えたけど、本当はちっとも面白くなかったとか……。
(え……?)
そうなのか? だとしたら? だとしたら? だとしたら……?
(俺の出番、終わり……?)
ドスン! と、玄関のドアの音が響いてきた。続いて「ただいま〜!」と颯介の声。
(あっちも部活無しか……。)
ぼんやりと思っているうちに、「そうっと閉めなさいって言ってるでしょ!」と母親の声が聞こえ、颯介の「は〜い。」というのんびりした返事が続く。それから、鼻歌を歌いながらドスドスと階段を上ってくる足音。
(颯介のヤツ、ご機嫌だな。)
足音を聞きながら軽く身構える。颯介は何か良いことがあると、必ず俺に自慢しに来るから。嬉しいと黙っていられない性質なのだ。歳が近いから、俺に対するライバル心もあるらしい。
「兄貴〜。」
呼びながら勝手にドアを開け、部屋に入ってくる。椅子を回転させてドアに体を向けた俺を見もしないで、赤いバッグを置き、床に胡坐をかいて座る。
「俺さあ、今日さあ、」
日に焼けた顔をほころばせて、やっと俺を見上げた。その態勢で足首のあたりをつかんで、体を左右に揺らしはじめる。こういう落ち着きのない態度は、小さいころから変わらない。颯介はそこで話を切って、両手で口元を覆うと「うひひひひ。」と笑い出した。
弟と言っても、体の大きな男のこんな態度は見ていられない。呆れてため息が出る。
「俺は勉強中。」
「ああ、すぐ出て行くよ。」
颯介はまた「うししし。」と笑ってから、笑顔のまま俺を見上げて言った。
「今日、天使に会った。」
なんとなく、言いたいことは分かった。でも、鈴宮に先に帰られてしまった今日は、そんな話を聞きたくない。
「事故にでも遭って、死にかけたのか?」
勉強に取り掛かるふりをして、颯介に背中を向ける。颯介がそんな態度ぐらいで遠慮するような奴じゃないってことは分かっているけれど。
「兄貴、勘がいいな!」
「え?!」
思わず振り向いた。
「お前、事故ったのか?!」
元気そうだけど、どこか怪我でもしているんだろうか?
「自転車でね。」
心配して体を眺めまわすと、颯介はニヤリと笑ってみせた。その態度にほっとして力が抜けた俺に、「ほら」と、左腕を持ち上げてみせる。
「これ、キズ。」
肘のあたりに、広い範囲の擦り傷がある。もう血は止まっているようだけど。
「ああ……。そのくらいで済んで良かったな。」
「うん。自転車も壊れなかったし。」
「相手は?」
「いないよ。飛び出してきた小学生をよけて転んだだけ。」
「お前……、危ないぞ。転んだところに車が来ることだってあるんだから。」
「そうなんだよな。俺もラッキーだったと思ってる。あ、母ちゃんには内緒な?」
「まあ、今回はな。」
自転車が無事で怪我がこの程度なら、親に報告する必要も無いだろう。そもそも普段から颯介はラグビーの練習で生傷が絶えないのだし。
「で? 天使に会ったって?」
たいした事故ではなかったことにほっとして、思わず話題を振ってしまった。心の中で、「一応、聞いてやるよ。」と付け加えて。
「そうなんだよ。」
颯介が熱心に身を乗り出した。
「やさしくって、ちっちゃくって、可愛いんだ! まさに俺の天使!」
言ったあとキョロキョロしていると思ったら、ベッドから俺の枕を取って「かわい〜〜〜っ♪」と抱き締めた。
(そういう気持ちは分かるけど。)
俺も鈴宮のことを思い出しながら同じことをしたことがある。あれをほかの人間が見ると、こういう感じに見えるわけだ……。
「転んだところに通りかかって、この傷、手当てしてくれたんだ。ちょうどその子の家の前でさ。」
「へえ。」
「このくらいの傷なら平気だと思ったんだけど、ばい菌が入っちゃうからって大慌てでさあ。その慌てぶりがまた可愛くて。」
「ふうん。」
聞いているうちに、鈴宮が頭に浮かんだ。彼女もきっと、同じようにするんだろう。驚いたり慌てたりする姿が簡単に想像できる。
「で?」
枕を抱いて思い出に浸っている颯介に声を掛ける。
「え?」
「会って、手当てしてもらって、終わりか?」
「あ、ああ、まあ、今日はね。」
「『今日は』?」
俺の質問に、颯介はまた「うししし。」と笑った。
「今度、お礼を持って行く。」
「ああ、なるほど。」
家を知っているのだから、直接会いに行くってわけか。連絡先を聞きだすよりも確実で有効な手段だ。
(そうだよな。)
嬉々として話し続ける颯介を見ながら思った。
たった一回、一緒に帰れなかったくらいでくよくよしてるなんて、馬鹿みたいだ。明日もあさっても、学校に行けば彼女に会える。一緒に帰りたければチャンスはあるのだし、そう意思表示すればいいだけだ。
「名前くらいは訊いたのかよ?」
「え? ああ…、うひひひ、まあね。名前も可愛いんだ〜♪ でも教えなーい。」
「お前がフラれる相手の名前なんか、教えてもらう必要無いね。」
ほとんど義理――または家族の愛情――で颯介の話に乗りながら、頭の中では明日のことを考える。
(よし。さり気なく、だな。)
放課後の教室で格好良く鈴宮に声をかける自分と、それに応えて恥ずかしげに微笑む鈴宮の姿が目に浮かぶ。二人で並んで廊下を歩く姿も。それはとても当たり前で簡単なことに思えた。
(きっと猫は断らないな。)
その自信がどこからわいてくるのか分からない。でも、明日の帰り道を考えると想像がふくらんで……、やっぱり勉強に身が入らなかった。