57 俺にはやっぱり彼女だけ
(何なんだよ、もう…。)
午後の授業が始まってからも、空野と剛のことが頭を離れない。
別に、あの二人に彼女ができたってことはもういい。納得した。祝福してやる。でも、俺がどうにもこう…やる気が失せてしまうのは、二人の鈴宮への想いのせいだ。
俺が「じゃあ、もう鈴宮のことはどうでもいいんだな?」と確認したら、二人とも大慌てで
「馬鹿! どうでもいいわけないだろう?!」
「そうだよ! 由良ちゃんのことは、今だって大好きだよ!」
と答えたのだ。
驚く俺に、二人は
「由良ちゃんは輝く星のような存在。」
「ほかの女子とは比べられない。」
「変なヤツに穢されるのは許せない。」
「あの笑顔を忘れられるはずがない。」
などと、恥ずかしげもなく並べ立てた。それを見ていて気付いた。この二人にとって、鈴宮はアイドルみたいなものだってことに。
確かに彼女の清楚な可愛らしさとか、口数が少なくて引っ込み思案なところは、むやみに近付いてはいけない雰囲気がある。まあ、一般的に見れば、彼女は単に目立たない生徒なのだけど。どこかで『会いに行けるアイドル』とかいうフレーズを聞いたような気がするが、空野と剛には、鈴宮は『毎日会えるアイドル』というところだったのだろう。しかも、席はすぐ前だ。
そんな気持ちでいたから、あの二人は<愛でるルール>で満足できていたのだ。要するに鈴宮は、そばにいるけど眺めるだけの存在だったのだ。それが正解だったのだ。
「だから直樹、これからも由良ちゃんにおかしなことをするんじゃないぞ。」
「そうだぞ。俺たちが見てないと思うなよ。」
「でも、由良ちゃんの彼氏の座は直樹に譲ってやる。」
「俺も協力するよ。汰白も直樹なら合格って言ってたしな。」
「あ、利恵りんもだよ。」
と、二人は口々に言った。
今さらこの二人に「協力する」って言われても、あまり有り難い気がしない。逆に不安になってくる。それに、俺のプライバシーを彼女との話題に使わないでほしい。
(あーあ。)
なんだか空しい。今までの努力や混乱は、いったい何だったのだろうか。
「じゃあ、鈴宮。8行目から読んで。」
「はい。」
鈴宮の軽やかな声が教室に流れる。教科書に書いてあるただの文章が、彼女の声で風になる。
(そうだ!)
それを聞きながら思い付いた。
(猫になぐさめてもらおう!)
彼女ならきっと、俺の気持ちを分かってくれる。
「そりゃあさ、直接話したいっていう気持ちは嬉しいけど。」
夜の10時過ぎ。鈴宮に電話で愚痴を言っている。ベッドに寄りかかって、床に足を投げ出して。
「だけど、剛と空野は、お互いに電話で話してるんだぜ? 俺だけ仲間外れにされたみたいに感じてもしょうがないだろ?」
『うん…、そうだね。』
今日、部活が始まる前に、鈴宮に「今日、電話してもいいか?」と訊いてみた。彼女はちょっと驚いた顔をしたけれど、すぐににっこりして「いいよ。何時ごろ?」と言ってくれた。たぶん、その時点で、俺が空野たちの話をしたいのだと、ある程度は見当がついていたのだと思う。
「だけど、そんなこと言えないし……。」
『うん。そうだよね。』
愚痴と言っても、空野たちが鈴宮のことをアイドル扱いしていることは、さすがに言えない。だから、言える方の愚痴だけを言っている。要するに、なぐさめてもらえるなら何でもいいのだ。
自分が拗ねて甘えているだけだってことは十分に分かっている。分かっているけど、俺を癒してくれるのは鈴宮しかいないのだから、仕方ないと思う。
『しかも、聞かされたのが本人からじゃなかったから、余計に気になっちゃうよね。』
「そう! そうなんだよ!」
言われてみて分かった。本当にそのとおりだ。
(やっぱり俺の猫だ。)
彼女だけは、俺のことをちゃんと理解してくれる。
「剛とは毎日、顔を合わせてたし、リレー練習の話だってしてたんだよ。だけど、汰白と一緒に帰ってることも言わなかったんだから。」
『そうなんだ…。仲が良かったのに、そういうのは淋しいね。』
「いや、まあ、言いにくかったのは分かるんだけど…。」
同情の言葉をもらってみると、今度は剛の弁護をしてしまう。そんな俺に、彼女はやさしくつぶやく。
『でも、やっぱり淋しいよね。』
いつもなら、そんなことを認めたりしない。弱気な自分は見せたくないから。けれど今は――。
「そうなんだよな……。」
素直に言えた。
『うん。』
彼女の声に、親しみとやさしさと一緒に、安堵感も混じっているように感じた。俺が本音で答えたことに、彼女は満足してくれたのだと思った。
(俺の、猫。)
胸の中がやさしい温かさで満たされる。気付いたら、もう気持ちが晴れていた。
『だけど、空野くんと富里くんも、びっくりしてたよね。』
彼女が可笑しそうにくすくす笑う。
『特に空野くんは気の毒だったよ。すっごく慌ててたじゃない?』
「ああ、確かに。」
剛は成り行きを察して逃げ出したし。恥ずかしかったのか、男子からの攻撃を恐れたのか、俺に合わせる顔が無かったのか……、きっと全部なのだろう。
『あたしはね、利恵ちゃんから、今日のうちに発表するって聞いていたの。でも、まさか、聡美までやるとは思わなかった。』
「って言うか、汰白と剛の組み合わせ自体が驚きだろ。」
『ああ…、そうだね。しかも、聡美の方が先に好きになったなんて、とっても意外。聡美は告白される方だって思っていたから。』
「ああ、俺もだよ。」
汰白が剛を好き過ぎて、失敗ばかりしているという話も……うらやましい。
『ねえ?』
「ん?」
少し真面目な声で聞こえてきた彼女の声。
『利恵ちゃんと空野くんは、彼氏と彼女になったわけでしょ?』
「そうだよ。」
空野本人から「それだけ利恵りんのことが好きなんだよなー。」なんていう言葉を聞いたのだから、間違いない。
『それって、今までとどう違うのかなあ?』
「え?」
鈴宮が聞きたいことがよく分からない。
『利恵ちゃんと空野くんは、今までだってあだ名で呼び合っていて仲良しだったよ。でも、これからどう変わるの?』
(やっぱり猫だー…。)
この純粋さは絶対にほかの女子にはあり得ない。
「そうだな、たとえば二人で出かけたりとか。」
『あ、デート? デートだ。そうだよね!』
(なんて可愛い反応なんだ!)
「うん、そうだよ。あとは、手をつないで歩いたりとか。」
『利恵ちゃんと空野くんが? ああ……。』
そのぼんやりした反応は、想像しきれていないってところか。ってことは、これ以上は彼女には刺激が強すぎるかも。
「なあ……、あのさ。」
『ん、なあに?』
(あー…。)
彼女の「なあに?」っていう返事がものすごく好きだ! 何回聞いても、可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて――。
「もし。もし、だけど。」
『うん。』
「ええと、その、デート、を、するとしたら、どこに行きたい?」
『え? あたしが?』
驚いた顔が目に浮かぶ。
『そうだなあ…、海?』
「海? 泳ぐの嫌いだって言ってたのに?」
『あはは、泳がないよ。見るだけ。』
「見る?」
『そう。波の音を聞きながら、ぼんやり見るの。』
「彼氏と一緒に?」
『彼氏? あ、そうだった。うん、一緒に。』
俺が「デートするとしたら」と言ったのを忘れていたらしい。でも、そんなところも彼女らしい気がする。
『空もいいな。』
「空を見るのか?」
『うん。青空でも夕焼けでも、星空でも。』
「ああ…。」
(俺と二人で星空を見たんだけどなあ…。)
それは忘れちゃったのかなあ…。
『あ、そうか。』
「どうした?」
『あたし、きっと、広くて大きなものが好きなんだ。』
「ああ、なるほど。」
広い草原で風に吹かれて、気持ち良さそうに立っている彼女が目に浮かぶ。それはまさに、無垢な彼女にぴったりのイメージだ。
『だから佐矢原くんの背中が好きなんだね。』
「へ?」
思わず声が裏返った。
(好き? 好きって言った? 好きって言ったよな、今?!)
「あ、あの、あの、あの――」
どう言葉を返したらいいのか分からない。あまりにも突然だったから。
(ここで俺も気持ちを伝えれば…。)
『あ!』
「え?!」
思わず過剰な反応が…。
『ち、違うから! ごめんね、ごめんね! 変なこと言っちゃって、ごめん!』
「あ、ああ…。」
(違う……のか。)
がっかりだ。しかも、「好き」って言ってくれたことは、絶対に「変なこと」じゃないのに……。
『も〜〜〜う! 聡美に言われてたんだよ、「みゃー子は簡単に『好き』って言っちゃいそうだから気を付けて」って。』
(えーーーー…。)
汰白は何を言ってるんだ! そんな注意をしたら、鈴宮に「好き」って言ってもらえなくなるじゃないか!
(いや、逆に考えれば…。)
それでも彼女が言ったってことは、それくらい俺のことが好きってことか?
「ははっ。」
(違うよな。)
彼女は汰白の注意を忘れていたのだから。それに、彼女が気に入っているのは俺の<背中>だ。
「もういいよ。」
電話の向こうでいつまでも謝っている彼女を止める。
「俺は勘違いなんかしないから。猫が気に入ってるのは、俺の背中だけなんだろ?」
『う…、あの……、別に、佐矢原くんには背中だけしかいいところが無いって言ってるわけじゃなくて……。』
「うん、分かってる。」
ほかの女子なら、こんなときにはお世辞の言葉でも簡単に言うのだろう。けれど、もともと口数が少ない彼女は、思っていないことを口に出したりはしないような気がする。だから彼女の言葉には真実味があって……。
(そうか。)
だから、汰白が彼女に「気を付けて」と言ったのだ。あまりにもストレートに気持ちを言葉にしてしまうから。
『ねえ…、佐矢原くん……、本当に……。』
まだ弁解してる。今、彼女がどんな顔をしているか、手に取るように分かる。
「分かってる。どっちも大丈夫。」
『どっちも?』
「そう。どっちも。鈴宮が俺のこと……、まあ、結論を言えば、俺たちは結構仲がいいってこと。」
『ああ…うん。』
ほっとした声がする。
『うん。そうだね。ありがとう。ふふ。』
(お礼を言ってくれた……。)
俺が「仲がいい」って言ったことに。
彼女が俺と仲がいいことを受け入れてくれた。
こんなに嬉しそうに。
『ねえ、佐矢原くんは、彼女とどんなところに行きたいの?』
「え? そうだなあ…。」
今はここまででいい。だって、彼女とこんなふうに話をする男は俺だけしかいないのだから。
この関係を、大事に大事に育てていこうと思う。