54 豚汁試作会
夏休み最終日の午後に、文化祭の料理チームの集まりがあった。前回の打ち合わせで決まった一食分の予算で、どれくらいのものを作れるのかの試作と手順の確認が目的だった。
会場になった鈴宮の家にやって来たのは5人。空野は将棋の大会で参加できず、剛は料理のメンバーには入っていない。午前中の部活が終わっていそいそと帰り支度をする俺を、体育祭のリレー練習に残る剛が何か言いたそうな顔で見ていた。
「さて、と。」
集合して一息ついたあと、テーブルに並んだ食材をとりあえず確認する。
「豚肉、ごぼう、にんじん、こんにゃく、椎茸……。」
メモを読み上げる赤羽史帆と、それに合わせて食材を並べ直す矢住萌美。二人とも吹奏楽部で、普段から仲がいい。この顔ぶれだと、この二人が中心になるようだ。
「手順は?」
「切って、炒めて、煮込んで、味付け。オッケー?」
「オッケー。」
二人のテンポの良いやり取りに、残りの4人がうなずく。
俺たちのクラスのメニューは「豚汁定食」。豚汁とおにぎり2個のセットだ。文化祭の二日間で200食提供する。今日はとりあえず5食分を作ってみることになっている。
食材の重さを量ることから始まった試作は、和やか且つ賑やかに進んでいった。赤羽と矢住が俺と中込にもできそうなことを指示し、南野は二人にお伺いをたてながら仕事を進めていた。もしかしたら、また鈴宮に包丁指導をしてもらえるのではないかと期待していた俺だったが、包丁は握らせてもらえないようだ。調理実習のときと同じ水色のエプロンをかけた鈴宮は、にこにことザルを出したり、ゴミを片付けたりしながら、さりげなくテーブルを囲むみんなの手元に視線を走らせていた。
「ちょっと待って! ごぼうはささがきでしょ!」
不意に、赤羽の鋭い声が聞こえた。その声に全員の動きが止まった。
「え? いいじゃん、そんなことしなくても。あたし、それ苦手。薄切りでいいでしょ?」
めんどくさそうに答えたのは矢住。ごぼうはまな板の上に乗せられている。
「え〜、ダメだよ、ささがきじゃなくちゃ。歯ごたえも香りも違うんだから。」
どうやら切り方のことを言っているらしい。けれど、俺にはどう違うのかはよく分からない。自分の家の豚汁がどうなっているのかも、あんまり思い出せない。隣の中込を見ると、俺の視線に気付いて肩をすくめてみせた。
「じゃあ、史帆がやって。あたしは無理。」
半分ふて腐れた様子で、矢住が赤羽にごぼうを差し出した。それを受け取った赤羽は、ごぼうをじろりと見たあと、空中にごぼうと包丁を構えた。包丁はほぼ水平で、刃は前を向いている。
(へえ。)
ささがきというのはああやって切るのか……と思ったとき、テーブルの長い方の向かい側で目を見開いて固まっている鈴宮が目に入った。
(あれ?)
「ひえ。」
隣で中込が小さく叫んだ。シュッとごぼうの表面を削った包丁が空を横切ったのだ。
「あっぶな…」
「こわ。」
テーブルの周囲から、赤羽と鈴宮を除く全員が一歩下がった。けずられたごぼうの一切れが、ぽとりと白いまな板に落ちた。それは薄くて長い切れ端で、赤羽の持っているごぼうはほとんど形を変えていなかった。
(なるほど…。)
ささがきというのは、薄く切るのがポイントらしい……と、思っている間に包丁がもう一閃。
(こわっ。)
本格的なのかも知れない。美味しくできるのかも知れない。でも危ない。
空を切る包丁が恐ろしくて、誰もテーブルに近付けない。赤羽の真剣な表情も恐怖心をあおる。
一同無言の中、シュッ…、シュッ…と数度包丁が往復したところで、鈴宮が「ねえ、史帆。」と明るく声をかけた。止まった包丁に、俺たちは密かにほっ息をついた。
「ささがきって、あたしたちにはちょっと難しいみたい。」
申し訳なさそうに微笑んで、鈴宮が続ける。
「たぶん、みんな、そんなに手早く上手にできないと思うの。でも、だからって、史帆に200人分全部を頼むわけにもいかないでしょう?」
「え、200人分…?」
赤羽の腕が力なく下りて、包丁とごぼうがまな板の上に乗った。俺たちはさらにほっとした。
「だから、今回は普通に切っちゃうんじゃダメかなあ?」
鈴宮の提案に赤羽は自分の前のごぼうを見た。ささがきの切れ端は、まだあまりたまっていない。それから彼女は、テーブルから離れて立っている俺たちを見回した。そして、小さくため息をついた。
「そうだね。」
緊張が解けて、俺たちはこっそりと視線を交わした。
「高校の文化祭の豚汁に、本格的な味を期待してくるお客さんもいないよね?」
「まあ、たぶんね。」
納得した赤羽に鈴宮が穏やかに相槌を打つ。笑顔でうなずき合う二人に誘われるように、俺たちも持ち場に戻った。
「もしかしたらこれ、ピーラーが使えないかなあ?」
赤羽の削ったごぼうを手に取って、鈴宮が言った。
「あ、そうか! 聞いたことあるかも!」
赤羽が急いでスマホを取り出して検索をする。
「あったよ〜! あったあった! ほら見て、みゃー子!」
「ああ、ホントだ。これなら誰でもできそう。」
「あれ? 『先に切り込みを入れる』って書いてある。」
「ふうん、そうなんだー。」
「これなら男子にも任せられるね!」
「ああ、そうだよね。」
嬉しそうに説明する赤羽に、笑顔で合の手を入れる鈴宮。ふたりのやり取りに場が和んで、それからは会話も弾み、楽しく試食にこぎ着けた。
「なあ、鈴宮。」
みんなが帰るとき、俺も一緒に自転車を出しながら最後まで残った。見送りに出てきた鈴宮は、普段着につっかけサンダル姿でも、どこか清楚で可愛らしい。
「なあに?」
手を後ろで組んで見上げる笑顔は目に笑いを宿している。俺に向けるいつもの笑顔だ。
「本当は知ってたんだろ。」
「何を?」
彼女の表情が不思議そうに変わる。
「ごぼうのささがきだよ。」
「あ。」
彼女は後ろめたい顔をして、手で口元を隠した。
「やっぱりな。」
俺の言葉に、彼女はくすくす笑った。
「どうして分かったの?」
「だって、赤羽が構えたところでびっくりしてたじゃん。あの時点で、もう間違ってたんだろ?」
「間違いって言うか……あたしが知ってるのとは違ってたってこと。」
「それだけか?」
少し迷いながら彼女が答える。
「んー…、あれじゃあものすごく危ないって思った。思わず背中がぞくっとしたよ。誰かが怪我しちゃう映像が頭をよぎったし。」
「ホントに怖かったな。」
「うん。どうやって声をかけようかってものすごーく考えて、ドキドキしちゃった。あたし、今まで誰かのやることに口出ししたことが無かったから。」
「そうなのか?」
彼女はそこで、少し真面目な表情になった。
「うん。だって、あたしがわざわざ何か言わなくても、学校では誰かがちゃんと言うし、そうじゃなくても、物事はそれなりに進むでしょう? あたしが指摘したことで相手が気を悪くしたら嫌だし……って、思ってた。でも……、」
そこでふと言葉を切って、彼女は考えるように少し首を傾げた。それから、俺をまっすぐに見上げた。
「この前、それじゃダメだな、って思ったから。」
そう言って、にっこりと微笑む。
「思っていることをちゃんと伝えられるようにならないと、って。それに、自分が役に立てるのに黙っているのは良くないかな、って。それでね、今、ちょっとずつ練習中。ふふっ。」
「へえ…、偉いなあ。」
「そんなことないよ、今まで逃げてたんだから。それに、やっぱり簡単にはできないし、とっても緊張する。」
小さく肩をすくめた彼女に切ない気持ちがわいてくる。ぎゅっと抱き締めて、ねぎらいと応援の言葉をかけてあげたい。けれど、それは封印して。
「じゃあ、今日はだいぶ頑張ったな。」
「うん…そうかな。そうだね。変な言い方したら史帆が可哀想だしね。」
「ああ…、そうだよな。」
(やさしい猫。)
友人の気持ちを思いやること、自分を変えようと努力していること、それらを笑顔で話せること。そういう彼女のすべてが愛おしい。
せめてもの想いを込めて、彼女の頭にぽんと手を乗せた。彼女はパチリとまばたきをして、大きな瞳で俺を見上げた。久しぶりに見る驚いた表情が、すぐに楽しそうな笑顔に変わる。
「そんなに褒められるほどのことじゃないんだよ、ホントに。」
「でも、褒めるのは俺くらいしかいないだろ?」
「ああ、そうか。…あれ?」
どこかで小さな音がした。俺が手を引っ込めるあいだに、彼女がエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。
「あ、空野くんからだよ。」
そう言えば、空野にはこの一週間くらい会っていない。
「『今日の試作品づくりに参加できなくてごめん』って。あ、あとね、将棋の大会で準優勝だって! すごいね!」
「へえ。」
準優勝は確かにすごい。
(それを最初に知らせる相手は鈴宮ってわけか……。)
友だちが準優勝は嬉しい。でも、それで評価が上がると思うと、やっぱり複雑な気持ちになる。
「空野は…自然科学部にずっと行ってるのか?」
「ん? うん、来てるよ。とっても楽しそうに♪」
「ふうん。」
そりゃあ、鈴宮がいるのだから当然だ。それを嬉しそうに話す彼女にも、ちょっと嫉妬してしまう。
「あれ? もしかして、まだ知らないの?」
面白くなさそうな顔をした俺を、きょとんとした顔で彼女が俺を見上げた。
「え、何を?」
「え……。」
そこで少し考えたあと、彼女はわざとらしく真面目な顔をした。
「内緒。きっと学校で話してくれるよ。うん。その方がいいと思う。」
「なんだよ、一人で納得して。」
「いいのいいの。もう明日から学校だもん。ね?」
そう言って、なだめるように彼女が微笑む。つられて俺も笑ってしまう。
「わかったよ。明日、本人から聞くよ。」
「うん、そうして。」
そろそろサヨナラの潮時だ。もっともっと、いつまでも話していたいけど。
「…じゃあな、猫。」
「じゃあね、また明日。」
迷いなく手を振る彼女がちょっとうらめしい。
(でも、いいや。)
勢いよくペダルを踏んで考える。
この夏休み中、彼女とはずいぶん話した。電話でも、顔を合わせても。そして今、彼女は「また明日」って言った。明日もまた、今までと同じように話してもいいってことだ。
(明日も、その次も。)
俺は彼女のそばにいる。
彼女のことをもっと知りたい。彼女がピンチのときには助けたい。
そしていつか。
彼女に選ばれたい。