48 自然科学教室 2
「大丈夫か?」
こんな言葉しかかけられない自分が嫌になる。
とにかく、泣き出した鈴宮を玄関の外に連れ出した。泣いているところを誰にも見られたくないだろうと、咄嗟に思ったから。
たぶん、その選択は間違っていなかったと思う。でも、泣いている彼女を外へと導くとき、肩に手を掛けたのは間違いだった。久しぶりの彼女の感触――しかも、ずっと前に<女の子>を実感した小さな肩――と、自分が大切に思う少女が泣いているという事実に、強烈な誘惑を感じてしまったから。
玄関の光からはずれた横の方に彼女を導いたあと、俺はひたすら誘惑と戦っている。
「これはチャンスだ」と、胸が騒ぐ。「肩を抱いて慰めたら、親密度アップは必至だ!」…と。
一方で、「今はそのときじゃない」と、冷静な声がする。「そんなことを考えるのは不謹慎だ。気持ちが弱くなっていることを利用するなんて卑怯だ」…と。
それに、彼女はたぶん、何かショックなことがあったのだ。その原因はあの先輩で間違いないだろう。そして、彼女のショックとは……先輩の気持ちを聞かされたことかも知れない。先輩として慕っていた相手に恋心を打ち明けられた。それが涙の原因だとしたら、ここで俺が同じようなことをしたら、彼女はまたショックを受けてしまう。
(だけど。)
すすり泣く鈴宮を前に、理性と本能――煩悩?――が争う。
(このままじゃ……。)
隣でタオルに顔をうずめている彼女。小さな肩が弱々しくて、あまりにも可哀想だ。ちょっとくらい手を掛けるとか…。
(そうだ。)
自分の方に引き寄せなければ良いのだ。片手で肩……いや、背中に手を当てる程度なら大丈夫だろう。俺が彼女を慰めたい気持ちは伝わるだろうし、もしかしたら彼女の方から俺に…。
(だから、ダメだってば!)
余計な想像は頭を振って追い払う。
(よし。)
気合を入れて、右腕に力を入れる。
そうっと…と思うのは、罪悪感がある証拠なのか。息を詰め、少しずつ腕を持ち上げる。手を開いたり閉じたりして指の力を抜き――。
(この辺か?)
女の子の背中って、どんな感触なんだろう? 硬いのか? やわらかいのか?
狙いを定めたあと、なぜか視線を逸らせてしまう。そして、ふわりと……。
(…?)
手のひらに何か凸凹したものが当たる。男同士で体を叩いたりするときには絶対に無かったこの感触は…。
(もしかして。)
これは、あれだろうか? 女性専用の…下着。
(どうしよう?!)
心臓がキュッと縮んだ……と、思ったら爆発した。
(そりゃそうだよな猫だって女子だしいくら小さくたってまさかノーブラとかいやそのまああり得ないっていうか…。)
体が冷たくなったり熱くなったりする。嬉しいような、損したような、中途半端な喜びが体を駆け巡る。背中に置いた手をどうしたらいいのか分からない。いきなり離したら疑われそうな気がするし、動かしたらはずれてしまうかも知れないし。
焦ってキョロキョロしていたら、タオルの上から顔をのぞかせた鈴宮と目が合った。
「ひぇ、ごめんっ。」
慌ててホールドアップのポーズ。俺は何もしてないから!
彼女は不思議そうな顔をした。どうやら疑われてはいないようだ。
ほっとしている間に、彼女がタオルを下ろして恥ずかしそうに微笑んだ。泣き止んだばかりのその瞳はまだ少し潤んでいて、何かの光を反射して輝いている。
「あの、ごめんね。どうもありがとう。」
(やべえ。マジか…。)
彼女の気弱な笑顔。まだドキドキしている体。暗い場所。二人きり。あらゆるものが俺を誘う。ぎゅーっと抱き締めてしまいたい。
「ええと、もう中に入るか?」
(俺ってすげえ!)
この精神状態でこんなことを言える俺は、稀に見る強い理性の持ち主なのではないだろうか?!
「ええと、もうちょっとだけ、いい?」
(ご褒美来たよ!!)
理性の勝利だ! 我慢した甲斐があった! 彼女の信頼を勝ち得た! しかも暗闇で二人きりだ!
「もちろん。気が済むまでいいよ。」
ちょっと気障ったらしいな、と反省したが、鈴宮以外に見られているわけではない。そして、安心して微笑む彼女を見ていると――。
(うーん……。)
やっぱりチャンスかも知れない、と思う。もしかしたら、彼女は俺が動くのを待っているのかも…?
「うひ?!」
考え込んだ一瞬の隙に体に何かが触った。あわててを体をひねると、いつの間にか鈴宮が横にいて俺を押していた。
(ちっちゃい手が! 可愛い! くすぐったい!)
嬉しくてにやける口元を急いで手で隠す。
「ね、あそこ。石が並んでるところ。」
一緒に座ろうということらしい。
「わ、わかった。くすぐったい。おい。」
抗議はただのポーズだ。こんなチャンスを逃すわけがない。
(あ〜、なんかもう♪)
わざと体重を後ろにかけて、彼女の手の感触をしっかりと味わう。くすぐったさと嬉しさが、さざ波のように体中に広がった。
「瀬上先輩に……何かされたわけじゃないから。」
落ち着いた声で彼女が言った。肩が触れない距離。けれど、今までよりは近く。玄関から届く微かな明かりで、彼女が微笑んでいるのがかろうじて分かる。
「うん。わかってる。」
もしも先輩に何かされたのだったら、今こうして微笑んではいないだろう。
「ちょっと…びっくりして。」
「……そうか。」
俺も微笑んでうなずいてみせた。安心したように彼女が息をついた気配がした。
(びっくりして、悲しかったんだよな?)
だからあんなふうに泣いたのだ。今はそれを乗り越えて微笑む彼女に愛しさがこみ上げる。
「ねえ。星、すごいでしょ?」
頭を反らして空を見上げる彼女。隣で俺も真似をする。
空の色は黒。何も反射しない、何もかもを吸い込むような黒だ。そこに浮かぶ星は、目が慣れるにしたがって数を増し――。
「…ホントだ。」
これでもかというくらいの光の粒。ところどころに大きな光はあるけれど、この中に星座を見分けるのは無理だという気がする。
「あの辺からこういう向きに、ぼんやり明るいのは分かる?」
空をななめに横切るように、彼女が指差した。
「え? どこ?」
示されたあたりを見るけれど、明るさの違いは見分けられない。
「うーん…。」
「ええとね、あれ?」
ドキン、と心臓が跳ねた。彼女の頭が俺の肩に当たったから。
(落ち着け。嬉しい。でも。ダメだ。嬉しい。)
彼女は俺の視点に近付こうとしているだけ。それは分かっている。だけど……。
「ほら、あのへん。」
俺に体を寄せて、彼女が再び空を指差す。彼女の肩が俺の腕を押し、頭が肩をかすめる。
(ああ…。)
本当に彼女は無意識なのか? どうしようもなく心が乱れて、星空には集中できない。
「うん…、ああ。」
返事をしなくちゃと焦った挙句、彼女の頭のてっぺんに向かって言ってしまった。
「ん?」
くるりと彼女がこっちを向いた。訝しげに眉間にしわを寄せて。「あ。」と思った瞬間に、彼女は間近に俺の顔を認めて、驚いたようにぱちりとまばたきをした。
「あ、あれ?」
「あ…、その…。」
二人の声が重なる。そのままどうしたらいいのか分からず、ただ見つめ合う。
(これは……。)
俺に身を寄せて見上げる彼女。言葉が途切れて半開きの唇がやわらかそうに俺を誘う。
(もしかして…鈴宮も……?)
待っているのかも知れない。
覚悟を決めて、そっとつばを飲み込む。腕の筋肉が緊張し、ピクリ、と反応した。さあ――。
「ご、ごめんね。くっつき過ぎたね。」
すっ…と彼女が体を離した。その途端、呪縛が解けたように全身の力が抜ける。
「ああ、いや、べつに。」
もぞもぞと座り直す彼女を横目で見ながら、取り繕って伸びをしてみる。
(避けられた…?)
こっそり彼女を観察しても、陰になって表情が見えない。
「ええと…、戻るか。」
自分の下心を隠そうと焦った挙句、またしても出てきたこの言葉。チャンスを終わりにする言葉を自分から言ってしまうなんて、俺って本当は意気地なしなのか。
「うん、そうだね。」
簡単に同意されたことが軽くショックだ。ふと目が合うと、彼女は微妙な顔をして、するりと視線を逸らしてしまった。
(え……。)
不安が胸に広がる。
(もしかして、嫌われた……?)
それっきり、彼女は俺の方を見ないで歩き出した。慌ててついていくしかない俺。
(そんな。)
下心がバレてしまったのか。俺の態度は、純情な彼女には我慢ならないものだったのか。このまま無言で終わりだろうか。
「あ、そうだ。」
ぽんと手を合わせて、彼女が立ち止まった。
「そのまま立っててね。」
そう言って、彼女が俺の後ろにまわる。怒っている気配ではない?
(あ。)
背中にそっと押し付けられたのは……手?
「あのね、元気を分けてね?」
照れ隠しの笑いを含んだ声が聞こえてくる。両手を当てられた背中がほっこりと温かくなる。
「なんだよ……。」
ほっとした。嫌われたわけじゃなかった。
それだけじゃない。
彼女が俺の元気を必要としている。俺が鈴宮の助けになっている。
(俺の、猫。)
彼女が俺を頼ってくれたことが、嬉しくて、有り難い。俺の大好きな彼女が。
「はい、ありがとうございました。」
その声に振り向くと、彼女は丁寧にお辞儀をしていた。顔をあげた彼女の様子を確認する。
「大丈夫か?」
「うん。もう平気。」
今はにっこりと笑顔を浮かべ、まっすぐに俺を見上げている。そんな彼女が誇らしくて、思わず彼女の頭に手を乗せた。
「ん。」
一瞬、驚いたように首をすくめたけれど、すぐに彼女は笑顔を返してきた。
(ああ。)
無邪気な彼女が可愛くて、愛しくて、そのまま抱き寄せたくなる。けれどそれを封印して、今は玄関に向き直る。
「よし。じゃあ、行くぞ。」
「はい。」
二人で気合を入れて、玄関の光の中に戻った。
消灯前の廊下で、瀬上先輩と鉢合わせた。先輩も俺に気付き、不機嫌な顔で立ち止まった。黒縁のメガネの奥の瞳が鋭く俺を見つめる。
「…お前なのか?」
静かにはっきりと問われた質問。その一言と表情で、俺の想像していたことが確信に変わった。先輩は鈴宮に自分の気持ちを伝え、鈴宮はそれに応えられなかった――。
「鈴宮は、まだ誰も選んでいません。」
俺の返事に表情を変えることなく、先輩がまた尋ねる。
「お前はどうなんだ?」
「俺は…」
一息吸い込んで気持ちを固める。先輩から目を逸らさずに。
「選んでもらえたら嬉しいです。」
すいっと先輩が横を向く。
「この前まで、俺だけのものだと思ってたのに…。」
先輩の視線が戻って来た。
「この一年、大事に守って来たのに。」
強い視線に、悔しさがにじんでいるように感じる。
無言でしばらく向き合ったあと、瀬上先輩はそっと視線をはずし、ため息をついた。
「鈴宮の気持ちは鈴宮のものなんだから、俺の思いどおりにならないからって怒るのは筋違いだよな…。」
(先輩も傷ついてるんだ……。)
自分の気持ちが届かなかったからじゃない。鈴宮を傷付けるようなことをした自分に失望したのだ。けれどそれは、彼女への想いから出た行為で…。
(難しいなぁ。)
恋をする気持ちって、なんて複雑なんだろう。
先輩が俺に目を向けた。そこに鈴宮への思いが込められているのだと思い、俺も真剣に受け止める。
「俺はこれからも鈴宮を見守っていく。鈴宮の…師匠として、行く末には責任があるから。」
そこまで言うと、先輩は歩き出した。すれ違う瞬間、もう一度声がした。
「でも、もうあいつを困らせないよ。」
背後で先輩が部屋に入る音が聞こえたとき、自分がどれほど緊張していたかに気付いた。
(鈴宮は俺のこと、どう思ってるんだろうな…。)
たぶん瀬上先輩とそれほど変わらないのだろうと思いあたり、大きなため息が出てしまった。