45 夏休み始まる
7月を振り返ると、怒涛のように忙しかったという印象しかない。
一番大きなできごとはやっぱり部活だ。夏の大会が始まって終わり、新しいメンバーでの活動が始まった。
試合では力不足を痛感した。
しばらく前から家でもトレーニングを始めていたけれど、肝心なところで役に立てなかった。そのことがとても悔しくて、恥ずかしかった。応援に来てくれた鈴宮たちの手前、落ち込んだ気持ちを隠してはいたけれど。
家に帰ってから、一人で鬱々と過ごした。試合のことや、帰り道での鈴宮の様子を思い出しながら。彼女は俺に何を言ったらいいのか分からなかったのだ。まともに俺の顔を見ることもできないでいた。そんな思いをさせてしまった自分が情けなかった。
そんな気持ちが切り替わったのは、風呂に入っていたときだった。湯船で手足を伸ばしていたら、ふと、前向きな考えが湧いてきたのだ。
――足りなかったら努力すればいいじゃないか。一年後の俺は、今日の俺とは違うはずだ。
そう思ったら、今回のベンチ入りの本当の意味が見えた気がした。あれはきっと、俺に目標を持たせるためだったのだ、と。
新鮮な清々しい気分で風呂から上がり、試合の内容を思い返しているときに、鈴宮からメールが届いた。たった一言、『今日はお疲れさまでした。』と。
彼女の気持ちが嬉しかった。あの時間までどれだけ迷ったのだろう、と思うと、ますます愛しくなった。それと同時に、元気な俺を見てもらいたくなった。だから、急いで自転車を飛ばした。
彼女が窓に現れるかどうかは賭けだった。そして俺は、賭けに勝った。さらに、彼女からの追加の一言は……嬉しすぎて悶え苦しんだ!
翌日から、新しいチームでの活動が始まった。
俺はキャプテンになり、副キャプテンの風間と一緒に先輩からの引き継ぎもおこなわれた。けれど、話を聞いているときは分かったつもりでいても、実際にその場になってみるとどうにもあやふやで、風間と二人で顔を見合わせてばかりいる。マネージャーの1年女子二人――2年生はいない――の方が仕事をよく把握していて、俺と風間はしょっちゅう「しっかりしてください!」と言われている。
自分にがっかりしているときには鈴宮のところに行く。いつもにこにこしている彼女と話すと気持ちが明るくなるから。ただ、剛と空野が目を光らせているので、二人きりでじっくり話すのは無理だ。忙しさがひと段落したら、休日や夜に電話でもしたいと思っているのだけれど。
クラスの中では、9月の体育祭と文化祭の準備が始まった。
体育祭――里高祭体育部門――は、9月半ばの平日におこなわれる。一般の来客は入れないイベントだ。各学年2クラスずつを縦割りにした4チームで競う。
うちの体育祭はちょっと変わっていて、事前の練習が重要な応援合戦とチーム対抗リレー以外は、出場者は当日決める。昔、「やりたくないヤツを無理に出場させる必要があるのか」という議論があって決まったルールらしい。
そのかわりと言うか、参加すると参加賞がもらえる。チョコ一粒とか、せんべい一枚とか、本当にちょっとなのだけど。その効果で、朝のうちは「かったり〜から出ねぇよ」などと言っていた生徒もだんだんうらやましくなって、昼頃になると、じゃんけんで出場者を決める競技もでるほどになる。得点の高い競技は、事前に3年生が仕切って選手を厳選していることもあるのだけど。
うちのクラスからは剛と近衛と汰白がリレーの選手に決まり、女子数人が応援団に立候補した。その女子に一緒にやろうと空野も誘われたが、必死で拒否していた。まあ、確かに空野は応援団という雰囲気ではない。
9月最後の土日におこなわれる文化祭――里高祭文化部門――は、2年生にとっては高校最後の文化祭となる。大学入試があるので3年生は参加しないからだ。そのため、何を出展するかが重要課題となる。
クラスで希望を出しても、ほかのクラスと被ったり、会場や時間の都合で希望が通らなかったりすると士気が下がってしまう。だから、まずは通る企画を練ることから始まる。うちのクラスは豚汁定食の店を企画し、そのまま決定した。夏休み中に店の内装や店員の服装、料理の計画や必要な物品などを具体的に決めることになる。そのための担当決めがあり、俺は鈴宮と同じ料理チームに入ることができた。これで夏休みも彼女と会う機会が増える。
夏休み直前になると、自然科学教室の事前説明会があった。行程や持ち物の説明のほかに、現地の植物や地形、星座を解説したガイドブックが配られた。
驚いたことに、このガイドブックは自然科学部員の手作りだという。確かにホチキス止めで簡単な製本ではあるが、部員が撮影したという写真も、レイアウトや解説も、体裁が整っている。鈴宮と森梨が忙しがっていたのはこれのせいだったようだ。
さらに驚いたのは、自然科学部員は、このガイドブックに載っているものを暗記しているという事実だ。植物だけでも30種類くらいあるが、部員は市販のガイドブックでもっとたくさん覚えているらしい。文化系の部活だからと言って甘く見てはいけなかった。まったく恐れ入った。
空野は暗記のことで泣き言を言っていた。部内でテストがあるらしい。鈴宮たち普通の2年生は、去年一度覚えているのでそれほど大変ではないそうだけど、新入部員には厳しい試練だ。
先生は、参加者もなるべく覚えるようにと言った。知っている方が、歩いているときに楽しいから、と。
でも、俺は無理だと思った。野球部は夏休みの最初に校内合宿があるし、宿題もどんどん進めなくちゃならない。それに、覚えていなくても、現地では先生や自然科学部員が説明してくれるという話だ。それなら、俺は鈴宮にくっついていて何でも教えてもらうからそれでいい。
夏休みに入り、校内合宿があれよあれよという間に終わった。終わってみると、部の中が少し落ち着いた気がした。新しいチームとして、部員それぞれの距離感がつかめてきたのかも知れない。でも、俺はまだキャプテンの仕事で抜けていることも多く、やっぱりマネージャーに世話になりっぱなしだ。
「どれがいいのか全然分からないよ。」
アウトドア用品の靴の棚の前で、空野がため息をついている。その横で森梨が展示してある靴に手を伸ばす。
「山にしょっちゅう行くわけじゃないなら高いものは必要ないし、普段履けるデザインにするといいよ。」
その言葉を聞いて、俺と剛も納得してうなずいた。
今日は俺たちと森梨と鈴宮の5人で、自然科学教室に必要なものを買いに来た。アドバイスが欲しいと理由をつけて、鈴宮たちとやっと日程を合わせて。
とにかく最低限でもトレッキングシューズは必要だということで、アウトドア用品の店がいくつか入っているアウトレットモールに電車でやって来た。
こうやって鈴宮と一緒に出かけることだけでも、俺には――剛と空野にとっても――特別なイベントだ。俺たちは少しはしゃいだ気分で冗談を言い合ったりして、楽しく歩き回っている。
森梨は赤いショートパンツに底の厚いサンダルを履き、予想外にきれいな脚を披露している。俺たちはみんなびっくりしたが、特に空野がおろおろしたのが可笑しかった。
鈴宮は水色のチェックのワイシャツみたいなワンピースだ。前ボタンが下まで続いていて、スカートは制服より少し長めだ。青系の色は彼女の清楚な雰囲気に良く合うし、シンプルなデザインが、彼女をいつもよりも大人っぽく見せている。でも、笑うとやっぱり可愛らしいいつもの彼女で、俺たちは三人ともデレデレしていると思う。
靴は値段とサイズで絞り込むとかなり選択肢が限られて、結局、三人とも黒や茶色の似たような靴を買った。鈴宮が、脱いだところで間違えないように、しるしをつけておくといいと教えてくれた。
それから、リュックや帽子、靴下や防寒着など、それぞれに必要なものを見て回った。
楽しかったのは帽子売り場で、片っ端からかぶっては、お互いに批評し合った。鈴宮と森梨はどの帽子をかぶっても似合う。俺たちは面白がって、次々に帽子を差し出してかぶらせては盛り上がった。
空野と剛と俺はお互いに見張り合っていて、誰も鈴宮と二人だけになる隙はなかった。でも、5人で行動する時間も楽しくて、リラックスしている鈴宮の笑顔を見ていると安心した。この調子なら、修学旅行の班別行動もきっと楽しいだろう。
「佐矢原くんは、当日はどうやって行くの?」
帰りの電車の中で鈴宮が尋ねた。
出発日の集合は、学校正門前に午後8時。荷物の積み込みやトイレを済ませて9時に出発の予定だ。
「普段と同じ。自転車で。」
「そっか。荷物が多いし、夜だから気を付けてね。」
「え?」
俺は一緒に行くつもりでいたのに、この口調だと……?
「猫は自転車じゃないのか?」
空野が約束済みかと思って彼女の向こうにいる空野に目を向けると、眉間にしわを寄せて首を横に振った。
「部長…瀬上先輩のお母さんが、車に乗せてってくれることになってて。」
「え、先輩……って、引退したんじゃないのか?」
鈴宮の頭の向こうで空野が「そうなんだけど」と言葉を濁した。彼女は困ったように笑って肩をすくめながら言った。
「なんかね、あたしたちだけじゃ不安だからって参加するんだよ。写真の撮り方も実地で指導する必要があるからって。でもね、あたしは先輩が、単に写真を撮るチャンスを逃したくないだけなんじゃないかと思うんだよね。」
そう言われたら、その場では「ふうん。」で済ませるしかなかった。
帰りに彼女と別れて空野と二人になったとき、俺はその話をもう少し詳しく説明してもらった。
「瀬上先輩のお母さんが、由良ちゃんともう一人、一年生の女の子を送ってくれることになってるんだ。夜だし、荷物が多くて危ないからって。帰りもね。」
「送り迎えは分かったけど…。瀬上先輩、受験生なのに参加するのか? 余裕だな。」
少しばかり嫌味な言い方になってしまう。だって、先輩にちゃんとした理由で「こうする」って言われたら、俺たちは引き下がるしかないのだから。空野が憂うつそうな顔をしたのも、俺と同じ気持ちだからだろう。
「大学は指定校推薦で行けるらしいよ。成績がいいし、先生の受けもいいから。」
「そうか…。」
普段の努力がこういうところで余裕を生むのかも知れない……けど。
「なあ、汰白の情報って、本当だったのか?」
「先輩が由良ちゃんを好きだってやつ? うん。たぶん本当だと思う。俺は少ししか一緒に活動してないけど、瀬上先輩はいつも由良ちゃんのことが優先だった。口調も態度も面倒くさそうなんだけど、由良ちゃんに教える役はいつも瀬上先輩が買って出てたよ。」
「ってことは…。」
「向こうでも由良ちゃんに付きっきりでいる可能性は高いよ。なにしろ由良ちゃん自身が、写真では『先輩の弟子』なんて言ってるんだから。」
「そんな〜〜〜。」
「でも。」
落胆する俺に、空野は決意を固めた目を向けた。
「俺だって引き下がらないよ。先輩と由良ちゃんを二人きりになんてしない。」
「そ、そうだな。」
言われてみると、その通りだ。自分が彼女と二人きりになるチャンスは無くても、まだライバルの邪魔をするという課題が残っている。
「とにかく目を離さないことだな。」
俺の言葉に空野がうなずく。剛もいるのだから、彼女を見張る目は3人分だ。
(それに……。)
少しだけ希望もある。
常に見ていれば、彼女と二人きりになれる瞬間だってやってくるかも知れないのだから。