43 濡れた髪
(う〜、かまいたい〜。)
鈴宮と電話で話してから、俺は暇さえあれば、彼女のことばかり考えるようになってしまった。
とにかく一緒にいたくて落ち着かない。教室にいるあいだ、ずっと彼女のことを気にしている。
「かまいたい」なんて、まるで小学生だ。でも、それが今の俺の正直な気持ちなのだから仕方ない。
チャンスがあれば逃さない! …と思っているのに、積極的に近付くことはプライドが邪魔をする。ほかの男の手前、女子にチャラチャラ絡むことなどできない性格なのだ。剛か空野に用事を作って近付くか、移動教室のときを狙うのが精一杯。
(気が付いてくれよ〜!)
だから、鈴宮に願っている。俺のところに来てくれ、と。
けれど、彼女に俺の願いは通じない。ほとんど一日中、女子同士で話している。
目が合うことは結構ある。……まあ、そのたびに目をぱちくりする彼女が可愛くて嬉しいのは確かだ。そのあとの、俺にしか分からない一瞬の目くばせもたまらない。それで半日は幸せだ。その幸せを求めて、また見てしまう。
離れた場所にいるのにたびたび目が合うことを、彼女はどう思っているのだろう。俺が気にしてるって分かってくれないのだろうか。俺のことなんか、どうでもいいのだろうか。
電話のあと、自分は特別だと思って喜んでいた。でも、今は自信が無い。だって、彼女は別に俺なんかいなくても何でもなさそうなんだから。
「暑いよなあ。」
「炎天下よりはマシじゃね?」
鈴宮が嫌がっていた水泳の授業が始まっている。女子が水泳の今日は、俺たちは体育館でバレーボールだ。
プールの気配は、ここにはまったく届いて来ない。けれど、俺はしょっちゅう、鈴宮が言った「ナスみたい」という言葉を思い出して、彼女の水着姿を想像してはぼんやりしてしまう。
(気になるよなぁ……。)
だって、凹凸の少ない体型だったとしても…いや、だからこそ余計に、彼女らしい、無垢な可愛らしさをアピールしていると言えないだろうか。その姿を思い浮かべると、俺はますます彼女をかまいたくて仕方がなくなる。さすがに体型をネタにしたジョークを言うつもりはないけれど。
(あ。)
バレーボールの授業のあと、体育館と校舎をつなぐ2階の通路から鈴宮を見付けた。校庭の隅にあるプールから戻って来る女子の後ろの方に。
ついさっきまで彼女は水着姿だったのだと思ったら、妙に嬉しくなってしまった。周囲が女子の一団に目を向ける様子からすると、男はだいたい同じような気持ちになるらしいのでほっとした。
教室に戻る途中で一緒になりたいけれど、足を速めればいいのかその逆か判断がつかない。諦め半分で、男同士でふざけ合いながら、女子との合流予想地点へと向かう。
「お〜。」
「きゃはははは。」
前方から声が響いてきた。どうやらタイミングはOKらしい。昇降口から階段を上って来る女子と廊下を歩いてきた俺たちが合流したので、階段の手前で少しばかり渋滞が起きている。
(猫、頼む!)
鈴宮は後ろの方にいたはずだ。
(あの位置ならまだ――)
ちょうど階段に近付くところで、下から上がって来た彼女が目に入った。
(った!)
彼女は隣の森梨と話しながら、足元と森梨を交互に見ている。
(鈴宮!)
心の中で呼びかける。
俺に気付いて、「話そう」と思ってほしい! ただ笑顔をくれるだけで行ってしまわずに!
あからさまに彼女を待つつもりは無かったのに、その場で思わず足を止めてしまった。
ちょうど見上げた彼女の視線が俺をとらえて、あいさつをするように軽く首を傾げて微笑んだ。半乾きの髪が頬に張り付いて、可愛らしさと色っぽさが入り混じって、ひどく魅力的だ。
「森梨、なんだ、その頭。」
隣で中込が声をかけた。あらためて森梨に目を向けると、いつもは肩にかかっている長い三つ編みがポニーテールにまとめられていた。少しうねりのあるたっぷりした黒髪が、ウエストのあたりまで垂れている。
「ああ、これ? 乾きやすいようにね。」
「すげー。長ぇ。面白れぇ。」
森梨の後ろにまわった中込が、その長い髪に手を突っ込んでバサバサと遊ぶ。
「こら、やめなさい。」
「やだ〜。面白いもん。」
逃げるように足を速め、森梨が階段を上っていく。それを追いかける中込を笑ってよけた鈴宮が一人になった。
(ナイス、中込!)
待ちに待ったチャンス。さり気なく、でも決然と隣に並ぶ。
「今日は暑いから、プールはちょうどいいな。」
「うーん、まあね。」
久しぶりの近さに心が躍る。顔も緩む。そんな俺と並んで歩き出しながら、あまり嬉しくなさそうに答える彼女。
「そんなに嫌か?」
彼女が気持ちを素直に顔に出すのが嬉しくて、思わず笑ってしまった。
「んー…、でも、もう始まったから、終わりも近付いてるもんね。」
機嫌を直したように微笑んで俺を見上げる彼女。それから頬に張り付いた半乾きの髪を、首を傾げて指先でそっと除けた。その仕草にドキッとする。
(そうか!)
中込みたいにふざけたふりをして触ってしまえば良いのだ! 周りに人はいるけれど、こんなチャンスは二度と無い!
さり気ない風をよそおって口を開いた瞬間、心臓があまりにもドキンとして、そのまま倒れてしまうかと思った。
「濡れてるぞ。女子は髪が長いから面倒だな。」
けれど、声は震えることも無く、腕もちゃんと動いた。軽く笑いながら彼女の後頭部の髪を梳くように指を通す。
「うゃ。」
彼女は可愛らしく首をすくめ、「くすぐったい!」と髪をワシャワシャとかき回した。
(え、わ。)
逆にびっくりして、慌てて手をひっこめた。まさか、くすぐったがるとは思わなかった。しかも、動きが超カワイイし!
(こんな場所でやるんじゃなかった!)
心臓がバクバクする。まっすぐに彼女を見ることができない。無邪気な彼女の反応が頭の中にちらついて俺を誘う。もっと触ってみたくなる。でも。
「ご、ごめん、ん?」
突然、視界が白くなった。背中だと気付いたそれが、乱暴に俺を押し退ける。
「由良ちゃん、お疲れさまー♪」
(お前か〜!)
割り込んできたのは空野だった。
「急がないと授業始まるよ。行こう。」
「あ、あ、うん。」
一段抜かしで階段を上る空野に合わせて鈴宮が足を速めた。俺をブロックするように、空野は彼女の後ろに手を伸ばし、振り向いてギロッと俺を睨んだ。
(見られてたか…。)
横取りされたのはもちろん悔しい。でも、手に残った湿り気と彼女の髪の感触で、空野に負けた気がしない。
(それに、あの反応が……。)
髪の感触が残る手を見ながら、にやけ顔を抑え切れない。触られてくすぐったがるなんて、もうなんか最高だ!
「もーらった!」
目の前の手が、いきなりごつい手に覆われた。そのまま指を組み合わせるように握られて、階段を引きずられるようにのぼる。
「え。あ。やめろ。剛!」
「やーだよ♪」
「やめ。せっかく。おい。」
「だめ。」
手をつないで騒いでいる剛と俺を、周囲の生徒がくすくす笑う。
(恥ずかしーーーー!!)
男と手をつなぐことがこんなに恥ずかしいなんて初めて知った。できればこんな恥ずかしさは知りたくなかった。
教室の前でやっと離してくれた剛は、その場でタオルでゴシゴシと俺の手を拭いた。
「やっぱりお前が一番油断ならねぇな。」
そう言われると返す言葉が無い。
タオルで手をこすられながら、調理実習の日のことを思い出した。
あの日、俺は彼女と手の大きさを比べようとして、手を差し出した。あのときは何の下心も無くて、迷うことも、照れることも無くやってのけた。
でも今日は、やろうと決めるまでは早かったが、いざ行動開始となったらあの緊張だ。好きな相手に何かを仕掛けるということがどれほど覚悟が必要なのか、身をもって知った。そして、そのスリルと達成感がクセになりそうだということも。
「これで良し!」
満足そうに剛が俺の手を叩く。俺の手から鈴宮の髪の感触を消し去ったつもりなのだ。
(でも。)
手を見つめながら思う。
どんなに拭いてもこすっても、一度覚えた感覚は完全に消えてしまうことはない。心に感じた感動も……。
(思い出すだけでドキドキする〜。)
「お前、思い出してるな?」
いつの間にか口元が緩んでいた。慌てて首を横に振ったけど、剛はサッと俺の手を取りペロリと手のひらを舐めた。
「うわ、きったね! 何すんだ、コラ!」
「へっへー♪ 洗ってこーい!」
飛び跳ねながら、剛は教室に逃げてしまった。休み時間も終わろうとする中、俺は急いで手を洗いに走る。
(まったくもう! 何年生だよ!)
手を洗いながら、腹立ちはすぐに可笑しさに変わった。好きな女子のことで、高校生がこんなに馬鹿馬鹿しいやり取りをしているなんて。
(それにしても……。)
鈴宮の反応は本当に……、もう何とも言えないほど……刺激的だった!
そう。
俺たち男を意識した動きじゃない。ありのままの彼女。
なのにこんなにドキドキする。あの瞬間の驚きや幸福感に、繰り返し全身を委ねてしまいたくなる。
(まずいかも…。)
今回のことで、彼女に触れる誘惑に耐えるのが難しくなるような気がする。こんな快感――そう、これは快感以外の何ものでも無い――が待っているとしたら……。
(…怖いな、俺。)
ふと我に返った。
席に着きながら、黒板の前に座っている鈴宮の後ろ姿に目を向ける。その小さな、頼りない肩に。
(俺が我慢しなくちゃダメなんだ。)
体の大きさも、力の強さも、性格も、俺の方が優勢だろう。でも、それを強引に利用したら、彼女を傷付けてしまう。
(気を付けよう。)
いつも、彼女のことを一番に考えるようにしよう。彼女がどうしたら喜ぶのか。どうしたら安心するのか。俺はそのときの笑顔をもらえたら、それで幸せになれる。
(……でも。)
たまには触りたいな。
ちょっとだけ。
ほんのちょっとでいいから。