38 恐ろしいクセ
監視されるとはいうものの、空野と剛に正式に(?)ライバルと認められ、俺は晴々とした気持ちで新しい週を迎えた。頭の中を、彼女にどうやって近付くかというプランでいっぱいにして。
ところが、それらはすべてストップせざるを得なかった。それどころか、彼女のそばに行くこともできなくなってしまったのだ。
それに気付いたのは月曜日の休み時間だった。音楽室からクラスに戻る廊下でのことだ。そのあとも何度も確認した結果、間違いないと認めざるを得なかった。
何を認めたのかと言うと……。
女子を見ると、必ず胸に目が行ってしまうことだ!
さすがにじろじろ見たりはしない。すうっと視線が通過する程度。それに、決していやらしい気持ちは持っていない。ただ、どれくらいの大きさなのかを確認しているだけ。ウソじゃない。
自分がそんなことをしているのがひどくショックだった。必死でやめようと思っても、視線は勝手に女子の胸へと向かい、頭の中で自動的に振り分け作業をおこなってしまう。そんなことを事務的におこなっている自分が信じられない。
原因はすぐに思い当たった。バッティングセンターで聞いた鈴宮のコンプレックスだ。彼女があんまり自分の胸が小さいと言っていたので、普通はどれくらいなのか気になっていたのは確かだったから。それに、よく考えてみると、先週も何度かやっていたのだ。
可愛くてしょうがない鈴宮だけど、思わず恨みたくなった。女子の胸に注目しているなんて他人に知られたら、その場で俺は「エロいヤツ」に確定だ。原因を作った鈴宮だって、俺を避けるに決まってる! だから、絶対に知られるわけには行かない!
知られないためには、とにかく女子に近付かないことが一番だ。休み時間は教室の一番後ろの自分の席でおとなしくしていた。普段から俺の周りに集まってくるのは男ばかりだから、今の状態では、これほど安全なことはない。剛と空野が俺を見張るのなんか、まったく時間の無駄だ。こんな癖がついたままでは、鈴宮の近くになんか行けやしないのだから。
けれど、生理現象には逆らえず、廊下に出なくちゃならないときもある。そういうときは、視線をやや窓方向に固定して、急ぎ足でトイレへと向かう。そのまま授業が始まるまでずっとトイレにいたいけれど、そうも行かないのが残念だ。
部活は大丈夫だと思っていたのに、ランニングをする外周にも、分け合って使う校庭にも、ほかの部の女子部員があちこちにいる。もうほとんど夏で薄着であることに加えて、胸の大きい女子が走っていたりすると、思わず感心して二度見しそうになる。非常に困る。
こんな習性、情けなくて泣きたくなってくる。しかも、そうやって見ても、別に嬉しくもなんともないのだ。ただ事務的に大きさを選別しているだけ。いつまで続くのかも分からない。もしかしたら、鈴宮よりも胸の小さい誰かを探しているのかも知れないけれど……。
(疲れた……。)
火曜日の昼休み。
変なことに気を使って、たった二日で憂うつになってしまった。鈴宮に癒しを求めることもできないし。
一人になりたくてトイレに行き、剛も空野もついてきていないことにほっとして、そのまま人のいない校舎の方へ行ってみることにした。
南棟から東棟に入ると、すぐに人声は遠くなった。歩いて行くにつれて自分の足音が響くようになり、北棟に着いたときには静けさに包まれていた。その静けさにほっとした。
北側にある廊下の窓からは雨の中の校庭が見える。近付いて下をのぞくと、自転車置き場の屋根が見えた。むしむしする空気が涼しくなるかと窓を開けてみたけれど、風が無い外はわずかに気温が低いだけで、雨の音が大きくなっただけだった。
(落ち着くなぁ……。)
「ねえ。」
「うわああああああ!」
突然聞こえた声と触れられた背中。思わず3メートルくらい飛びのいて振り向くと、目を真ん丸にした鈴宮がいた。
「どっから出てきたっ?!」
「え? 下から。」
鈴宮がすぐそばの階段を指差す……と、一瞬後に口を押さえて吹き出した。
「ごめん。そんなに驚くなんて! ふ、ふふ、うふ、ふははは……。」
彼女は笑っているけど、俺はそれどころじゃない。心臓はバクバクしてるし、さわられた背中はムズムズするし、一人でたそがれていたのを見られたことも、驚いたリアクションが大き過ぎたことも恥ずかしい。
(元はと言えば、鈴宮が原因なのに……。)
笑いが止まらない彼女に、不満な顔をしてみせる。それに気付いてくれないので、思わず声に出してしまった。
「猫のせいで、俺、変態って言われちゃうかも知れないんだぞ。」
「え。」
たった一言で彼女の笑いが止まった。代わりに驚いた顔をして、慌てて隣にやって来る。
(え? あれ?)
彼女の態度がものすごく嬉しい。単純な自分に呆れながら、今は笑顔は封印だ。
「あたし、何かしちゃった?」
(うへ…、可愛いよ……。)
すぐそばで真剣に心配して俺を見上げる鈴宮。その近さと不安そうな瞳に気持ちが舞い上がってしまう。もしも彼女を抱きしめたら…。
(きっと目を丸くして……。)
そんなことを考えたら体が落ち着かない。しかも、今なら簡単に実行できそうだし。
「ああ、いや、うそうそ、何でもない。」
けれど、そんな迂闊なことはできない。それで彼女との関係が終わりになるかも知れないのだから。
誘惑に勝つために、両手をポケットに突っ込んだ。それでも落ち着かなくて、そのまま体を窓の方に向けた。
「ダメだよ。ちゃんと話して。」
それを拒否の態度だと受け取ったらしい。彼女が隣からのぞき込むように見上げてくる。それが嬉しくて仕方がない。
「いや、いいんだ。ごめん。何でもないよ。」
あんなこと言わなければ良かったと後悔した。俺が女子の胸を見てしまうのは、俺自身の問題なのだから。けれど、一度言葉に出してしまったことは簡単には忘れてもらえない。
「ねえ、ちゃんと話して。そうじゃないと、ずうっと気になっちゃう。」
(う……。)
彼女の言葉と困った顔に気持ちが揺らぐ。今、言わなかったら、彼女は俺に遠慮するようになってしまうのかも知れない。それはそれで、今の関係が壊れるということでもあり…。
(言っちゃおうかな……。)
悩みを打ち明けることで、親しさ倍増かも。でも、変態だと思われないように気を付けないと。
「ああ…俺さ、その、最近…」
俺の態度で内緒の話なのだと察した鈴宮が、さらに身を寄せてきた。
(そんなに近付かれたら……。)
さらなる誘惑にポケットの中の手をぎゅっと握りしめ、視線を微妙にはずす。
「み、見ちゃうんだよ。」
「何を? 幽霊?」
「え? いや、くふっ。」
こんなときでも、彼女はどうしてこんなに可愛いんだろう?
(あ~もう! 頭をぐりぐりしたい!)
にやける顔を誤魔化すためにこぶしを口に当てて咳払いをしてから、覚悟を決めた。
「その…胸を。」
「胸?」
「ええと、その、女子の。」
口に出した途端、引き寄せられるように彼女の胸に目が行ってしまった。俺の視線を追って、彼女の視線も自分の胸元へ。
(やっちゃったよーーー!)
こんなにあからさまに視線を向けるなんて!
急いで視線を逸らしたけれど、ワイシャツと白いベストに覆われた彼女の控えめなふくらみは、一瞬で目に焼き付いてしまった。セクシーさとはまったく無縁のそこは、けれどとても眩しくて、ほかの誰よりもドキドキした。小さくてもやわらかそうで……。
(そうじゃなくて!!)
急いで弁解しなければ!
「あの、別にその、変な意味は無いんだ。」
彼女は無言で俺を見上げている。そのまっすぐな視線に焦るばかりで、言葉が上手く出てこない。
「なんて言うか…、ええと、普通はどれくらいの大きさなのかなー、なんて。」
(うわ、もうダメだ!)
大きさを比べていると言ってしまった! 小さいことを気にしてる鈴宮に!
絶望的な気分で目を閉じた。「やだ~。」という軽蔑の言葉を覚悟する。けれど。
「あ。それ、あたしもやるよ。」
「え?」
予想外の反応に、またしても驚く。目を開けると、鈴宮は真面目な顔で俺を見上げていた。
「誰のでも見ちゃうんでしょ? で、『ああ、それくらいね』みたいな。」
「あ、ああ…うん…。」
「そうそう、おんなじ。そうか、だから一人になりたかったんだね。佐矢原くん、男の子だもんね。困るよね。」
(こんなにあっさり信じてくれるなんて……。)
俺の言葉をまったく疑おうとしない彼女に感動してしまう。
「それって、本当にあたしのせいだ。ごめんね。あんなこと言わなければ良かった。」
謝ってくれる彼女に、俺の方が申し訳なくなってしまう。そしてほっとしたら……。
(ああ…、もうちょっとなのに!)
また俺の思考はさっさと違うところに向かってしまった。だって、人けのないところで二人きりなのだから!
(触りたい~。いや、触ってくれ~。)
この微妙な距離をどうにかしたい。今週は全然近寄れなかったから、鈴宮欠乏症なのかも。
(今なら空野も剛も見てないし……。)
誘惑に負けそうになる。
(だけど。だけど。だけど――。)
「ねえ、でもさあ、」
何も知らない彼女が内緒話をしようと背伸びする。俺は、正面から向き合わないように用心しながら身をかがめた。でも。
(近い~!)
「お好みの胸はありましたか?」
「なっ、おまっ、何言ってんだ!」
驚いて半歩下がった俺に、彼女が得意気で楽しげな笑顔を向ける。
「だって、せっかく見たんでしょ?」
「見たって、だって……。」
あんまり驚いて、口をパクパクしてしまう。それを見てにこにこしている彼女。俺が慌てているのがよほど面白いらしい。
(くそっ!)
お返しに驚かせてやる!
「猫のかな。」
本気も混ぜて、さらりと口に出してみる。心臓はバクバクしているけれど。
「ああ、なるほどね。」
(え?!)
またしても自分が驚くことになってしまった。
彼女が自分の胸を隠して俺を非難する……というのが、俺に予想できた成り行きだった。なのに彼女は堂々と隣に立ったまま納得している。
「女っぽい感じがしなくて安心なんでしょう?」
(そうか……。)
彼女は、胸が小さい女子には男は何も感じないと思っているのだ。
(だからこんなに警戒心が無いのか…。)
でも、彼女の解釈に「違う」とは言えない。だって、ついさっき、性的な意味で見ているのではないと言ったばかりなのだから。
かと言って「そうだ」とも言いにくい。彼女のコンプレックスを否定してやりたいし、実際のところ、彼女の胸は俺にとっては十分に女っぽくて……。
「ばか。」
我慢ができなくなって、指先で彼女のおでこを押した。
「むう。」
鈴宮が可愛らしく口をとがらせて額を押さえた。たったこれだけのやり取りがものすごく嬉しい!
「あ! 直樹、こんなところに!」
大きな声とともに現れたのは剛だった。険しい目つきで俺を睨んでくる。
「由良ちゃん、直樹に何もされなかった?」
「あはは、何にも無いよ。佐矢原くんだもん。」
彼女の信頼に胸を張ってみせたけど、あまりの安心具合が淋しくもある。
三人で歩き出したとき、彼女は剛に当たり前のように尋ねた。
「ねえ、富里くんは、女の子は胸が大きい方が好き?」
(何を訊いてるんだ!)
そんなことを言ったら、自分の胸を見てくれと言っているようなものなのに!
剛はその質問に少し眉を上げて軽く笑った。そして。
「俺はあんまり大きいのは好きじゃないな。どっちかっていうと、小さめの方が好きかも。」
(ウソつけ!)
空野の姉ちゃんの話でさんざん盛り上がっていたくせに!
剛のとぼけぶりに呆れた。しかも、ああ答えたってことは、剛だって、ちゃんと鈴宮の胸をほかの女子と比較してみたってことだ。
(みんなやってるのか…。)
自分があれほど悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなった。
鈴宮がいなくなると剛が睨んだ。
「お前、触っただろ。」
「おでこぐらい、どうってことないだろ。」
むしろ、あの状況であれ以上の誘惑に負けなかったことを褒めてほしいくらいだ! でも…。
(もうちょっと意味のある触りかたにすれば良かったかなあ…。)
彼女がドキドキする顔を見てみたかった。