32 呼び出す
(結構、緊張するもんだなあ…。)
前にみんなで来たバッティングセンターの外にあるベンチでスマートフォンを見つめている。
(ただ電話をかけるだけなのに…。)
そりゃあ、相手が鈴宮なのだから仕方ない。でも、とりあえず今日は気軽な誘いだし、空野や剛に偉そうなことを言った手前、これくらいのことで怖気づいてはいられない。
(あのときに聞いておいた電話番号が、今になって役に立つとは思わなかった。)
何事も無駄なことなどないのだと、変なところで実感した。
梅雨も小休止の日曜日の午後。この古いバッティングセンターにも、そこそこお客が入っている。でも、満員になるほどではない。ここは古いから、お客は大人が中心で、何時間も長居をする人がいないのだ。そういう理由で、知り合いに会う可能性も低い。のんびりしながら練習するにはちょうど良く、鈴宮を誘うにも穴場といえる。
映画や買い物みたいな<お出かけ>に誘ったら、いくら彼女が俺を信用していると言っても、少なからず警戒するだろう。でも、ここ――お互いのほぼ生活圏内にあり、怪しげなところはまったく無く、野球部の俺なら来て当然の施設――なら、そして、思い付きのように電話で「今、ひま?」と誘ったら、きっと彼女は俺を疑うことはしないだろう。
もちろん今日は、あまり長時間は引き留めないつもりだ。でも、もしも一緒にいることが楽しくて遅くなってしまったら、家まで送る口実ができるというわけだ。
(かかった…。)
耳にあてたスマートフォンからコール音が聞こえる。
(まあ、向こうが出かけていたりしたら、今日は諦めるしかないけど…。)
断られたらがっかりするだろうけれど、一方でほっとするだろうな、とも思う。
『はい。もしもし?』
いつもよりも少し高めの、楽しげな声が聞こえた。
「あ、あの――」
突然、カアッと顔が熱くなった。それに気付いたら、鼓動も一気にスピードを上げた。つながったらこう言おう、と思っていた言葉が、のどで引っかかってしまう。
「ええと…。」
『あ、こんにちは。鈴宮です。』
彼女が少しふざけ気味に、ゆっくりと言った。その声に促されるように、なんとか呼吸を静めることができた。
「あの…、今、家?」
呼吸を落ち着けても、心臓はバクバクしたまま。みぞおちに力を入れないと、しゃっくりがでてしまいそうだ。
『うん。そうです、けど。』
(よし!)
とりあえず、一つ目の関門はクリアした。でも、こんなに汗をかくとは思わなかった。
「ええと、忙しい、かな?」
『ううん、大丈夫。』
(よし、ここからだ!)
そう。ここからが本題。断られたらショックが大きすぎるけど…。
「じゃあ、良かったら、ちょっと出てこないか? 今、バッティングセンターにいるんだけど。」
(言ったぞ!)
事前に頭の中で繰り返した言葉を一気に言って、達成感に浸る。彼女の返事は…?
『バッティングセンター? この前のところ?』
彼女の反応はいたって普通。「ノー」という雰囲気ではない…気がする。
「うん、そう。自転車ならすぐだろ?」
『うん、そうだね。でも、練習のお邪魔じゃない?』
(よっしゃーーーーー!!)
これはOKという意味だろう。思わず空いている手をグッと握りしめた。
「全然! 鈴宮なら…。」
そこまで言って、思わず弾んだ自分の声が恥ずかしくなった。またしても顔が熱い。
『そう? じゃあ、行こうかな。』
「おう。待ってるから。」
あまりにもとんとん拍子に話が決まって浮かれてしまう。漏れてしまう笑いを隠すために、片手を顔に当てていなくちゃならないほどだ。
(だけど……。)
一つの課題をクリアすると、残っている課題が浮かび上がってくる。そんな課題はいくつもあり、中でも一番大きなものは……。
(空野と剛にどう説明したらいいんだろう……。)
あれから毎日、しょっちゅう考えている。けれど、あらたまって告白する決心もつかず、かと言って、完璧に開き直ることもできなくて、今も後ろめたさを感じている。…まあ、鈴宮のことを考えている間は忘れているけれど。
本当は、一番初めに彼女を可愛いと思ったときに言ってしまえば良かったのだ。剛と一緒に空野の家に行ったときだって、鈴宮の家を見に行く話題は結構なチャンスだったはずだ。なのに俺は決心がつかず、しかも、自分の気持ちを隠したまま、彼女の家を見に行くことをけしかけることまでした。そのあとだって、言おうと思えばいつでも言えたはずなのだ。それが分かっているのに、こうやって内緒で彼女を呼び出したりしている……。
(でもなー…。)
あの二人に話すよりも、鈴宮との関係を進めることの方が重要なのではないだろうか。……というよりも、楽しい。嬉しい。会いたい。
(だから、今日はごめん、二人とも!)
今週中には必ず話す! でも今日は、鈴宮と二人だけの時間を楽しませてくれ!
電話から10分あまり経ったころ、自転車に乗った鈴宮がやって来た。ベンチから立ち上がった俺を見て微笑み、駐輪場に自転車を停める。
「呼んでくれてありがとう。」
鍵をかけて体を起こした彼女が笑顔で言った。それに応える俺も、もちろん笑顔だ。
「急にじゃ悪いかと思ったけど。」
「ううん、そんなことないよ。」
今日はスカート部分がぐるりと襞になった薄茶色のすとんとしたワンピースにスパッツを履き、白い薄手のカーディガンを羽織っている。シンプルで彼女らしい服装。ジーンズでラフな格好の俺と並んでも、まったく違和感は無いだろう。
ふと、彼女が俺の肩越しに何かを見ていることに気付いた。誰か知り合いでもいるのかとドキドキしながら振り向いても、俺の知った顔は一人もいなかった。尋ねようと向き直ると、目が合った彼女が微笑んだ。その笑顔で一瞬、気が緩んだ。
「富里くんは?」
「へ?」
思わず間の抜けた声が出た。きっと顔だって同じだろう。
「あれ?」
鈴宮が目をぱっちり開けて、俺を見上げる。
「もしかして、佐矢原くん、一人?」
「う…ん、そうだけど……。」
ズーン…と、頭の上に思いものを載せられた気がする。
「あ…あのぅ…、剛が一緒だと思ってた?」
「うん…。」
迷った様子で答える彼女。
(剛に会いたくて来たのか?)
鼓動がこめかみに響いてきた。不安が押し寄せる。俺と二人だけは嫌だろうか? 「帰る」って言われちゃうんだろうか?
「剛はその…ちょっとここからは遠いから…。」
歯切れ悪く言い訳めいた言葉をつぶやく。
「そうか。残念だなあ。」
彼女の「残念」という言葉が胸に刺さった。やっぱり鈴宮は剛に――。
「せっかく富里くんの分も持ってきたのに。」
「剛の、分?」
彼女は布のバッグをごそごそと探っている。そして取り出したのは、ラップに包んだ茶色っぽい四角のもの。
「パウンドケーキなんだよ。きのう焼いたの。」
「…ケーキ?」
そっと受け取ると、彼女は笑顔になった。
「へへ、実はちょっと自慢できるくらい美味しいんだ。うちでは『店で売れる』って言われてるよ。あたしの腕っていうよりも、レシピが良いんだけど。」
「へえ……。」
にこにこと説明する鈴宮には、何の憂いも屈託も無い。剛がいないことはそれほどショックではないらしい。
「佐矢原くん、もし気に入ったらもう一つ食べてくれる? おうちに持って帰ってくれてもいいし。」
…と言われたときには、もらった一切れは、すでに半分俺の口の中に消えていた。
「食う。うまい。」
もごもごしながら答えると、鈴宮は面白がって笑った。
でも、そのケーキは本当にうまかった。少しほろほろした生地でいて、全体はしっとりして重みがあり、ぶどうやオレンジや俺には分からないフルーツがいっぱい入っている。
「ホントにうまい。」
三口目で、もらったケーキが無くなった。
「やった♪ 嬉しい。」
彼女が両手を打ち合わせて、可愛らしく喜ぶ。もちろん、俺だって嬉しい。彼女のこんな笑顔を見られたことが。そして、俺のために作られたものじゃなくても、彼女が俺に――剛にもだけど――食べさせようと思って持ってきてくれたものだから。
「鈴宮、自分の分は?」
「ん? あるよ。」
「じゃあ、あっちに座ろうぜ。俺、剛の分も、今食べる。」
ベンチに向かいながら自販機で飲み物を買う。ケーキのお返しに彼女の分も俺が買うと言ったら、笑顔でだけど、頑なに遠慮された。格好つけたかった俺としてはチャンスが消えて残念だ。けれど、自販機の前で押し問答をすることも、俺たちの仲の良さを見せびらかしているようで、それはそれで嬉しい経験だった。