30 やっぱり?
バスで鈴宮と話した翌朝も天気は悪かったが、俺はうきうきした気分で登校した。鈴宮に会えると思うと、それだけで嬉しい。きのうの彼女の態度は本当に親しげで、それまであまり話せなかったことを埋め合わせるだけじゃなく、俺に希望を抱かせるに十分な何かがあった…と思う。教室で顔を合わせた彼女が今日はどんな顔をするのか――嬉しそうか、恥ずかしそうか――なんて考えると、思わずニヤニヤしてしまう。そして、彼女を見た自分もどんな顔をするのだろう、と。
朝練が終わるころ、青山先輩が近付いてきて小声で訊いてきた。
「きのうの子って、お前の彼女?」
鈴宮のことだとすぐに分かった。バスの中で、先輩は俺のことなど気にしていないと思っていたけれど、ちゃんとチェックされていたらしい。
「や、違いますよ。だだの同じクラスの。」
笑って否定しながら先輩の方を向いたけれど、思わず視線が泳いでしまった。さり気なく靴ひもを点検するふりをする。
「そうなのか? それにしちゃあ、お前、まっすぐあの子のところに行ったけど?」
「え、そう、かな。」
そんなにいそいそしていたのかと思ったら、ふわっと耳が熱くなった。
「話してるときも、すっげぇ楽しそうだったぜ?」
更なる冷やかしに鼓動も大きくなる。それは鈴宮と俺が、そういう雰囲気を醸し出していたということだ。つまり、俺だけじゃなく、彼女も…。
「いや、普通っすよ。」
けれど、笑って否定する。今はまだそれを認めるわけには行かない。青山先輩が、鈴宮のことを俺の<彼女>として他人に話してしまったら困る。それに、先輩が、俺が照れているのを分かっていて、単にからかっているだけという可能性も否定できない。
どうにか表情を落ち着かせ、先輩に向き直る。そして平静を装って言った。
「球技大会でだいぶ練習したんで。みんなでバッティングセンターに行ったり。」
先輩は少し考えるような様子をし、思い出したように「ああ!」とうなずいた。
「あの子だったな、ほら、村崎のクラスと当たって、エラーばっかりでホームインした…。」
「ああ、そうです。」
先輩の言葉であのときの鈴宮を思い出す。一生懸命で健気で、抱きしめたいほど可愛かった。あのあと、わざわざお礼を言いに来てくれて、グローブと一緒に手作りの焼きそばパンをくれたのだった。
「そうか、あの子か。ふうん。」
納得したような声で現実に引き戻された。先輩を見ると、もう俺をからかうのは飽きたようだ。
「お前にもやっと春が来たのかと思ったのに、残念だなあ。」
そう言って離れて行く。
ほっとしながらも、「お前にもやっと」と言われたことが少しばかり悔しい。きのう汰白に言われた「危険度ゼロ」に続き、周囲の俺の評価がどうも悲しい。
(だけど。)
鈴宮を俺の彼女だと、先輩は勘違いした。いやまあ、ただ冷やかすために言ったのだとしても、二人で話しているところは「楽しそう」に見えたのだろう。思い出してみると、近衛にも、鈴宮と俺が付き合っているのかと訊かれたことがあった。
(ということは…。)
鈴宮と俺が二人でいるときには、そんな雰囲気が以前からあったということだ。つまり、俺だけが一方的にではなく、彼女の方も――本人が気付いていないにしても――俺に気持ちが……。
「くふ。」
思わず笑いが漏れる。
いったいどんな顔をして教室に行けばいいんだろう?!
そわそわする気持ちを隠しつつ、いつものとおり剛とくだらない話をしながら教室に着くと、鈴宮は黒板の前で話していた。先に教室に入った剛が嬉しげに声をかけると、彼女も屈託のない笑顔であいさつを返した。そのまま俺に視線を移し、同じように「おはよう。」と微笑む。
今朝の彼女は、きのうのバスに比べると、かなり控えめだ。大勢の前では、俺に親しげな態度をとるのが恥ずかしいのかも知れない。
(やっぱり。)
期待が膨らむ。あいさつと一緒に、心の中で「きのうは楽しかったな」と付け加えながら笑顔を返す。
(彼女も俺のことを――)
そこで剛の声が。
「由良ちゃん、今日の英語の訳、やってある?」
鈴宮の視線が剛に戻る。俺の笑顔は…行き場を失う。
「え。富里くん、今度はちゃんとやってくるって言ってたのに。」
「いやー、夜、起きていられなくてさあ。きのうは床に座ったまま寝ちゃってた。」
「あらら。たくさん寝ないとダメなんだもんね、富里くんは。ちょっと待ってね。」
鼓動が一、二回、飛んだあとに戻って来た。
迷うことなく俺から離れた視線。剛との親しげな会話。そこには俺に期待を促す要素など一つも見えなかった。
立ち止まることもできず、俺は二人のやり取りを聞きながら自分の席へと向かうしかなかった。背中から鈴宮と一緒にいた女子の「剛くんらしいよねー。」という気楽な声が聞こえる。ざらざらする気持ちは、微妙な敗北感だ。ただ、鈴宮がほかの女子のように剛を「剛くん」とは呼ばないことだけが、微かな救いだった。
(仕方ないじゃないか。)
自分の席で、自分に言い聞かせる。
(剛とは席が近いんだし。)
そう。今までだって、話しているところはしょっちゅう見ていた。それに、宿題や予習を見せてもらうくらいのことは誰でもやっている。親切な鈴宮なら、相手が話したことがない男でも、断ることなんてないだろう。
(でも。)
どうしても落ち着かない。安心しきれない。
彼女と剛の会話が、あまりにも滑らかだったから。剛との間に一定の了解事項があると感じたから。
一定の了解事項―――それは、はっきりとは見えない何か。言葉で確認したものではなく、日々の接触の中で自然にかたち作られるパターンのようなもの。そういうものが、彼女と剛の間には存在している。
(いや、でも俺だって。)
青山先輩には、俺たちが友だち以上の関係に見えたのだ。俺と鈴宮との間にも、そういうものが存在しているように見えたということだ。
(きっとそうだ。)
本人が意識して作り上げるものではないのだから、自分には分からなくて当然なんだ。
(でも……。)
鈴宮は、俺よりも剛との方が仲がいいのかな……。
休み時間になると、鈴宮が誰と話しているのか気になってしまう。そんなことを気にしているよりも、自分でさっさと行って、彼女と話をすればいいじゃないかとちらちらと思う。でも、まずは調査から。――なんていうのは言い訳で、本当は今朝みたいに彼女にさらりとスルーされるのが怖いんだ。
午前中の休み時間は、彼女はいつも森梨と一緒にいた。席に着くときに空野や剛と言葉を交わすことはあったけれど、それ以外は女子としか話していなかった。
(なんだ……。)
休み時間が一つ終わるたびに少しほっとした。4時間目が始まると、やっと気持ちが落ち着いた。
(鈴宮は、剛と特別に仲がいいわけじゃない。)
自分が確認した結論を、しっかりと胸に刻み付ける。
(それに、やっぱり俺の方が優勢かも知れない。)
剛よりも先に仲良くなった。焼きそばパンをもらった。雨宿りをさせてもらった。きのうもバスの中で楽しく過ごした。いくら剛の席が近くて話す回数が多いとしても、彼女と過ごした時間の内容は、俺の方が濃いと思う。
すっかり気分が良くなって、昼休みは剛も一緒に男ばかりで楽しく無駄話をして盛り上がった。途中でトイレに行って廊下を戻りながら、ふと、きのうの昼休みのことを思い出した。鈴宮となかなか話せないことが淋しくて、一人で窓から外を見ていたのだった。
(それが…。)
偶然、帰りにバスで一緒になっただけで、すっかり明るい気分になっていた。朝だって、剛のことで不安になったけれど、今は彼女とのこれからに希望を持っている。
(俺って単純すぎるかなあ。)
だとしても仕方がない。こういう気持ちは理屈でどうにかできるものではない気がするから。
…なんてことを考えていたら、教室から当の鈴宮が出てきた。すぐに俺に気付き、後ろ手に戸を閉めながら「良かった。」とにっこりした。俺を探していたらしい。
(やっぱり勘違いじゃないよな!)
嬉しくて笑顔をこらえきれない。でも、鈴宮に笑いかけたって、何もおかしなことはないのだ。だって、彼女と俺は気持ちが向かい合っているのだから。
「あのね、佐矢原くん。これなんだけど。」
ちょこちょことやって来た鈴宮が、隣に並んで一枚のプリントを広げてみせる。触れそうで触れない距離がもどかしい。
「ん、何?」
プリントをよく見るために少し屈み……ながら、微妙な距離を詰める。これくらいなら「偶然」で済ませられる。そう思いながら、腕でそっと彼女の肩に触れる――。
「うわ。」
(え?)
鈴宮が、俺に押された勢いでよろけてしまった。びっくりして俺が何もできないうちに、彼女はトトッとたたらを踏んで止まり、俺に驚いた顔を向けた。
「突き飛ばした?!」
「い、いや、まさか! ごめん。」
驚いたのは俺も同じだ。まさか、そんなに力が無いとは…または、自分がそんなに強く当たったとは思わなかったから。すると。
「えへへ、なーんてね。」
彼女は急にニヤッと笑い、からかうように言った。
「ごめんね、わざとでーす。」
(うっ……、来た……。)
ときどき出てくる素の鈴宮。普段のおとなしい彼女とは違う、元気が良くて、冗談が好きな少女。
(ああ…可愛い!)
もう、めちゃくちゃ嬉しい。そして照れくさい。だって、相手が俺だから、彼女はこんなことを言うのだから。でも、こんな、ほかの生徒が行き交っている廊下でだらしない顔もできないし…。
「なんだよ、もう。」
どうしたらいいのか分からない。ニヤニヤするのも隠しきれない。せめて落ち着いて見えるように、両手をズボンのポケットに突っ込んでみる。
そんな俺にちらりと向けられた視線がとても意味ありげに見えて、ますます胸が高鳴った。