23 焦る!
(気持ちいい……。)
熱めのシャワーを浴びながら、くつろいだ気分に浸ってしまう。今にも鈴宮のおばさんが帰ってくるのではないかと思うと、急がなくちゃと焦るのに、やっぱりシャワーは気持ちが良くて、ついつい気持ちが緩んでしまった。
とは言え、落ち着かないのは間違いない。最悪なのは、服を着る途中で入って来られることだ。だから早く出て、早く服を着なくては。
(そうだ。)
あのびしょ濡れの服をここで絞ってしまえばいいのだ。そして、ここで着てから出て行けば、脱衣所であたふたする必要はない。
シャワーを止めると、外の強い雨の音が聞こえてきた。雷鳴も続いている。どのくらい続くのだろうと考えながら、そっと扉を開けた。廊下へのドアがちゃんと閉まっていることを確認。俺の服は……。
(あれ?)
見当たらない。
床を濡らすと悪いと思って、敷いてあったタオルの上に置いたはず。そのタオルは洗濯かごらしきものに入っている。その下に俺の服は……無い。
(え? あれ?)
服が無い。着るものがない。俺は今……。
(どうすればいいんだ?!)
軽くパニックだ。当然ここは鈴宮を呼ぶしかないわけだが、そのためには脱衣所から顔を出さないといけないわけだし、そのためには風呂場から出なくちゃならない。けど、着るものがない! 今にもおばさんが帰ってくるかもしれない!
恐ろしさにすくみあがりながら脱衣所を見回すと、畳んだバスタオルがあった。この雰囲気だと、俺のために用意されたものに違いない。手早くそれで体を拭き、腰に巻き付けて、脱衣所から恐る恐る顔を出す。
「鈴宮ー。」
探るような弱々しい声になった。雨の音がうるさいけれど、聞こえるだろうか。
「ん、あ、はーい!」
(よかったー!!)
返事が聞こえてほっとした。
急いでドアを閉めて、念のため内側から押さえた。パタパタとスリッパの足音が近づいてきて、「はーい、出たの〜?」という声。「服がない」と言おうと口を開いたところで、ガタッとドアノブが動いた。
(いやちょっと!)
まさかとは思っていたけど、押さえておいて正解だった。「出たの?」と訊いておいて開けるって、どういうことだ?!
「あ、ごめん。」
のんきな声がした。でも、そんなことに構っている場合じゃない。とにかく服だ。
「あのさ、俺の服は?」
「あ、そうだった。洗濯機の中。」
(洗濯機?!)
見回すと、洗面台の横にドラム式の洗濯機があった。
「簡単に洗って脱水かけといた。そろそろ止まってるかなあ?」
(洗って……?)
すうっと背筋が寒くなった。そう言われてみれば、玄関でそんな話をしてたような……。
「乾燥は時間がかかっちゃうから、とりあえず脱水まででごめんね。」
「いや、ああ。」
「冷たかったらアイロン掛けてあげるけど。」
「い、いや! それは平気だから!」
「そう? 」
「あの、さ、」
次の言葉を言う前に、ごくりとつばを飲み込んだ。
「はい?」
「洗ってくれた…のか?」
「あ、うん。少ないから洗面台でささっと。ホントに簡単にだけど。」
(手で…、洗わせちゃった……?)
めまいがした。
「そ、そうか、ありがとな。」
なるべく気軽な声を出す。でも、頭の中はどうしたらいいのか分からないほどのショック状態だ。
「出たら温かいもの飲もうね。あと、お家に電話した方がいいかも知れないね。」
「あ、うん、そうする。」
非常に常識的な話をされているけれど、それが別世界の話のような気がする……。
遠ざかる足音を確認してからドアから手を離し、そっと洗濯機に近付く。半分ぼんやりした頭で丸い扉を開くと、白と黒の布が見えた。
(Tシャツ…、トレパン…、タオル……)
出しながら一つずつ確認。次に出てきたものを確認して、思わず目を閉じた。
(だよな……。)
ボクサータイプの黒いパンツ。デザイン的には見られても恥ずかしくはない。男同士で着替えるときも平気だ。はいている状態なら、女子に見られても、ぎりぎりセーフだ。だけど……、だけど!
脱いだものはダメだ! それは裸を見られるのと同じくらい恥ずかしい! 俺は恥ずかしい! 身悶えするほど! なのに!
(鈴宮は…恥ずかしくないのか?)
そこが分からない。しかも「洗った」とかって。
(もしかして、俺のだから……?)
洗面台に水を貯めて洗濯をしている彼女が目に浮かぶ。にこにこ顔で鼻歌を歌ったり……ん?
(洗面台は、ここだ。そして……。)
風呂場は隣。ドアはアクリルの……丸見え、ではないが、色は……。
(ぅあーーーーーー!!)
隣にいたのか?! シャワーの音で気付かなかったんだ! なんだかもう、何をどうしたらいいのか分からない!
(うわ!)
焦って前を向いたら、洗面台の鏡の中に、裸で腰にバスタオルを巻いただけの自分がいた。見慣れた自分の体なのに、やけに色っぽく見える。
(とにかく早く服を…。)
もうこれ以上、あれこれ考えるのはやめよう。無理だ。済んでしまったことは、今さらどうしようもない。できれば記憶から消してしまいたい。
脱水したままのパンツはやっぱり冷やっとした。でも、バスタオル一枚よりもずっと心強いことは間違いなかった。
「ごめんね…。」
リビングにある電話を借りて家への連絡が済んだとき、後ろで控えめな声がした。振り向くと、鈴宮が肩を落として立っていた。
「え? 何が?」
雨宿りをさせてもらって、シャワーも借りて、洗濯までしてもらったのに、彼女が謝る必要なんてないはずだ。
「あの…、嫌だったよね、下着まで勝手に洗われたりしたら……。」
「そんなこと!」
思わず大きな声が出た。
「あのでも、見てないよ。まとめていっぺんに洗ったから…。」
懸命に弁解する彼女に、胸の中から言葉が湧き上がる。
「嫌じゃないよ。そんなことない。すごく有り難かった。」
「だけど…。」
俺を見上げた彼女は、俺の言葉を信じようかどうしようかと迷っているようだった。だから俺はニヤッと笑ってみせた。そして一言付け加える。
「ちょっと恥ずかしかったけど。」
思ったとおり、効果があった。彼女に弱々しい笑顔が戻る。
「うん。ごめんね。」
「だけど、ホントに有り難いと思ってる。俺、雨の中を鈴宮が来てくれたとき――」
(そうだ。来てくれたとき。気が付く暇がなかったけど。)
「すげぇ嬉しかった。」
そうだった。すごく嬉しかったのだ。彼女の姿を見られたことが。雷雨の中を来てくれたことが。
彼女が目を瞠る。それから恥ずかしそうに、にこっと笑った。
(鈴宮……。)
その笑顔が俺の中の何かをかき立てる。焦りに似た何か。焦燥感。何かしなくちゃいけないのに、何もできないもどかしさ。
―――俺の、猫。
胸の中にぽっかりと言葉が浮かぶ。
(なんで「俺の」なんて…。)
彼女の顔を見ていられなくなって、思わず目を伏せた。
「なら、良かった。」
彼女のほっとした声。俺はそれに「うん。」とうなずく。胸の中に、これだけじゃ足りない、もっと伝えなきゃ、もっと、何か、と、もどかしさが積もっていく。
「あの、それより、さ、」
けれど結局は何も言えなくて、話題を変えることで、気まずい思いを隠すことにする。
「雷が終わったら――」
まるでその言葉をあざ笑うように、ゴロゴロとうなり声のような雷鳴が聞こえた。
「傘、貸してもらえるかな。うちの車、父親が仕事に乗ってっちゃってて。」
「それはいいけど、佐矢原くんの家、どのへんなの?」
「東中の向こう。走って20分くらいかな。」
「走って? じゃあ、雨の中を歩いたら――あ、ちょっと待って。」
部屋の中で電子音が聞こえて、鈴宮が振り向いた。彼女のスマートフォンに電話がかかってきたらしい。
「やっぱりお母さんだ。」
俺に表情で「待っててね。」と合図しながら、彼女は俺に背を向けて電話に出た。「まだいるよ。」と答えているのは俺のことだろう。ずっと見ているのも変な気がして、俺も彼女に背を向けた。ファックス兼用の電話機に表示されている時間は<19:16>。うちではそろそろ夕飯の時間だ。そう言えば鈴宮だって、何かやることがあったかも知れない。そもそも試験前だから部活が休みになっているわけだし…。
「うん、分かった。じゃあね。」
彼女の軽い声が聞こえて、ハッともの思いから覚めた。振り向いた俺に、彼女が告げる。
「お母さんが戻ったら、佐矢原くんを送るって。」
「え、でも…。」
「駅のスーパーで買い物してる間に、この雨で駅前が渋滞になったみたいなの。駐車場から詰まってるんだって。でも、そこを抜けたらすぐだから。」
やさしく穏やかに微笑んで、俺に言い聞かせる彼女。俺が雨の中を歩いて帰るのを心配してくれているんだろう。だけど。
「あの、そこまで世話になるのは悪いよ。」
「どうして?」
彼女が心から不思議そうな顔をした。それを見て、あの調理実習の日の記憶が浮かび上がってきた。驚いた顔をして、無言で俺を見上げていた彼女……。
「雨宿りさせてもらって、風呂まで借りたのに…。」
俺の言葉を聞いて、鈴宮は嬉しそうににっこりした。また落ち着かない気分になって、思わず視線をそらしてしまった。
「いいんだよ。だって、球技大会で、たくさん助けてもらったから。」
「え……?」
「佐矢原くんのおかげで、球技大会、楽しかったから。」
(俺のおかげって……思ってくれてた?)
素直に伝えられる言葉に胸がドキドキする。
「あ…あれは、さ、あの、調理実習で教えてもらったお礼…みたいなものだから。」
「そうなの?」
「だ、だから、その、球技大会のことは、もう…そこで終了だから…。」
俺らしくない。こんな気弱な話し方。
「そう……? でも、いいよね?」
彼女が確認するように、笑顔で見上げる。
「佐矢原くんが雷の中で外にいるのに、放っておくなんてできないもん。」
―――俺の、猫。
胸に浮かんだ言葉がせり上がってくる。
(どうして「俺の」なんだよ?)
目の前で彼女が「ね?」と首を傾げた。それから、「でね、」と話題を変えた。
「お母さんがスープをどうぞって。弟が塾に行く前に食べられるように、早く作ってあるんだ。ミネストローネなんだけど、好き?」
「あ、う…ん。」
スープの名前を言われてもよくわからないが、俺はほとんど好き嫌いがない。
「あたしが作ったから、特別美味しいわけじゃないけどね。」
「いや、きっと美味いと思う。うん。」
(鈴宮が作った食べ物なら、きっと。何でも。)
二人で微笑み合うこの瞬間が、急に貴重なものに思えた。
「ありがとう。じゃあ、こっちの椅子に――」
「あ、ああ、俺、玄関の方が落ち着くから、そっちに。」
そこだけは譲れない。
「え、でも……。」
戸惑う鈴宮を、急いで説き伏せる。
「俺の服、まだ湿ってるし。」
「あ、ごめ――」
「いや違う。そうじゃなくて。なんか、落ち着かないからさ。」
そう。俺の気持ちの問題。鈴宮のおばさんが帰ってきたときに、俺にはやましいことは無いと、きっちりとアピールしたい。今後のために、俺を危険人物だと思われることは絶対に避けたい。……風呂を借りて、洗濯までしてもらっちゃったけど。
おばさんが帰ってきたとき、俺は玄関の上がり框にタオルを敷いて腰掛けていた。湿ったTシャツの冷たさを心配して、鈴宮が出してくれたバスタオルを肩に掛けて。鈴宮はその横に座布団を持ってきて座っていた。俺たちの間には長方形のお盆があり、飲みかけのスープとどら焼きが乗っていた。彼女が作ったトマト味のスープは、具だくさんでとても美味かった。
「あらまあ。」
ドアを開けたおばさんの最初の言葉はこれだった。それからすぐに笑顔になった。
「やだわ、こんなところでおままごとなんかしちゃって。」
少し恥ずかしかったけど、こんな反応をする大人は好きだな、と思った。そして、鈴宮の家族を好きだと思えて良かった、と、ほっとした。
俺があいさつとお礼を言う間、おばさんは「大きいのね!」「凛々しいわ〜。」なんてはしゃいでいた。送ってもらう間もずっと楽しそうで、車の中では、鈴宮よりもおばさんとたくさん話した。別れ際に、「今度はゆっくり遊びに来てね。」と言ってくれた。
かなり有頂天な気分で、剛と空野が焼きもちを焼くだろうなぁ、と思ったとき、ハタと気付いた。あそこで雨が降り始めたなら、空野の店に駆け込めば良かったのだ。公園を突っ切れば、空野の家はすぐだ。しかも、店なら必ず人がいる。部活が休みなのだから、空野も家にいただろう。そんなことに気付かなかった俺を、空野はどう思うんだろう。
(でも……。)
空野や剛が何を言おうと、俺は今日のことを絶対に後悔しない。