22 地獄で仏…なのか?
第三章 「恋と友情」です。
球技大会が終わってから、俺たち――鈴宮、森梨、空野、剛、そして俺――はときどき話をするようになった。一緒にバッティングセンターに行ったというきっかけはあるけれど、一人ずつでも集団でも、もともと相性が良かったらしい。常につるんでいるわけではないが、この顔ぶれだと安心感がある。格好つけなくてもいいというか。
おとなしい鈴宮もかなり馴染んで、口数は多くは無いけれど、ときどき冗談も言うようにもなった。もちろん、彼女は空野と剛の気持ちは知らない。もしかしたら、森梨は気付いているのかも知れないが、何も言わない。
俺はときどきふざけ半分に鈴宮を「猫」と呼ぶ。最初は驚いた顔をしていたけれど、今は楽しそうにくすくす笑ったり、「にゃお」と返事をしたりする。たったそれだけのことが俺は妙に嬉しくて、そのあとしばらくは楽しい気分でいられる。だって、彼女を「猫」と呼ぶのは俺だけで、彼女はそれを楽しんでいるのだから。剛と空野は彼女を「由良ちゃん」と呼ぶ彼氏候補だが、俺は違う。<兄>…というのとも、今は違う気がする。俺が面倒を見るなんていう上下関係なんか無く、彼女と俺は同等で、同じ方向を向いている仲間なのだ。
…なんて思いつつ、剛や空野が彼女と楽しそうに話しているのを見ると、俺はお払い箱かと寂しい気分になる。あの二人以外の男のときは、もっと積極的に追い払いたくなる。この点に関しては、兄貴的気分が簡単には抜けないらしい。
(何やってんだろ、俺…。)
ストレッチをしながら自問する。
6月の二週目、金曜日。朝日公園に立っている時計は午後6時半を指している。夏至が近いこの時期は、太陽はまだ沈んでいない。けれど、今は空が厚い雨雲に覆われていて、もうずいぶん薄暗くなってしまった。
水曜日からテスト前の部活休止期間に入り、俺は夕方のランニングを始めた。部活の無い日にランニングをするのはいつものことだ。そのコースに朝日公園が入っていることも。
でも、今までここで休憩したことは無かった。この野球場の方まで来たことも。いつも反対側の外周に沿って――つまり、空野の店の前を通って――走り、そのまま引き返していた。でも、今回はこちら側まで来ている。しかも、こんなところでインターバルまで取ったりして。
本当に、俺は何をやってるんだろう。分からない――分かりたくない。知らないままでいい。……けど、分かっている。本当は鈴宮に会えるかも知れないと思って来ているってことを。
(あーあ。)
きのうもおとといも、会えないまま終わった。彼女の家の前などほんの数秒で通り過ぎてしまうのだから、それでばったり顔を合わせるなんて、普通ではあり得ない。だって、今まで空野の家の前を何十回も通っていたのに、会ったことが無かったのだから。
(学校でも話してるのになあ。)
どうして来てしまうんだろう。特に今日は雨が降りそうだから早く帰ろうと思っていたのに。
(…っていうか、この暗さ、ヤバくないか?)
そういえば、風が冷たい。それに、あの音は雷?
急いで一つ大きく伸びをして、足首を回す。
「行くぞ。」
声を出して気合を入れる。走り出す方向は……一瞬迷って野球場を回る道。走るリズムを調整し、スピードに乗る。そのときポツリと鼻の頭に水滴を感じた。
(え、もう?)
どのくらい降るんだろう? 通り雨だろうか。家に着くまでひどくならないといいけど。走って帰れば20分くらいか。
(あれ?)
まずい気がする。雨粒が大きい。雷がまた鳴った。
(マジでヤバい!)
あっという間にたたきつけるような勢いの雨になった。慌てて野球場の高いフェンスに走り寄る。屋根は無いけれど、広い場所にいるよりはマシな気がする。
雨粒が痛い。Tシャツもトレパンも、あっという間にびしょ濡れになって体に張り付く。芝生の広場を振り返ると、地面の上30センチくらいは水しぶきで煙っている。雨の音も「ザー」ではなく「ドー」だ。まさにバケツをひっくり返したような雨。
どこかでしばらく様子を見た方がいい。急に降り出した雨だから、急にやむかも知れない。
野球場に沿って公園の外周に出た。フェンスの中には屋根のあるベンチが見えるけど、今は入れない。公園の周囲に植えてある木は、雨宿りができるような大きさではなかった。そのまま道路沿いをバックネット方向へ向かう。ちらりと鈴宮の家を横目に見ながら、豪雨を透かして大きめの木を探して進む。雨が目に入る。途中で空がピカッと光り、大きな雷鳴が響いた。
(あそこなら!)
バックネット裏のあたりが公園の角になっていて、大きな木が何本も枝を広げていた。ようやくの思いでそこに駆け込む。葉の間から雨粒は落ちてくるけれど、ここなら雨に直接さらされないで済む。周りには誰もいない。こんな日に外でグズグズしている人間は俺くらいだったらしい。
首に巻いていたタオルをはずして絞ると、水がジャージャーと出た。頭と顔を拭き、首、腕と水滴が消えるにしたがって、少しずつほっとする。けれどTシャツとトレパンは脱ぐわけにはいかず、冷たく張り付いたままで気持ちが悪い。
(まいったな。)
雨の大きな音が続いている。雷も。暗さが増したので街灯が点いていた。それを見たら、このまま降り続けたらどうしようかと不安になった。家族にランニングに行くと伝えてきたけれど、俺が走るコースを詳しく説明したことはない。やまなければ、この中を帰るしかない。財布もスマホも持ってきていないから。
あれこれ考えていたそのとき、傘をさした人影が道路から駆け込んできた。強すぎる雨に、傘をさしていても雨宿りをしようと思ったのだろう――と思ったとき、声がした。
「やっぱり! 佐矢原くん。」
鈴宮だった。足元を見ながら走ってくる。頬にかかる黒髪。白いサマーセーターに水色のスカート。足には白い長靴を履いて。
「窓から見えたの。もしかしたら、って思って。」
まっすぐに見上げる瞳。俺が……。
「うち、すぐそこなの。雨宿りしてって?」
「あ、いや、でも。」
「大丈夫。遠慮しないで。木の下でも雷は危ないよ。」
その瞬間、空が光った。木の輪郭が黒く目に焼き付く。そしてガシャーン! というような雷鳴。外にいるのはやっぱり怖い。
「あの、じゃあ、頼む。」
「うん、はい傘……あれ?」
鈴宮が空いている片手を見た。それから「あー……。」と肩を落とした。
「長靴履いてるうちに忘れちゃった。ごめんね、一緒に入って行って?」
そう言って、自分の傘を俺の頭の上に差し出そうとする。その気持ちだけで十分に嬉しい。
「あ、いや大丈夫。もうずぶ濡れだから。」
「そんなこと言わないで。すごい雨だから。こっち。」
俺に傘を差しかけるために腕を伸ばし、一歩踏み出した状態で彼女が振り返る。ここで言い争っても仕方がないので、俺も歩き出すことにした。
「俺が持つよ。」
傘に一緒に入っていくなら、背が高い俺が持った方がいい。それに、そうしないと、彼女は俺をちゃんと傘に入れようとして、自分が濡れてしまうだろう。俺はもう濡れネズミなんだから構わないけれど。
「ありがとう。」
彼女が微笑む。それを見ながら少しばかり残念な気持ちが湧いてくる。
(こんなにびしょ濡れじゃなければな…。)
服が乾いていれば、もうちょっとくっついて歩くこともできるのに――なんて想像していた1、2分のうちに、俺は鈴宮の家の玄関に避難することができた。
「そのまま待ってて!」
鈴宮が慌てて奥へと消える。全身びしょ濡れの俺からは玄関のたたきに盛大に水滴が落ちて、水たまりができそうな勢いだ。一旦外に出て服を絞ろうかと思っているところに鈴宮が戻ってきた。タオルをたくさん抱えて。
「拭いて拭いて、ねえ、風邪ひいちゃうよ。」
一枚で……と遠慮する間もなく、彼女は身を乗り出すようにしてバスタオルを肩に投げ掛けた。俺がドアの近くにいるから、上にいる鈴宮からは少し遠いのだ。乾いたタオルの温かさにほっとする…と思った瞬間、もう一枚のタオルが視界をふさいだ。
「こっち来て、こっち。」
「あぶね…おい!」
「大丈夫。靴踏んでもいいから。」
玄関の上で、俺の頭にかぶせたタオルの両端をつかんで引っ張っているらしい。
バランスを崩しながら1、2歩移動すると、ものすごい勢いでタオルごと頭をこすられた。途中でタオルの上から鼻と口を押さえられたのは、顔の位置を確認するためだったと思いたい。彼女は俺に何の恨みも無いはずだ。
頭のタオルから解放されたとき、ほっとしたあまり、大きなため息が出た。ようやく落ち着いて顔をあげたら――。
「っ?!」
目の前に鈴宮の顔があった。いつものように、仲間同士の笑顔を浮かべて。
「か……。」
(可愛い顔してんじゃねえよ! こんなに近くで!)
あんまりにこにこと見つめているので、キスでもしてほしいんじゃないかと、危うい方向に思考が進む。心臓が制御不能だ。
(しっかりしろよ、俺!)
表情を動かさず、肩のタオルで体を拭きながら視線を下に向ける。腰のあたりに違和感を感じて振り向くと、鈴宮が手を伸ばしてTシャツの裾を引っ張っている。そんなことにもドキドキする。水滴が絶え間なく落ちる服をつまんだまま、鈴宮が眉間にしわを寄せて見上げてきた。
「びっしょりだよ?」
「ああ。」
それは仕方ない。ここに避難させてもらえただけでも十分に有り難い。なのに、鈴宮は気が済まないらしい。
「ねえ、簡単に洗ってあげようか?」
「え、いっ、いや、それはいいよ。」
(さすがに女子の家で服を脱ぐとか無理だし。)
「水洗いして、脱水だけでも。」
「いや、大丈夫。」
(そんな無邪気な顔で言われても。)
「まだ、雨いっぱい降ってるし。」
「そうだな。しばらくここで――」
「濡れたの着てると、体が冷えるよ。」
「うん、でも大――うぅっ。」
その瞬間、悪寒に体が震えた。
「ほら! 寒いでしょ! 風邪ひいちゃうでしょ!」
まるで母親のような顔で腰に手を当てる鈴宮。でも、やっぱり「はい。」とは言えない。
「いや、今のはたまたま――」
「恥ずかしかったら、その間、お風呂場でシャワーでも浴びてればいいよ。」
「いやいやいや、それは!」
(俺に素っ裸になれってことか?! 絶対無理!)
「見ないよ?」
当然のことを、わざわざ宣言した。可愛らしく首を傾げて。
「あのなあ、でも――」
「決〜まり!」
(なぜ?!)
「さあ、こちらですよー。」
俺を無視して、彼女は廊下にタオルを並べていく。その上を歩いて来いということらしい。
「はあ……。」
雨宿りさせてもらって、シャワーをどうぞ言われて、ため息なんかついたらばちが当たりそうだけど……。
(もう断れない雰囲気だ……。)
廊下には彼女の姿はもう見えない。……仕方ない。
「お邪魔します!」
覚悟を決めて、奥まで聞こえるように声を張り上げた。ランニングシューズを脱いでいる耳に、奥から「はいはい、どうぞー。」と聞こえたのは鈴宮の声だった。すぐにパタパタとスリッパの音が近付いてくる。鈴宮のおばさんかと思って顔を上げたら、また鈴宮だった。
「遠慮しなくていいよ、誰もいないから。」
「は?!」
(今、重要なことを聞いたような……。)
「お母さん、弟を塾に送って行ったの。お買い物してくるって言ってたから、もう少し遅くなると思う。」
「え、え、え、それはマズくないか?」
今までよりも必死の抵抗。俺だって世間の常識というものは何となく知っている。娘が一人で留守番中に男が上がり込んでシャワーを浴びてたりしたら、それはマズいだろう。俺の評価がガタ落ちだ!
「どうして? 平気だよ。お母さんだって、そうしろって言うよ。ほら早く。風邪ひくから。」
「え、いや、でも。」
鈴宮が腕を引っ張る。足元が狭い玄関ではそれ以上踏ん張りもきかず、転ばないためには廊下に足を載せるしかない…。
(俺はちゃんと断ったんだからな!)
敷いたタオルで滑りそうになりながら心の中で叫ぶ。こうなったら、シャワーをさっさと済ませて服を着てしまうしかないと、覚悟を決めた。