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恋するココロの育て方  作者: 虹色
第一章 はじまり
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01  5月の調理実習

基本は直樹の一人称で進みます。


「こわ……。」


右肘のうしろでぼそりと声がした。高校2年の5月も半ばの3時間目。調理実習が始まって間もなくの時間。


それは本当に小さくつぶやかれた独り言といった風の声だった。この賑やかな調理室で今の声が聞こえるとしたら俺だけだと、ふと思った。だとすると、今の言葉は俺のことを言ったに違いない。


そこまでなら普通にあることの一つだと思えた。俺は普段包丁を持つことはほとんどなかったし、ごぼうは硬くてゴロゴロして、実に扱いにくかったから。でも、次の瞬間、違和感を覚えて手を止めた。なぜなら、それっきり何も言葉が聞こえなかったから。


俺が馴染んだリズムだと、俺の不器用さに声をかける友人なら、次に「何やってんだよ?」とか「ヘタクソ!」なんていう言葉が続くはずだ。女子だって何か言うだろう。そして、そんな言葉に何か言い返すのがいつものことだから、そのために、頭が軽く準備をしていた。なのに、何も聞こえない。


(誰だ?)


リズムを狂わされた感じが落ち着かなくて、そっと振り返ってみた。すると、右肩のすぐ後ろにあった赤いバンダナを被った頭が、俺が振り返ったことに気付いて顔を上げた。俺は体が大きいから、たいていの生徒は俺を見上げる形になる。


「………」


数秒間、無言で見つめ合った。


そこにいたのは女子で、やたらと不思議そうな顔つきで俺を見ていた。まるで、俺がどうして振り向いたのか理解できない、というように。切りそろえた前髪の下の大きな目をぱっちりと見開いて、閉じた小さな口元は微笑んではいなかった。


(鈴宮……だよな?)


出席をとるときの先生の声を思い出して、頭の中で確認する。


俺の次に呼ばれる生徒の名前は知っていた。けれど、顔は5月になって調理室での授業が始まってから知った。出席番号が並んでいても、教室では俺が一番後ろの席で、彼女は隣の列の一番前なのだ。高2で初めて同じクラスになった彼女のことは、まったくと言っていいほど印象に残っていなかった。始業式や何かで後ろに並んでいたこともあったはずなのに。


「ええと……。」


きょとんとした顔で俺を見ているだけの鈴宮に、振り向いた言い訳をしなくちゃいけないような気がした。けれど、口を開いても、何をどう言ったらいいのか迷ってしまった。そんな俺の様子を見て、2、3回まばたきをした彼女が「あ。」と小さくつぶやいた。それからちょっとバツの悪そうな顔をして言った。


「ごめんね、聞こえた?」


――あ、普通だ。


頭に浮かんできたのは、それだった。


俺の中に鈴宮の印象が残っていなかったのは、接点が少なかったせいだけじゃない。調理室で同じテーブルに座ってからも、ほとんど声を出さないし、あまり表情が変わらない生徒だったからだ。正直なところ、どんな髪型をしているかも思い出せない。


別に彼女が浮いているというわけではないと思う。それなら逆に印象に残るはずだろうから。単に目立たないだけ。でも、頼まれた作業は嫌な顔をせずに引き受けていたし、任せておけば、そこは気にかける必要がないように感じた。俺は彼女の「いいよ。」と「うん。」という返事以外、聞いた覚えがない気がする。


「ああ、うん。」


彼女の問いにうなずくと、彼女はもう一度「ごめん。」と、今度は少し笑顔になって肩をすくめた。そして、「それ。」と遠慮がちに俺の手元を指差した。


(え?)


戸惑いながら視線を自分の手元に向ける。


木のまな板の上に置かれたごぼう。

それを押さえる左手。

まな板の上で止まっている包丁を持った右手。


「その、左手。」


どうしたらいいのか分からない俺が気付くように、彼女の右手が伸びて来て、左手のすぐ上で指をさす。


「指、切っちゃいそう。」


そう言って、俺がちゃんと理解したのか確認するように少し首を傾げて俺を見上げた。


「ああ……。」


意味は分かった。俺のごぼうの押さえ方が危ないと言っているのだ。


料理なんて慣れていない俺が調理実習で切る作業をしているのは、同じグループの汰白(たしろ)聡美に注目してほしかったからだ。汰白はサラサラの髪を肩の上で切りそろえた、涼しげな目元の爽やかな美少女だ。男にも分け隔てなく優しいから、クラスの男の大半は彼女との接点を逃したくないと思っている。その汰白は今、調理机の反対側で、俺よりも不器用な天童にかかりっきりだ。


ちらりとそれを確認して、心の中で「まあ、仕方ないか。」と諦めた。今日のところは天童の勝ちだ。


(ええと…。)


それよりも今は、自分の指を心配した方がいい。昔、「ネコの手」と言われたことを思い出して、左手をグーにしてみる。けれど、そんな手にしたら、ゴロゴロするごぼうがうまく押さえられない。


「こうだよ?」


まな板の横に、鈴宮の左手があらわれた。グーではなく、軽く握った指先を開き加減にして立てるようにしている。ただ、その手が…。


「ちっちゃ!」


思わず声に出た。だって、本当に小さかったから。


めくったワイシャツの袖から出ている腕の細さもさることながら、手の甲の幅も長さも小さかった。隣で包丁を握っている自分の手が、まるで巨人の手のようだ。


「え……?」


鈴宮は手を持ち上げて、確認するように表、裏、とひっくり返しながら見た。


(本当に小せえな。)


すんなりした指で、全体的なバランスは普通ではあるけれど、とにかく小さい。まるで子どもの手だ。俺は可笑しくなって、その横に自分の左手を差し出してみた。


「うわ。」


ごぼうを握っていたせいであんまりきれいじゃない俺の手の横に、彼女は自分の手を並べた。


「おっきいね…。」


彼女の驚く様子と並べてみた手の大きさの違いが、すごく可笑しい。楽しくなって、俺は笑いながら、「ほら。」と手のひらを鈴宮の顔のほうに向けた。手を合わせて確認したら面白いと思って。


すると鈴宮はパッと顔を上げた。こんどこそ真ん丸に目を見開いて。


(あれ…?)


失敗した! ……と思った。そういうことができるタイプの女子ではなかったらしい。


慌てて何か言い訳をして手を引っ込めようと思った。その直後、手のひらがふわりと重ねられてハッとした。彼女は合わせた手を覗き込むようにしながら「わあ。」なんてつぶやいている。


(なんか…どうしよう……?)


自分から手を出したくせに、自分でドキドキしてしまう。そっと触れているだけの彼女の手の存在が、腕を通って背中をむずむずさせる。そして、彼女の表情もまた。


平気な風を装っているつもりなのだろうが、口元が緊張感を漂わせている。頬はほんのりとピンク色に。そしてまばたきを繰り返す瞳。


照れくさいけれど、手を引っ込めるタイミングがつかめない。…というよりも、そのまま手を握って、彼女の反応を確かめたいという衝動が胸に――。


と思う間に、彼女の手が離れた。


たぶん、時間にしたらほんの数秒のことだっただろう。けれど彼女の手の感触が消えたとき、ひどく淋しいような、切ないような気分になってしまった。そんな自分を取り繕って、ニヤリと笑ってみせる。


「ええと、こうだっけ?」


急いで引っ込めた手をごぼうの上に乗せる。でも、すぐ隣にいる彼女のことが気になって、手つきがどうしてもぎこちない。


「あ、ええと、そうじゃなくて…。」


彼女も恥ずかしさから立ち直ったらしい。俺の後ろをちょこちょこと通って、左側にまわる。そこからすっと手が伸びて来た。


(あ。)


ドキン、と期待に心臓が跳ねた。もう一度、彼女の手が?


「こうだよ。」


けれど、彼女は触れなかった。まな板のすぐ前の机に、さっきのお手本と同じ手つきで置かれただけ。


(だよなー……。)


心の中で苦笑する。ふざけて手を合わせるのもためらう彼女が、自分から男の手に触ったりするはずがない。何を期待しているんだ、俺は。


「ああ、こうか。」


真似して同じ形を作ると、隣で彼女がうなずいた。それを確認し、右手の包丁を構える。「よし。」と思った途端、「あ。」と声がして、白い手が視界を横切った。


「あっぶね…」

「あ、ごめんね。」


気付いたら、包丁を持ちあげた右手が上からそっと押さえられていた。俺の指の付け根あたりから刃にかけて、彼女の右手が添えられている。その優しい温かさに、全身ががぐにゃりと溶けてしまいそうな気がした。同時に、妙にテンションが上がる。


「え、ええ、と…?」


女子に触れられているだけで、こんなに嬉しいものなのか? 喜んでいることを悟られたくなくて、真面目な顔を保とうとするけれど、自分でも微妙な感じだと分かる。彼女がこっちを向かないようにと、ドキドキしながら願った。俺の願いが通じたのか、少し身を乗り出した状態の彼女は、俺の顔ではなく包丁を見ている。


「あのね、包丁は、こっちが下。」


真剣な様子で一言ずつ区切りながらそう言って、彼女が左手で包丁の刃先の方に軽く触れた。


彼女が俺がケガをしないようにと言ってくれていることは分かる。分かるけど! 右手に掛けられた彼女の手の柔らかい感触が気になってそれどころじゃない。もうちょっと手前の方を握ってくれないかな…なんて、余計なことが頭をかすめる。


そこで彼女が俺を見上げた。そして、確認するように首を傾げる。目が合って焦るのは、今度は俺の番だった。


「お、おう。」


盛大に緊張したまま、とにかくうなずく。手が震えてしまうんじゃないかと不安になったけれど、俺が指示を了解したと信じた彼女が先に手を引っ込めた。


深呼吸をひとつして、左手と右手、それぞれ彼女に教えられた形を頭に描く。それを手で再現して構えてから、ゆっくりと包丁を動かしてみた。


ことん、と一度ごぼうに包丁を落とし、これで良かったのかと彼女の方を窺う。真剣に俺の手の動きを追っていた彼女が、そこで俺の手が止まったままなのに気付いてこっちを見た。


(あれ。)


目が合うと、彼女はまた微かに驚いた。目をぱちくりしながら、ちょっとだけ身を引くような仕種を見せたのだ。そんな彼女の反応に、思わず心の中で「ごめん。」と謝ってしまう。


「ええと、それで大丈夫…だよ?」


けれどすぐに彼女の驚きは消える。それと入れ替わりに、戸惑いのような、安心させようとするような、中途半端な微笑みを俺に向けた。


(うわ……。)


彼女のその微笑みに、胸がちりりとこげたような気がした。彼女にとてつもなく貴重なものをもらったような気がする。自分の困惑を隠し、俺を励まそうとする彼女の優しさを。


(やべえ…。)


ごぼうに気持ちを再集中させながら思う。俺が仲良くなりたいのは汰白聡美だ。鈴宮じゃない。汰白の目の前でほかの女子にドキドキするなんて。


(何やってんだ、俺は!)


そう反省しながらもう一度ごぼうに包丁を下ろしたところで、鈴宮はすっと離れて行った。


(え、そんな……。)


無言で離れて行くなんてヒドイ……と思ってしまった。見捨てられたようなみじめな気分になったことに気付いて、また「やべえ。」と焦る。


もちろん、鈴宮は俺が何を考えているかなんて気付くはずはない。流し台にちらかったゴミをまとめ、空になったざるを洗いながら、汰白のジョークにくすくす笑っている。


(なんだよ……。)


その、俺のことなど忘れたような態度に傷付いた。心の中で「包丁で指切っちゃうよ!」と叫んでみる。彼女が俺に注意を向けてくれるなら、ちょっとくらいケガをしてみてもいいかも……。


なんて思っても、もちろん俺はそこまでは思い切れなくて、黙ってごぼうを切るしかなかった。







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