間際の願い
羽田から首都高、東名を乗り継いで1時間余り、多摩丘陵の南側を走る私鉄沿線に祖母が入院した大学病院があった。
秀と美紀は、予定通り朝早くに羽田に着き、直ぐにタクシーに乗り込んだ。
秀は、飛行機では一睡もできず、疲労困憊だったが、目は一点を見つめ、無言で通した。
パーティをやっていた事なんて微塵にも感じさせない。酒は抜け、顔は白い。
高速を降りてから 病院に辿り着くまで、西園寺学園村の施設を道路の左側に見て行くことになる。
桜園大学、桜園大学付属小学校、中学校。桜園女学院高校、そして、桜園保育園に幼稚園。まず、桜園大学のビルの看板が見えた。
「懐かしい?」
JFKを経ってから、15時間振りに美紀が喋った。
「いや」
秀も同じだ。久しぶりに声を出した。
「全く景色が変わっている。」
「何年振り?」
「25年」
「4半世紀ね。」
「確かにウチのやってる学校は、この道沿いにあったのだが、昔は学校の建物以外は全部田んぼだったんだ。」
「そう」
「それにウチの学校の建物もこんなに立派じゃなかった。」
このうち、秀が見慣れているのは、高校の建物だけだった。
彼が日本を去る前から全部あったのだが、西園寺学園は元々、桜園女学院高校から始まっており、一番最初に建てられたのは大正時代になる。
校舎は3度建て替えられたが、未だに建てられたばかりのような小さいが格式のある重厚な趣きのあるチョコレート色の建物だ。
この建物に母も教師として毎日通い、正門をくぐった。秀が小さい頃は、母と一緒に正門をくぐり、そこから裏門を出て、隣の保育園、小学校に通った。
思い出の詰まった建物だ。
「この女学院高校だけが変わらない。」
「ああ、これがあなたのお母さんが勤めてた高校なのね。」
「そう、生物学の先生。」
タクシーは、思い出の正門の前を通り過ぎた。
桜園大学の隣に、高いビルが不規則に6本も林立する巨大な白い建物が現れた。
これが桜園大学病院だった。
まるで現代建築のサグラダファミリアだ。
「着きましたよ。」
運転手が、やっと着いた、という実感を込めて言った。
秀と美紀を乗せたタクシーが上りのスロープに吸い込まれて行った。
1階の受付に行き、笑顔の女性に西園寺文乃の部屋を尋ねると、丁重な態度で「どちらさまでしょうか?」と訊かれた。秀は名乗り、孫であり、美紀は妻だと伝えると、女性は内線電話を複数かけ、全てにおいて、こちらには絶対に聞き取れないほどの小声で話し、端末を叩き、彼女の後方にあるプリンターからカードを2枚出力した。
「お待たせしました。確認が取れました。西園寺文乃様は、この棟の26階に入院中です。なお26階は特別室フロアになっておりますので、あちらの通常のエレベータの横にあるセキュリティガードがいるゲートを通って、26階直行のエレベータをお使い下さい。ゲートを通過する際は、このカードのバーコードをゲートの左にある赤い光が点滅しているところにかざして下さい。ご不明な点はございますでしょうか?」
「大丈夫、分かりました。ありがとう。」
ゲートを抜け、エレベータに乗った。
エレベータは直ぐに26階に着いた。ホールで年配の女性の看護師が待っており、彼女についてくるよう促された。
二人はナースステーションの奥の個室に通された。
そこには、白髪をキレイに整髪している医者が待っていた。
部屋は診察室のようで、その医者の前には大きなスクリーンがあり、CTスキャン等の画像フィルムで埋め尽くされていた。
「ようこそ、桜園大学病院へ。私が当病院の院長春日井です。」
「この度は、祖母がお世話になってます。」
「お世話?とんでもない。西園寺理事長は、我が桜園学園の良心ですよ。最大限の努力をするのは当然の事です。」
「で、どうなのでしょうか?祖母の容体は?」
「アメリカから真っ直ぐに来られて、お疲れでしょうが、ここは正直に申し上げましょう。」
「どうぞ」
「残念ながら、西園寺理事長は、脳死状態です。」
「脳死ー?」
「ずっと音信不通だったのですか?」
「そう、この25年間、ずっと。こちらからはクリスマスカードを送るぐらいで。結婚した時もハガキを送っただけでした。また祖母からは電話1本、もらった事はありませんでした。」
「それでよく気になりませんでしたね。」
春日井院長は、少し責めるような口調で問うた。
「便りがないのが、良い便り、と勝手に理解していました。ところで、それと祖母の容体とどう関係するのですか?」
秀の口調も刺々しくなった。
「大いに関係します。西園寺文乃さんは認知症でした。それもかなり短い期間に急速に進行しました。当病院に外来で来られた時には、もう物忘れがひどくなってました。直ぐに入院させ、まず脳の検査をしました。そこで、手のつけられない程になっている腫瘍を見つけました。この半年間、我々としては、この腫瘍がこれ以上大きくならないように手を尽くすだけしかありませんでした。認知症も同様にできるだけ進行を遅らせる事に注力するだけでした。」
絶句した。
「どうして、頻繁に連絡を取ってあげなかったのですか?10分電話で話すだけでも、大分違った筈ですよ。まあ、認知症にならなかったか、どうかは分かりませんが。とにかく、どうして西園寺理事長を孤独のままにさせておいたのですか?」
言葉がない。
色々の感情が湧き出し、なんと言えば良いか?言葉が見つからない。
「恐らく、発症して、具体的に症状が現れ始めたのは昨年の秋からだろうと思います。何故なら、彼女が私に託したあなたへの手紙の日付が昨年10月だからです。」
「10月?それを何故今、私が知る事になるのでしょうか?」
「その手紙を一昨日、私が見つけたからですよ。」
「西園寺理事長は、ご自分の変調をその頃既に自覚されたのでしょう。そこで、まだ自筆で考えている事を思い通りに書けるうちに手紙を書いたのだと思います。」
「そうですか。失礼致しました。」
「我々としても残念なのは、理事長が最初に入院して来られた時に、あなたを存じ上げておれば良かったのに、という事です。我々は、理事長の肉親は、既に公二郎さんだけだと思ってましたので。あなたを知っていたら、あの時、いちかばちかの腫瘍摘出手術をご承認いただけたかもしれません。」
「可能性は、あったのでしょうか?」
「いや、殆どないに等しいのですが、医者という人種は、病気と闘わずして患者をしに追いやる事が出来ないものでして、生存率が殆どないものでもチャレンジしたがる。いや、これは私の後悔で、愚痴です。どうぞ忘れて下さい。」
「さすがに先生、それは無理です。忘れられません。祖母は、私にとって最強の女性でした。倒れるなんて想像もつかなかったぐらいです。祖母が倒れて、そこで私が近くにいなかったばっかりに助ける事が出来なかったなんて」
「あなたに責任を負わせるつもりなんて、全くありませんでした。責任は公二郎さんが追うべきです。」
「どういう意味でしょうか?」
「いや、私も些か感情的になり過ぎた。詳しい話は、また別の機会に話しましょう。今日はこれぐらいにして、あなたは理事長のもとへ行ってあげて下さい。」
「分かりました。」
西園寺文乃は、もう少しで米寿を迎えるような年齢なのだが、秀が分かっている限りでは、仕事を一度も休んだ事がない。朝早く起きて、毎日庭の手入れをする。伝統的な和食の朝ご飯を食べて、身支度をして、7時には、桜園女学院高校の中にある理事長室の机につき、グループ全部の学校の日報を毎朝読むのが日課だった。
それから、大学以外の全部の学校を1日交代で回り、正門で生徒を出迎えた。
学校の職員会議、理事会も欠かさず出席した。
秀にとって祖母文乃は、正に鉄の女だった。
その祖母が、認知症?そして脳死?
これまで何度でも日本に帰るチャンスがあったのに帰らなかったのは、母がいない現実を直視できなからに過ぎない。
一切、祖母文乃の事を心配したりしなかった。自分が心配しなければならないような存在だと思わなかっただけだが、こうなってみると、それは全くナンセンスな思い込みだ。
「ここから、祖母の意識を回復するような治療法はありませんか?」
「残念ですが、現状を何とか維持するだけです。」
ついに秀の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「今、理事長は、生命維持装置によって、生かされています。しかし、それもいつまでも続けていく訳にはいきません。あなたには、帰国早々に大変酷な事を申し上げますが、病室に行って、心の整理をして下さい。」
「分かりました。色々、ありがとうございました。」
秀は肩を落とし、文乃の部屋に向かった。
「秀、先に行ってて。私、院長先生ともう少し話してから行くから」
美紀は、そう言って残った。
秀は、西園寺文乃の部屋に入った。
直ぐに窓際の機械に囲まれている文乃を見つけたが、罪の意識からか、近寄りずらく、部屋の中を一回りした。
部屋は広く、清潔で、高級だ。病室の隣に付添い用のツインルームがあり、ユニットバスまであった。
晴れた3月の午後、大きなはめ殺しの窓の向こうの空は、少し霞んでいる。
手前の山々の先で、富士山の白い山頂が見えている。
祖母、西園寺文乃は静かにベッドに横たわり、弱い寝息を立てていた。
ようやく秀は、傍らに腰掛けた。
点滴のチューブが刺さった細い手首が見えた。恐る恐る手を握ろうとした瞬間、秀のジャケットから何かが落ちて、カサカサと音を立てた。先ほど院長から手渡された文乃から秀への手紙だった。
拾い上げ、ギュッと握り締めた。開ける勇気が出てこない。
文乃の顔を見た。顔つきだけ見ると、25年前と比べて、年はとったが、変わりなく凛としている。
覚悟を決めて、封を切った。
中には便箋が1枚。
開いてみた。
そこには波打つ文字で、
「しゅう、わたしのがっこうをたすけて」
とあった。
「秀、私の学校を助けて」どういう事だ?
「封筒開けたの?」美紀が入ってきた。
「ああ」
「何て?」
秀は便箋を美紀に手渡した。
美紀は一目見て「やっぱりね」と言った。
「何が、やっぱりなんだい?」
「春日井院長に続けて話を聞いたの」
「うん」
「あの人、最初に会った瞬間から、ずっと秀の事を責める感じで話してたじゃない。」
「それは仕方ないんじゃないか?だって、」
「秀、私の話を全部聞きなさい。いい?」
美紀が戦闘モードに入っている。「闘うライオン」これがアメリカで法廷に立つ時の弁護士である美紀の愛称だ。こうなったら何を言っても聞く耳を持たない。諦めて「続けて」と言った。
「春日井院長は、あなたのお祖母様の味方よ。でも、学校経営に関してはそんなに力がない。」
「そう」
何の話が始まろうとしているのか?
「秀、さっき春日井院長が触れてたあなたのお父様の弟の公二郎さんを覚えてる?」
「公二郎おじさんか?覚えてるが、うちの父と大分年が離れてて、僕が日本を立つ時には、イギリスに留学してた筈だ。僕が大きくなるまで、殆ど会ってないに等しい。」
「その公二郎さんが、今の桜園学園の経営を握っているらしいわ。」
「そうなのか?」
それから美紀は春日井院長から聞いた事を詳しく話し出した。
そもそも桜園学園は、現代においては多少古めかしいが「良妻賢母」を旨とし、西園寺秀公が1902年に設立した女学校だ。
少し遅れて、看護学校を併設し、これが後の桜園大学となる。
元華族が設立した学校とあって、出来たばかりの頃は、東京近郊の良家の娘ばかりが、こぞって入学した。
入学するのには多額の入学金を必要とし、庶民には縁遠い学校だったようだ。
そうした校風を一代で、劇的に変えたのが、西園寺文乃である。
「良妻賢母は、良家のためだけにある考えではない。良い学びは広く知らしめるものであり、それには性別は問われるものではない。」が、文乃の口癖だった。
厳格なる父母会や、理事会、職員会の強硬な反対を押し切って、入学金を安くし、奨学金制度をいち早く導入した。そして、元々あった西園寺家の広大な土地を使い、桜園大学の卒業生の就職先になるように、まず医療法人を別に作り、大学病院を設置した。その後、小学校、中学校、幼稚園、保育園を相次いで設立した。
だから、桜園学園は、一番古い女学院高校と、大学以外は全て、1980年代に文乃によって開かれた。
この後、桜園学園は時流に乗り、生徒数は劇的に増え、当初3学部の女子大学で始まった大学は、開学80周年を迎えた頃には10学部の共学制なり、小学校、中学校は90年代に校舎が増築された。
この流れの中で、桜園学園の経営に欠かせない存在感を見せ出したのが、秀の父、秀一郎の弟公二郎と、その妻貴美子だった。
公二郎は、90年代に入った頃、留学先のロンドンから戻り、いきなり桜園大学の教授になった。彼の専門は、経営学で、当時では珍しいMBAを取得していた。
公二郎と妻の貴美子は、ロンドン留学中に知り合った。貴美子は、当時流行りの帰国子女の肩書きが欲しくて、中堅ゼネコンを一代で築いた父に甘えて、無理やりロンドンに語学留学していたのだった。
帰国後、桜園学園の人脈と貴美子の実家の財力を使って、千人を超える披露宴を行った。
公二郎の経営哲学と、文乃が進めた拡大路線は、拡大という一点において一致した。
文乃は、教育を広く知らしめるために門戸を開く意味での拡大。公二郎は、当時そんなに危ぶまれてはいなかった少子化への対応のための拡大。それも少子化によるライバル校との学生獲得合戦を勝ち抜くための拡大。
同じ拡大でも、意味は全く違い、そこに叩き上げの土建屋の娘である貴美子が加わり、「建物の増設」という意味での拡大も増えた。
文乃は、公二郎が教育の裾野を広げたいという自分の信念に共感しているものとばかり思い込み、公二郎を積極的に登用し、経営学部長に昇進させてだけではなく、ついには学校法人の副理事長にまでもち上げた。
それが全ての始まりだった。
公二郎は、まず大学の建物の新設を理事会で訴え、承認させた。確かに10学部にも膨れ上がったにしては、校舎は手狭であり、医学部等の理系学部の最新の実験を行なう設備も整っていなかった。
これを解決するために新しい校舎を4棟一度に建てた。
ここで発生する建設費は、校舎が増える事で受け入れる学生を増やせるために、その入学金や授業料増で十分に減価償却できる、という説明だったらしい。
そのようにして、女学院高校以外は全て校舎、体育館、多目的ホール、給食工場等が、矢継ぎ早に建設された。
最後に、学校法人の理事会の影響下にない大学病院の建物も大学医学部長の意向を医療法人の理事会に反映させ、古い病院の建物のすぐ後ろに6本のビルを建て、お互いのビルを連絡橋で繋ぐ斬新なデザインが承認され、現代のサグラダファミリアが出現する事になったそうだ。
これらの建物は全て、2000年代の中頃までに完成した。
これまでの間、文乃は公二郎の進めるこれらの事業を全て黙認した。「新しい時代には、新しい考え方、新しい施設が必要だ。」という公二郎の説明を受け入れていたからだ。
更に、事業にかかる莫大な費用は、公二郎の経営センスで償却できるだろうという甘い読みもあった。何と言っても、公二郎もまた、文乃の実の息子だった。
公二郎は、これらの事業への支払い用に、学校法人や医療法人とは別に、桜園学園財団という資金管理団体を作った。
これにより、これらの建設費は理事会の運営とは切り離された。
これも文乃は、公二郎が責任を持って支払い計画を実行するための必要な措置だと理解した。
この財団の専務理事を公二郎が務め、事務局長は貴美子だったため、財務状況が、学園理事会で議題に上がっても、詳しい説明を聞く事はなかった。
しかし今年に入ってから、いきなり財団が、学校法人、医療法人に緊急の理事会を招集するように呼びかけた。
そこで、建設費を賄うための基金運用に失敗した事、これを解決するために、債権の一切合切を外資系ファンドに売り払おうと財団内で決議した事が伝えられたという。
つまり、桜園学園財団は、破綻状態だった。
但し、この最終的な決定は、桜園学園理事会でなされなければならず、そのための理事会を早急に開催し、決議して欲しい、という要請まであった。
文乃は、愕然とした。しかし、直ぐに立ち直り、直接事情を聴くために自室に、公二郎を呼んだ。
公二郎から電話があり、「会えない」と言う。「何故だ?」と問うと、「母さんは、この学校を守りたいだろうけど、僕は自分を守りたい。この学校法人は、財務的にもう立て直せない。その責任の一端は、僕にあるけど、責任の大部分は、この学校法人が、僕の経営計画通りにやってこなかった事にある。そして、それには僕の責任はない。」と言い放った。
文乃は、公二郎と親子の縁を切る、と言って、受話器を置いた。
それから数日後、更に公二郎は、文乃には知らせず、学校法人の緊急理事会を副理事長の権限で招集した。ここで理事の各氏の了承を取り、そのまま議決に持ち込もうという魂胆だった。
その動きを理事会開催の30分前に知った文乃は、外出先から取って返して、理事会が開かれる役員応接室へ向かった。来ないはずの文乃が現れ、議事を進行していた理事の一人は酷く狼狽したが、公二郎から挙手による議決を取るように促された。そこへ文乃が立ち上がり、「理事長不在の緊急理事会の緊急性は、認められない。」と発言し、この理事会自体の休会を宣言した。
しかしそれは、これから半年間に及ぶ長い闘いの始まりに過ぎなかった。