日本へ
2014年。3月になったばかりのニューヨークは、まだ凍てつく街だ。
日が暮れると、寒さは一層強く、舗道を歩く人々は揃って、首をすくめ背中を丸めて真っ直ぐ地下鉄駅の入口を目指している。
夜が深まり、冷え込みも頂点に達した頃、MoMAから程近い7thアヴェニュウに面するビルにあるグリーンウッド&ガードナー画廊では、そうした寒さを寄せ付けない熱気が溢れていた。
そう、パーティを行っているのだ。
絵の展示スペースの隣にあるホワイエには、程よくテーブルが配されている。そのテーブルを囲んで、年齢、性別、人種、セミフォーマル、カジュアル、背が高い、低い、太っている、痩せているなど、かなり多様な人々が、大いに笑い、語り合い、そして酔っ払っている。
両側の壁伝いにケータリングのカナッペなどのライトミールが載っていたであろう銀のトレイや食べ残しの皿が散乱する長テーブルがある。
通りに面した全面ガラス張りの窓からは、まだ夜が終わってない事が分かる。
今はイエロウキャブのかき入れ時の時間なのだろう。7thアヴェニュウは黄色で埋め尽くされている。
そして、窓の反対側にステージがある。
そこではホーンセッションを含めた総勢9名のバンドが演奏している。但し、今はヴォーカルがおらず、センターのマイクスタンドだけがバツが悪そうに突っ立っている。
バンドはスウィートセクシーソウルの代表曲ーLook over your shoulderーをインストゥルメンタルで演っている。
メインヴォーカルは歌わず、バックコーラスだけが絶妙なハモりを効かせているが、やはりメインヴォーカルがないのは、少し間抜けだ。
そこに半袖のTシャツにクタクタなチノクロスのトラウザーズを穿いた小肥りの白人が、のそのそと歩いて行き、マイクを握った。
バンドが中途半端なところで演奏をやめた。ハモりもピッタリ歌うの止めた。さすがだ。
「みなさん、本日からここ、グリーンウッド&ガードナー画廊で始まりましたシュウサイオンジ個展レセプションにようこそお集まりいただきました。ここで我らのヒーロウ、スペーシー、シュウサイオンジをもう一度壇上によびましょう。いいかい、スペーシー?」
一番窓際に立ち、夜空を眺めている細身の男の背中に、スポットライトが当たった。
「勿論だとも、ニッキー、ニックヘイワード!」
振り向いてスペーシーは答えると、窓際からステージに向かって、軽い足取りで歩き始めた。スポットライトが彼を追う。
「またあ」
彼の妻、美紀は入口付近の受付カウンターに座っていた。
彼女は生まれつきのマネージャーで、宴たけなわの今でも中締めのタイミングを測っている。勿論、今この空間で彼女だけが素面だ。
彼女はニューヨーク州の弁護士のライセンスを持っている。民事を扱い、独身時代には、週に50時間以上、次から次へと裁判をこなしていた。
彼女の信条はこうだ。「すべてのルールは、マネジメントできる!」
実際彼女が担当した法廷は、殆どの場合、予定調和があるかのように、すんなりと進行していった。
結婚した今は、主に秀のマネジメントに専念している。
「どうしてかしら?酔っ払うと、カッコつけちゃうのよねえ」
スペーシーは、いつものジャケットを着ている。大きな花がプリントされた黒地のジャケットだ。
彼は花の絵だけを描く。
ジャケットにプリントしている花の絵も当然彼の作品である。大体、上の着るジャケットか、シャツが花柄である。トラウザーズは無地だ。
今夜の花は白い百合の花で、大胆な構図でジャケットの中で5輪咲いていた。
その百合の花がスポットライトを浴びながら、フロアの真ん中をステージに向かって進んで行き、途中にいる全てのゲストからハグや、キスや祝福の声をかけられながら、ようやく辿り着いた。
「ご苦労様、スペーシー。あんなにステージから離れた場所にいるなんて、思ってなかったよ。今晩の主役が、あんな端っこで何してたんだい?」
「金星をさがしてた。」
「金星?マンハッタンで?本気か?」
「あそこの窓の方角に金星がいる筈なんだ。」
「で、見えたのか?」
「いや、見えない。」
「そりゃそうだろう。君は本当にスペーシーだなあ。」
「そんな専門的に観測してた訳じゃないよ。」
「専門的?ああ、スペーシーか?違う意味だよ。型破りという意味だ。」
「型破り?初めて知った。そういう事だったのか?じゃあ、君が僕と初めて会った時に、スペーシーと呼んだ時からずっと型破りという意味だったのか?」
「勿論さ!他に意味があるとでも思ってたのか?」
「いや」
「今晩お集まりの紳士、淑女の皆様に申し上げます。ここにいるシュウサイオンジは、まさにSPACY、型破りである事を!」
ステージの最前列に陣取るでっぷりと太った白髪バーコードの大男が言った。
「そうだ!彼こそが、SPACY、型破りな男だ!」
彼こそが、誰あろうスペーシーの恩師、ニューヨーク美術大学現代美術部のジョゼフランドルフ教授だ。
これ以上ない程生粋のゲルマン人で、呑む時はやはりドイツビール一辺倒だが、今日はあいにくアメリカのモノしかなく、「水みたいだ」と、ずっと文句を言いながら呑んでいた。
どうやらその水みたいなビールを明らかに呑み過ぎたようだ。普段の物静かな所作は跡形もない。赤い顔をより赤くして叫んだ。
「型破り!」「型破り!」「型破り!」
ランドルフ教授の掛け声に合わせて、ゲスト全員が叫んだ。
「いや」
スペーシーが、マイクの前に立ち、呟いた。途端に会場が静まり返った。みんなスペーシーの次の言葉を待っている。
「いや、参ったな。僕って、そんなに型破りかい?」
いつものクールな感じでスペーシーは問い掛けた。
一瞬後、破裂するような笑いがホールを埋め尽くした。
「何だ、そりゃあ?」
「マジか?スペーシー?」
「本当に知らなかったというのか?」
「ホントさ。本当に知らなかった。」
「おいおい、スペーシー。君は今着ているジャケットを鏡で見た事はないのかい」
と言いながら、ひょろっとした胡麻塩頭の黒人がステージに上がってきた。
「ジョー、勿論見てるさ。」
彼は、ジョーグラッデン。スペーシーの大学の側で、カメラ屋を開いており、スペーシーが、作品を描くための取材旅行に出る度に、過酷な状況に合わせて、愛用のNIKONを調整してくれる大事な友人だ。
「そんな1ブロック先からでも目立つ派手なジャケットを着てるヤツは、世界中どこを探したっていない。つまりアンタだけだ。しかも、その派手なジャケットをアンタはいつもエレガントに着こなす。いいかい、アンタはその派手なジャケットをいつ何時でも、必ずエレガントに着こなす。これが型破りでなくて、何なんだ?」
そこへ更にもう一人の黒人の大男がステージに上がってきた。筋肉質で身長は2mを超えている。それはそうだ。彼はNBAのスター、ニューヨークの誇り、彼のドワイドニューマンだ。彼はスペーシーに詰め寄ると、覆いかぶさるようにして言った。
「大体、ダイエットしている時に、君がいつも食ってる半透明のヌードルはなんてったっけ?」
「心太か?」
「そうトコロテンだ。君はあの気味の悪い透けてる麺に黒いソイソースみたいなソースをかけて、とても美味そうにズルズル食うじゃないか。」
「当たり前じゃないか。心太はいつでも美味い。それにダイエットじゃないんだ。夏の暑い時期で食欲のない時に心太は最高だよ。」
「そうだったのか?てっきり、ダイエット食だと思ってたよ。しかし、あんまり美味そうに食ってるから、半透明が気持ち悪いのを堪えてでも食ってみたくなって、君の食ってる時に1本だけくれと頼んだよな。」
「確かにあげたね。でも、君は直ぐに吐き出した。」
「そりゃそうさ。ビックリしたんだ。まさか、あんなに酸っぱいなんて、全く予想外だ。」
「醤油じゃなくて、ポン酢だからね。酸っぱいものなのさ。あの酸っぱさが食欲のない時にイイんだよ。」
「でもな、スペーシー。その後、君は私に、もう一杯心太を器に入れて、別の黒いソースをかけて食べてみろといったよな。覚えているか?」
「ああ、よく覚えているよ。」
「それ食って、なおビックリだ。何とも冷たくてスウィートなデザートは、今まで食べた事なかった。いいか、これまでの私の人生で一番甘くて、一番美味いデザートだったんだよ、スペーシー。君に分かるか?この衝撃が。酸っぱいソースをかけたら、金輪際二度と口にしたくない食べ物が、甘いソースをかけたら、二度と忘れられなくなるなんて。全くどうにかしてるぜ」
「お言葉だが、ドワイド。それはいくらなんでも、大袈裟だよ。単に君が甘党なだけだと思うけどね。」
「何?ドワイドニューマンが甘党だと言うのか?この大勢のゲストのいる前で?」
彼は大変恥ずかしい思いをしたようだが、彼の肌はエスプレッソより深い色をしており、どうやら赤面している事はバレずに済んだ。
「ドワイド」
ニッキーヘイワードが割ってきた。
「その半透明のヌードルの話はもういいかい?それにしても気持ち悪そうだな、半透明なんて。僕ならカエルの卵を思い出しちゃうね。」
「とにかく、彼は型破りだ。」
「そうだ、型破りだよ。ドワイド。チョットだけ黙っててもらっていいかい?私はこれからゲストのみなさんにとっておきの提案をしようと思っているんだよ。みなさん、そろそろここらで、この型破り野郎の素敵な歌を聴きたいと思いませんか?」
ゲストは一様に同意の声を上げた。
「みなさん、この私、ニッキーヘイワードは、ここニューヨークで、今から20年ぐらい前スペーシーと一番最初に友達になりました。」
「22年前だよ。」
「いいだろう、大体で。彼と初めて会ったのは、タイムズスクエア近くのとあるライブハウスでした。当時、私は、そこでマネージャーのアルバイトをしてました。彼はまだ、ニューヨークに来て間もない頃で、基本的にバージニアの田舎者でした。そりゃあそうでしょう。田舎者じゃなければ、あんな無謀な事はしない。その日ライブハウスに飛び入りで出演したスティーブガッドの演奏の後、感激のあまり自分にも歌わせろと、ステージに上がったのです。マネージャーである私は直ぐにステージに駆けつけ、彼を止めましたが、彼は無理やりスティーブに近づき自分のウォークマンを聞かせたのです。それを聞いたスティーブは、驚いた表情になり、観客に準備するから少し時間をくれるように頼みました。そして、バンドメンバーに交代でウォークマンを聞かせ、テンポとコード進行を打ち合わせ、スペーシーに言いました。「準備はいいかい?」
「OKさ!」
そこでいきなりドラムソロから演奏が始まりました。曲はあの日本人の偉大なアーティスト山下達郎氏の名曲「Love Space」でした。彼は見事に歌い切りました。その時です。私がスペーシー!と叫んだのは。今夜、あの夜の興奮を再現したいと思います。歌ってくれるかい、スペーシー?」
「いいよ」
「ダメよ!」
美紀だった。
「スペーシー、電話よ。トーキョーから」
「東京?」
「お祖母様が倒れたそうよ」
「お祖母様が?」
お祖母様?文乃?突然過ぎて、頭の中で回線がうまく繋がらなかった。
文乃ばあちゃんが、倒れた?そりゃ大変だ!
「ニッキー、歌ってる場合じゃなくなった。電話に出なくちゃ。君らで歌ってくれ。」
「僕らで?何を?」
「スタイリスティックスさ」
トランペットソロが高々と響き渡った。
後ろのジョーグラッデンとドワイドニューマンはステップを踏み始めている。
Can't give you anything but my love
ニッキーがファルセットボイスを轟かせた。
スペーシーは、美紀の元で電話を取る。
ドワイドとジョーがハモる。バックコーラスもハモっているので、コーラスは合計5名。厚みのあるハーモニーを聞かせている。
美紀はもうエレベーターを呼んでいる。
「じゃあ、今から手配して一番早い便で帰る。美紀と一緒に。」