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SPACY  作者: 真成
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イントロダクション

私は、西園寺秀(さいおんじ しゅう)SPACY(スペーシー)、職業は画家だ。2014年の今、ニューヨークで創作活動をし、美術大学で絵描きを教えている。


父の家系は、その名が示す通り華族だった。その後、1900年代の初頭から今に至るまで東京郊外に拠点を置く学校法人西園寺学園を経営している。


祖父、西園寺秀蔵が、1979年に40代の若さで急死してから、理事長は 祖母、西園寺文乃が務めており、私の学生当時(1980年代〜90年代にかけて)、学校経営は概ね順調だった。そのため、こと教育を受けるについて、私は不自由なく暮らしてきた。


私の母、恭子は、その傘下にある桜園女学院高校で生物学を教えていた。


父、秀一郎は、昆虫学者だった。父は、西園寺学園の経営を引き継がなければならない身だったが、元々学究肌で、博士号を取った出身大学に残り、研究に没頭してたらしい。学校の経営には無頓着だったが、自分の研究には、西園寺学園から多額の寄付を受け取り、日夜、昆虫採集に明け暮れていたようだ。

母とは、その大学の研究室で知り合い、結婚した。母には、自分の身なりにも無頓着な父がチャーミングに見えたらしい。


母は、西園寺家を思いやり、桜園女学院高校の教師になったようだ。


その父は私がまだ幼い頃にマボロシの蝶、ブータンシボリアゲハを採集するために、ヒマラヤ山脈に出かけたきり帰って来なかった。事故にあったのか、事件に巻き込まれたのかさえ、未だに分からない。元々ガイドもつけない無謀な冒険だった。


当時、私は物心がついておらず、残念ながら父の思い出が全くない。


母は、その後もずっと西園寺家に残り、父の帰りを待ちながら、私を育てた。


しかし、今から25年前に、母も不意に起きた交通事故で亡くなってしまった。

大雨の夜に残業で遅くなったため慌てて学校を出た母に、居眠り運転のトレーラーが向かってきた。よけられなかった。即死だった。


その時私は、高校に上がった最初の夏を迎えており、夏休みを利用して、家族ぐるみの付き合いをしていたアメリカ東部バージニア州の名門校を経営するジョンソン家でホームステイしていた。


母の死は、父の友人だった同じく昆虫学者であるジョンソン家の当主、ロバートジョンソン氏から告げられた。ー昆虫学者は、金持ちの道楽か?ー


気が動転したままで、慌てて日本に帰り、葬式に参列 したが、事態がよく掴めず、葬式の間中、ポカンと口を開けて、虚ろな目で何も見ないようにしていた。


口を開けたまま、あっという間に初七日が過ぎ、先祖代々が眠る多摩丘陵の墓に母の遺骨を納めた日の夕方、私は祖母、文乃に呼ばれ、自宅本館の祖母の書斎へ行った。そこで、哀しみを癒やすため、また、自分が本当に輝ける何かを見つけるため、アメリカに戻るように諭された。


母が私の人生の全てだったが、父がいなくなった後、祖母はいつも父親のような存在だった。


私は、もっともだ。祖母はいつも正しい事だけを言う、と納得して、言う通りにした。


私達家族が住んでいた別館は、家具を含め、全てそのままにしておくと、祖母と約束したので、数日後取る物も取り敢えず、そそくさとアメリカに向かって飛び立った。


それから、1度も日本に戻っていない。


アメリカでは、再びジョンソン家に世話になり、ジョンソン家が経営する全寮制の高校に入った。


高校時代、私は「なるものになる事」について、必死で考え続けた。


母の影響で花が好きだった。


小さい頃から母が大好きで、生物学でも取り分け植物を専攻していた母の観察フィールドワークによくついて行った。

その時、母は見つけた花を熱心に写真を撮り、特徴を細かくスケッチしていた。

私も見よう見真似で、母の真横に陣取り、よく花の絵を描いた。今でも思うが、あの時、観察ノートに挿絵のように描いていた母の花の絵は素晴らしかった。


あの絵を思い出し、私はなるものを決めた。


「花の絵を描く画家になろう」


直ぐにロバートに自分で決めた事を話した。

そこで、今いる全寮制の高校をやめて、ニューヨークの美術学校に入りたい事、更にその後、美術大学を目指す事を話した。

ロバートに折角入れてもらった高校を途中で高校をやめる事、わがままを通す事を詫びた。彼はあっさり受け入れてくれたばかりか、「君の向かう道は明るい。」と言い、直ぐに書斎に入り、立派な推薦状をしたため、渡してくれた。

そこから転校の手続きや、身の回りの片付け、パッキングをしていると、あっと言う間に寮を出る日が来た。ロバートのリムジンでリッジモンド駅まで送ってもらった。

車を降りて、彼に「サヨウナラ」と言った。彼は「また会おう」と応えた。


駅からニューヨーク行きのバスに乗った。


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