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コバルトノベル投稿作

太陽の神子姫と神眼の騎士

作者: 日咲ナオ

 スウィーニー王国には、遥か昔から大切に守られてきた宝玉がある。在処は口伝で王から王へと伝えられ、他国の略奪を防いできた。太陽の光を浴びると黄金色に輝くその宝玉は、[太陽の貴石(きせき)]と呼ばれている。

 この貴石に願いを捧げると、その者の寿命と引き替えに叶えられるという。

 [太陽の貴石]自身が選ぶ人間は、一人だけ。生まれ落ちた瞬間に、長くはないその一生を王城に囲われて生きることが決められてしまうのだ。

 選ばれた人間である〔太陽の神子(みこ)〕が生まれると、安置された[太陽の貴石]が国中に届きそうなほど強く光り輝いて知らせる。

 この[太陽の貴石]が最後に輝いたのは十五年前。第一王女フェリス・ガーランドが産声を上げた瞬間だった。

 それから十五年の月日が流れ──。



    一


 少し前に、彼女の主は王に呼ばれて出て行った。その間に、彼女の部屋を飾る花を摘もうと庭を歩く。前日までの雨で、むせ返るほどの湿った土の匂いがしている。

 侍女に貸与されている制服代わりの、濃紺色のカートルは詰襟だ。慣れないうちは少し息苦しかった。ほんの少し膝を曲げただけで、地面に触れてしまうほど丈が長い。その上に、胸当てのついたエプロンを着ていた。

 白いヴェールで顔を覆い、薄い紫色の小さな宝石が三つはめ込まれた銀色の額飾りで止めている。淡い茶色の髪は腰まで真っ直ぐ流れ落ち、毛の半分くらいがヴェールの裾から覗く。袖から出た彼女の手は抜けるように白く、荒れている様子はない。

 七歳の誕生日を迎えた未婚女性は、家族以外に顔を見られてはいけない。だから、顔が見えないよう、ヴェールを被るのはスウィーニー王国の習慣だ。

(昨日はユリにしたから、今日はバラ……うーん、セントランサスも捨てがたいわ)

 どんな花を飾ろうか考えるだけで浮き立ち逸る心を抑え、彼女は花園へ向かう。

「おい、あんた」

 聞いた覚えのない低い声。

 突然目の前に出てきた人影に驚いた彼女は、とっさに踵を返して城内へ駆け戻ろうとする。だが、手首をつかまれ腕を引っ張られて、強引に引き止められてしまった。

「何をするの!」

 振り向きざまに男の顔へ平手打ちを食らわせてやろうとするが、その手もあっさりつかまれてしまう。

 相手は、軽くつかんでいるような雰囲気だ。それでも彼女には振りほどくことができず、わずかな悔しさと大きな恐怖で歯を食いしばり俯いた。

「おっかない女だな。別に取って食うわけじゃないし、話も聞かずに逃げんじゃねぇよ」

 耳に届いた言葉に、そっと顔を上げる。

 落ち着いてヴェール越しに見れば、彼が騎士団の一員である服を着ていることがわかった。ヴェール越しでもわかる所属の色が見えないことと、声から推測できる年齢で、まだ従騎士なのだと思い至る。

 騎士団員であれば、確かに横暴なことはしないだろう。

 彼女は、どうにかして逃げようと全身に入れていた力を抜いた。それを待っていたように、ようやく彼も手を放す。

「あんた、名前は?」

「初対面の人間に名前を尋ねるんだったら、まず自分から名乗るのが礼儀じゃないの?」

 つかまれた場所をさする、ケンカ腰の彼女を気にする様子はない。彼は「そりゃそうだな」と呟いた。

「俺はヴィータ。しがない末席貴族の次男で、今んとこは従騎士だ」

「私は……レティシア。ところで、私に何の用事なの?」

 問いかけると、ヴィータは不自然に黙り込む。すぐに返事がないことに、レティシアは首を傾げて怪訝な顔だ。

「うん、やっぱあんただ」

「だから、何だって言うの?」

「俺は明後日の叙任で騎士になる。だけど、誰かに勝手に配属を決められるのは気に食わないんだ。せっかくだから守りたいって思える人間に誓いを立てて、そいつに縁のある騎士団に配属されたくってさ」

 レティシアの問いに答えず、ヴィータは自分の置かれた状況を話し始める。

「そんでこの[神眼(しんがん)]で見てたら、運命のイタズラってやつか? 今までいるのはわかってんのに、どこにいるのか全っ然わかんなかった金色の人間が、こっちに来るのが見えたんだよ」

「……金、色? 私が?」

(まさか、[神眼]にはあれが見えているの?)

 怯えをにじませた声で、呆然と呟く。

 彼の言う〔神眼〕がどいういうものか、レティシアは知っている。

 [神眼]というのは、特殊な力を秘めた瞳のことだ。使用すると瞳を金色に変え、使用者の命を削る点が、〔太陽の貴石〕と似ている。〔神眼〕は魂の色と輝きで人を判別できるため、人を間違うことがない。たとえ双子であろうと、魂の色が微妙に違うのだ。この〔神眼〕を持つ者も、〔太陽の神子〕同様、スウィーニー王国にたった一人しかいない。

 だが、まさか、自分の魂にそれほど目立つ色がついているとは思ってもいなかった。

 動揺しているレティシアを、ヴィータが気に留めた様子はない。

 ヴィータの視線が、下からゆっくりとレティシアの全身を眺める。それから、額飾りを見て納得したように頷いた。

「あんた、フェリス王女の侍女か。しかも三つってことは、昔っからずっとだな」

「そうだけど、それが?」

 額飾りにはめ込まれた小さな紫水晶は、王女フェリスの関係者だと示している。そして、額飾りの紫水晶の数は、仕えてきた期間を示している。初めは一個。五年目ごとに一つずつ増えていく。

 現在十五歳のフェリスに対し、少なくとも十年近く仕えているのが見ただけでわかる仕組みだ。

「どうりで今まで見つかんねぇわけだ。んでもまあ、フェリス王女の侍女なら別に問題ないな。そのままそこに立ってろよ?」

 ヴィータが何をするつもりでいるか。

(……させるわけには!)

 察したレティシアの左手を、すかさず取って少し力を込める。彼女を逃がさない準備を整えたヴィータは、その場で片膝立ちになった。レティシアは首を横に何度も振って嫌がる素振りを見せているが、彼は意に介さない。

「わ、私はただの侍女よ? 騎士が誓いを立ててまで、守らなくちゃいけないような人間じゃないわ!」

「いいから黙って誓われてろ!」

 ひどく慌てるレティシアの言い分はもっともだ。しかし、ヴィータは何が何でも、彼女に対して騎士の誓いを立てると決めてしまったらしい。

 語気を強めて言い放つと、額をレティシアの手に押しつける。

「俺、ヴィータ・フェランは、金色の魂を持つレティシアを、この命が消え去る瞬間まで何ものからも守り抜くと、この[神眼]と俺の自由な魂に誓う」

 どこまでも真摯な声が、耳から入って全身にしみていく。

 壊れ物を扱うように優しく、けれど逃がさないように。しっかりとつかんでいるヴィータの手を、どうにかして振り払おうという気力をレティシアから奪う。

 額を離し、ヴィータはレティシアの白く滑らかな指先にそっと唇を押し当てた。

 彼は確かに、自分に対して騎士たる誓いを行ったのだ。その事実を、レティシアはクラクラする頭と目眩の中で理解する。

 同時に後ろめたい気持ちが湧き上がって、ひどく苦い。

「よし。これで俺は明後日から紫騎士(プルプレウス)だ」

「あなただったら、こんなことしなくても紫騎士になれるでしょ? [神眼]持ちがわがままを言えば、よっぽどのこと以外は叶えられるんだから」

 嬉しそうな声で笑うヴィータから伝わる雰囲気が少し幼く、気安く感じられた。レティシアは、思わず憎まれ口を叩いてしまう。

 彼が[神眼]を有している以上、武勲を積んだ騎士でもなかなか叶わない望みが叶う。他人の賛同が得られないことは不可能だが、所属する騎士団を自ら選ぶことは当然の権利だ。結果として大きな権力を持たない限り、王女との結婚さえ簡単に許される。

 それほどに、[神眼]は特殊で特別なものだ。

「別に紫騎士になりたかったわけじゃねぇよ。あんたがフェリス王女の侍女だから、俺は紫騎士になるんだ」

(本当に、この人は……)

 急に息苦しくなって、レティシアは胸元の服を右手でギュッとつかむ。

 服の下にあるものが触れ、苦いほどの苦しさはますます増した。


 ヴィータと別れた後。花園へ行ってみたものの、花を摘む気にはなれなかった。手ぶらで部屋へ戻ったレティシアを、ドレス姿の少女が出迎えた。

 腰まで届く薄茶色の髪は、真っ直ぐに流れ落ちている。大きなとび色の瞳は、目尻が吊り上がっているわけでも垂れているわけでもない。頬は淡く色づき、ややふっくらした唇はレティシアに向けて笑みの形を取っていた。肌は滑らかで、白磁を思わせる。レースをふんだんに使った桃色のドレスが、よく似合う少女だ。

「……ただいま、戻りました」

 レティシアは後ろ手にドアを閉め、ほぅと息を吐く。

 歩きながら、額飾りを外してヴェールを取る。

 そこには、出迎えた少女とよく似た顔が現れた。違いといえば、レティシアの目尻は少し吊り上がっていることと唇が薄い程度か。化粧によって、ほとんど同じ顔にできてしまうだろう。

「お帰りなさいませ、フェリス様」

 顔だけでなく声までそっくりだ。

 ドレス姿の少女は、レティシアを「フェリス」と呼んで、指先まで気を遣った優美な一礼をする。そして、華やかな格好のまま茶の用意を始めた。

「ああ、ダメよ。それは私がやらなくちゃ」

「いいえ。これは私の本来の仕事ですから、フェリス様はどうかくつろいでください」

 困ったように微笑み、フェリスと呼ばれたレティシアは仕方なく、手触りのよい布張りのソファに座る。。

 ヴィータが誓いを立てたレティシアは、実は王女フェリスだ。本当のレティシアは、ドレス姿で茶の用意をしている彼女。

 レティシアは、フェリスにあまりにも似ていた。偶然見かけた王によって、ヴェールで顔を隠す前からフェリスの遊び相手として召し上げられている。唯一の侍女という待遇を与えられた今は、様々な状況で影武者の役目を果たしているのだ。

 フェリス自身は、顔をヴェールで隠す年齢になってから、ほとんど人前に出ていない。時々、自分が本当に王女であるのかと、疑いが首をもたげることがある。

 本当の名を強く自覚するのは、[太陽の貴石]を使う時だけだ。常に身につけているそれを意識することはあっても、自分の名前までは至らない。

 ソファの背に体を預けてひと息ついた。そこでヴィータに誓いを立てられたことを思い出し、深いため息がこぼれる。

「フェリス様、浮かない顔をされていますけれど、どうかされたのですか?」

「……[神眼]持ちの従騎士に、騎士の誓いを立てられたの」

 差し出されたカップに口をつけ、その温かさで落ち着いたフェリスは重い口を開く。

 些細なことでも、黙っていては入れ替わった時に困る場合が出る。別人でありながら、同一。そんな不思議な関係のフェリスとレティシアの間に、隠し事は存在してはいけない。

 それでも、なぜかヴィータのことを話すのは気が進まなかった。

「ヴィータ様にですか?」

 本物のレティシアは驚いたように呟き、怪訝な顔で小さく首を傾げる。

 フェラン家は、かろうじて貴族と呼べる位置にあるとはいえ、貴族は貴族だ。素に戻っている市民出身のレティシアが、敬意を払うのは無理もない。

「有名なの? 私は[神眼]持ちの従騎士がいることも、さっきまで知らなかったんだけど……」

「いえ、知っている方は少ないと思います。実は先ほど、明後日に行われる叙任式の話を伺ってきたのですが、そこで初めて[神眼]持ちが叙任されることを聞かされました」

 王女とはいえ未婚女性のフェリスが、ヴェールを外して人前に出る機会は少ない。唯一といってもいい機会が、フェリスを護衛する紫騎士団(プルプレウスレギオー)が一堂に会する叙任式だ。守られる人間として、素顔をさらして彼らに言葉をかけるのが慣わしになっている。

 この十年、フェリス自身は紫騎士団員に言葉をかけていない。彼らが守るのは、華やかに着飾ったレティシア扮する「フェリス・ガーランド」だ。侍女の格好をしている本物ではない。

「まだ所属の決まっていない、唯一の従騎士とのお話でしたけれど……フェリス様に誓いを立てられたのであれば、紫騎士団に所属するのですね」

「紫騎士になりたいわけではなく、私がいるから紫騎士になるのだと言っていたわ」

「聞きようによっては、とても情熱的な方となりそうですね。でも、ヴィータ様は、フェリス様と知らずに誓われたのですよね?」

 どこが情熱的なのか。問い詰めようと考えていたフェリスは、とりあえず自分であることを知らずに彼が誓いを立てた事実に対して頷く。

「ということは、初めての、フェリス様だけの騎士ですね」

 この上なく嬉しそうに微笑んで、レティシアは温くなっていた自分のカップを下げて新しいものに茶を注いだ。

「……私だけの、騎士?」

 ゆらゆらと揺れるカップの茶を凝視しながら呟く。

 フェリスは、その言葉が妙な熱を持って自分の胸に落ち、そこから穏やかな何かを全身にじわじわと伝えていく、不思議な感覚を味わう。

(でも彼は、私がフェリスだと知らないわ)

 考えた瞬間。全身をゆるやかに覆っていた熱は、氷水を浴びせられて冷え冷えとした別のものへ変化する。

「そうです。今までは「フェリス・ガーランド」に対して、忠誠を誓った者ばかりでしたよね? でも、ヴィータ様は、フェリス様に誓いを立てられたのですから、フェリス様だけの騎士です。フェリス様に扮した私が死に直面しようと、彼は間違えることなく、フェリス様を守ってくださる……それだけで、私は安心できるのです」

「何を言ってるの? レティシアは、私の倍は生きてくれなきゃダメよ。私は、三十年と生きられないかもしれないんだから」

 命を削る〔太陽の神子〕は、長く生きられない。

 聞いた話では、先代の〔太陽の神子〕は三十六で亡くなったそうだ。彼は長く生きた方で、その前はもっと早く、三十になれなかったらしい。

 早ければ、あと十年。

 怖くなり、フェリスはそっと目を伏せた。

「フェリス様……」

 気遣いをにじませた、苦しげな声に顔を上げる。それから、レティシアに笑みを向けた。

『私は、フェリス様を大切に思っています。ですから、私は「フェリス・ガーランド」として生きることは、苦でもありません』

 彼女が、どんな気持ちでその台詞を言ったのか。どんな思いで、日々「フェリス・ガーランド」として振る舞ってくれているのか。

 フェリスには、今でもよくわからない。

 庶民の生まれであるレティシアが、王族らしい立ち居振る舞いを身につける。それ自体が、容易ではなかったはずだ。身代わりを押しつけられたことに対する不満が、一つもなかったとは思えなかった。

 それでも。生まれ落ちた瞬間から運命を決められていたフェリスにとって、自由を与えてくれるレティシアには感謝し、犠牲になってもらうしかない。

 〔太陽の貴石〕に選ばれてしまった。その時点からフェリスは、自分の命を削ることを強要されてきた。レティシアが来る前から、ずっとだ。

 国内で雨が降らない。雨が降りすぎていて、太陽の恵みが足りない。風や害虫の影響でひどい不作になりそうだ。

 そんな時にフェリスは、[太陽の貴石]に祈りを捧げてきた。国の平穏が乱れそうになるたびに、フェリスの命を貴石に差し出して、安定を図っているようなものだ。

 元がどれだけあるかわからない。願うごとにどれだけ減っているのかも、フェリスにはわからない。

 夜、眠るのが怖い。朝起きて、目が開いて体が動くことが嬉しい。けれど、明日はこうして目覚めることができるのか。

 何もかもが、不安になる。


 死の影に怯えて生きる人生から、早く楽になってしまいたい。



    二


 就任式を行い、紫騎士団に新人騎士が所属してから十日。

 その間、ヴィータは暇を見つけてはレティシアと出会った庭にいる。だが、一度も会うことはなかった。

 他の紫騎士たちから、「恋人を待ち焦がれているみたいだ」とからかわれることに、日々甘んじているというのに。

(いくら紫騎士だからって、フェリス王女の部屋に押しかけるわけにもいかねぇしなぁ)

 末席貴族の次男で、家を継ぐわけではない。だから、自分の力でどうにかして地位を確立する必要があった。

 子供の時分は、遊び半分で[神眼]を使っていた。初めて、人とは違うものを見ている自分に恐怖を抱いた日。太陽がそこに存在しているかのような、眩しい金色の輝きを見たのだ。

 いつ、どこにいても、その輝きは街の中心──王城の中にあった。

 あの金色の輝きは城の中にいる。つまり、城勤めをしている人間に近寄るには、自分も同じ場所へ行けばいい。

 そんな単純にして明快な考えでヴィータは騎士を目指し、今ここにいる。〔神眼〕があるから、融通を期待して騎士になったわけではない。

 ずっと、探し求めていた存在。太陽のように輝く金色の魂を持つ人間を、あの時ほど間近で見たのは初めてだ。

 〔神眼〕で見るとあまりの眩しさに、固く目を閉じてしまいたかった。けれど、目に焼きつけないのは惜しい気持ちがして、今度は瞬いて見えなくなる瞬間が嫌になる。

 自分の鼓動がやけに大きく聞こえて、何となく息苦しくなった。

 絶好の好機を逃したくない。どうにかして、これからのつながりを作っておきたい。そんな一心で、騎士としての誓いを立てることに、何の躊躇いもなかった。

 正直なところ、フェリス王女は、できるだけレティシアの近くにいるための口実に過ぎない。

 叙任を受ける二日前に、探し求めていた人間と出会えた幸運を喜んだのも束の間。あの日以来、フェリスの部屋からほとんど動かない、彼女の輝きしか見ることはできなかった。

 王女の侍女に誓いを立てているとはいえ、新人騎士が、王女のそばに四六時中居座るわけにはいかない。

([神眼]だって、一日に何回も使ってらんねぇしさ)

 自分の命が続く限り、守ると誓ったのだ。

 一度使うたびに、わずかとはいえ命を持っていかれる。そんな[神眼]の力を考えなしに使っていたら、若くして死んでしまうだろう。

 死ぬことは怖くない。だが、レティシアより先に倒れてしまうことが──彼女を残して逝くことが、何より恐ろしい。

 ふと、視線がブローチに落ちる。触れたそれは、ひんやりと冷たかった。

『俺はレティシアに誓いを立てたんであって、フェリス王女はついでだ。だから、レティシアの騎士だって証が欲しい』

 わがままが許されるというなら、言うだけ言ってみよう。もし聞き入れてもらえたら、相当運がいい。

 本気と軽い気持ちが混ざったまま、就任式で言ってみた結果がこれだ。

 困ったように微笑んだ王女は、徽章を配り終えてから、使用目的のわからない幕の向こうにいる誰かと話していた。

 そこにレティシアがいることは、すぐに[神眼]で確かめた。移動する金色の光を追い、待っていたのだ。

『あなたのレティシアから預かってきました。これがどういったものかは、本人に聞いてくださいね』

 手渡されたのは、鳥の形で、瞳に紫水晶が入っている銀色のブローチだった。小さくて軽いそれは、少し古ぼけている。毎日磨いている今は新品同様だ。

 いけないことだとわかっている。それでもあの時は、駆け寄って素顔を拝みたかった。

 どんな表情で笑うのか。怒るとどうなのか。泣き顔は?

 すべてをこの目で見て確かめたい。

 背丈も声も似ているせいだろうか。ヴィータが漠然と思い描いたレティシアは、フェリスに少し似ている。ただ、おっとりして聖女のような印象を受けたフェリスとは違い、想像の中のレティシアは目尻が少し上がっていて、見るからに気が強そうだ。

(あのヴェール、いきなりめくったら殴られっかな?)

 城内だけでなく、外出時にもそばに寄せさせてもらえなくなる。恐ろしい予感に、素顔を見たい欲求をどうにか退けた。

 それでも、確かに存在していた彼女に、騎士の誓いを立てたことを。彼女の熱に直接触れて、この手に確かめたい衝動に駆られる。

 どうしてそれほどに会いたいと願ってきたのか。出会えたら出会えたで、今度はずっとそばにいたくて仕方がないのはどうしてなのか。

 答えはまだ出てこない。

「会いたいなぁ……」

 知らず知らずこぼれたため息に乗った囁きは、誰かの耳に届くことなく風に溶けて流されていった。


 翌日、ヴィータは紫騎士の団長ライリーに呼び出された。

「団長、なんか用ですか?」

「ああ。明日の早朝、フェリス様がクウェンネル王国へ出向かれる」

 クウェンネル王国と聞き、ヴィータの表情がわずかに渋る。

 今は相互不可侵条約が結ばれているため、一応火種もない。けれど、自分が生まれる以前は、剣を交えたこともある。そう聞かされていた国へ赴く危険性が、わからないヴィータではない。

「もちろんレティシア嬢も同行するんだが、お前はどうする?」

「行きます」

 レティシアが行くならば。そこが地獄より何倍も恐ろしい場所であろうと、迷わずついていく。

 強い覚悟がきらめくとび色の瞳を真っ直ぐ見つめ、ライリーは相好を崩してヴィータの肩を軽く叩いた。

「起こしてやらないから、自分で起きてくるんだぞ?」

 からかう物言いに苦笑したヴィータは頷き、すぐさま団長室を後にする。

 今なら、通りがかった誰かに「浮き足立ってるぞ」とか「愛しの彼女に待ちぼうけを食らわされすぎておかしくなったか?」などと言われても、満面の笑みを返せる気がした。

 まだ日は高いというのに、心はすでに翌日へと馳せ飛んでいる。

(やっと、会えるんだ)

 ヴェールに隠された素顔は知らない。

 彼女のことでヴィータが知っているのは、名前。フェリス王女の侍女であること。フェリスと同じくらいの背丈で、声が似ていたこと。それから、眩しさに目を閉じたくなるのに、実行するのは惜しいと思わせる、太陽のような魂の輝きだけだ。

 夜が訪れ、やがて明るくなるのが待ち遠しくてたまらなかった。


 眠った時間はいつもどおりのヴィータが目覚めたのは、朝日が昇る前だった。

(俺がこんな時間に起きるなんて、奇跡だな)

 ライリーの怒声をどれだけ浴びても、なかなか起きられない。普段の自分を思い出し、小さな笑みが口元に浮かぶ。

 同室の騎士たちは、ヴィータと同じ日に叙任された者だ。六人部屋の従騎士と、個室暮らしの役職者以外は、基本的に所属の違う四人がひと部屋で暮らす。

 共有場所は、小さなテーブルと四人分のチェストががあるだけ。左右の壁際に二つずつ並ぶベッドのどこで寝るかは、それぞれで相談して決めることになっている。ベッドの間を仕切るのは、申し訳程度についているカーテンだ。

 早朝から活動を始める騎士は、護衛などの任務がある者に限られる。用のない騎士たちは、辺りが薄明るくなるまでは眠っているのが通常だった。

 寝息やいびきが聞こえる中、ヴィータはそっとベッドを降りる。

 音を立てて起こしてはいけないからと、前日のうちに着替えや必要なものは用意してある。ヴィータは背負い袋と剣を持ち、着替えを抱えてそっと部屋を出た。

 最上階とはいえ、薄暗い宿舎の空気は春だというのに冷たい。油断するとぼんやりしそうなヴィータの目を覚まさせる。

 足音を立てないようにそっと階段を下り、一階の端にある大浴場の脱衣所に飛び込んだ。ここは他の部屋と離れているから、物音でうっかり起こしてしまう心配はない。

 夜着を脱ぎ捨て、ようやく体に馴染んできた気がする、騎士服と呼ばれる濃紺の制服をまとう。騎士服は、日常生活に大きな影響を与えないように薄く作られた鎖帷子が、胴体部分の表地と裏地の間に縫い込まれている。その上から前腕甲と脛当てをつけた。最後に、レティシアのブローチが徽章代わりについていることを確認する。

 帰ってきたら回収する予定で、脱いだ夜着を隅にある棚の上に放り投げた。

 こんなところで服を脱ぎ捨てていくのはヴィータだけだ。誰かが気づいても、「またあいつか」などと笑って放っておくのが常になっている。

 剣帯に剣を吊るし、荷袋を背負う。廊下へ出ると、集合場所となっている南門を目指し、足音を殺して駆けた。

「お、ヴィータが来たぞ」

「愛しのレティシア嬢に会えるとなると、寝ぼすけヴィータでも起きてくるんだなぁ」

 早速、何年か先輩の騎士たちにからかわれる。だが、レティシアに会えることを心待ちにしているヴィータは、まったく意に介さない。

 末席に並ぶと、自然と城の出入り口に視線が向いた。

「ヴィータもいるな。よし、では、今回の任務について説明する」

 ライリーが全員を一瞥してから口を開く。

「今回、フェリス様がクウェンネル王国へ出向かれる。目的は、かの国で発見されたという[太陽の貴石]に関する文書だ。[太陽の貴石]がどういったものであるか、現在の使い手が誰であるかは、すでに広く知られてしまっている。当然、その力を使うことのできるフェリス様に、どうにか力を使わせようと画策している可能性も、十二分に考えられる」

 ここで一旦言葉を切る。ライリーは緊張感から背筋を伸ばしたヴィータ以外の騎士たちを、もう一度順に眺めた。

「可能な限り、フェリス様のそばを離れぬよう努めろ。無事に帰国していただくことが、我々に与えられた任務だ。そのため、フェリス様が連れて行かれる侍女も、レティシア嬢ただ一人。もちろん、レティシア嬢が彼らに利用されないとも限らない」

 不意に視線を固定され、ヴィータはスッと背中を伸ばす。

「レティシア嬢に関しては、ヴィータに一任する」

「はい!」

 ヴィータが[神眼]持ちの騎士だと、知られていなければ。万一彼女を連れ去られるような無様をさらそうとも、すぐに追いかけることができる。

(あいつは俺が守る。たとえ[神眼]の真の力を使ってでも。その結果、この命が尽きるとしても──絶対に)

 決意を固め直した時、ヴェールで顔を隠したフェリスとレティシアが現れた。

 馬車に乗っているのが主な仕事になる今日の王女は、薄い水色でスカートにボリュームの少ないドレスを選んだらしい。彼女の後ろを歩くレティシアは、普段どおりの服装だ。

 ほんの一瞬、レティシアの顔が、こちらを向いた気がした。

「やったなぁ、ヴィータ! レティシア嬢がお前を見たぞ!」

 目ざとい誰かに横から肘で突かれて、ヴィータは少しよろめく。情けない姿を目撃されてしまったかもしれないと、彼女を見る。

 幸か不幸か。レティシアはちょうどその瞬間を見ていなかったようだ。そもそも、視線が向いていたところで、距離があってヴェール越しでは何も見えないだろう。

 ため息をつきながら頭をかき、姿勢を正す。それから、フェリスとレティシアが馬車に乗り込むのを見守る。

 フェリスを助けていたレティシアが、ドア側に座ったことを確認した。すぐにヴィータは、柵に繋がれている馬の手綱を解いてひらりとまたがる。馬の首をめぐらせて、馬車のドアの斜め後ろに陣取った。

 襲撃などへの警戒のため、馬車は前方に小さな窓があるだけだ。当然、レティシアを見ることはできない。それでも。

 すぐ近くに彼女がいる。

 そう思うだけで、ヴィータの胸中に温かな何かがじわじわと広がっていく。

(しばらく、近くにいられんだな)

 嬉しい反面、これまで遠かったレティシアが手の届く範囲にいることに、どうしようもない強い戸惑いを覚えた。



    三


 クウェンネル王国までの道のりは、整えられた街道を通っておよそ三日。少々急がせたので、二日半ほどでクウェンネル王国の王城へ到着した。到着前の襲撃も視野に入れ、厳重な警戒を強いていたのだが、何も起こらなかった。

 堅牢な石造りのクウェンネル王城は、華やかさのない地味な外観だ。その代わり、広い川と深い崖に囲まれている。跳ね橋を上げられると手も足も出ないため、守るに易く攻めるに難い最大の理由となっていた。

 馬車を降りたレティシアとフェリスは、ライリーに先導されてクウェンネル王城内を歩く。レティシアに扮したフェリスの隣には、当然のようにヴィータがついている。

「ようこそいらっしゃいました。長旅でお疲れでしょうから、まずは滞在場所となる離宮へ案内いたしましょう」

 フェリスたちを出迎えたのは初老の男性だ。本人曰く、かつては騎士をしていたが、寄る年波に勝てなくなり、引退して執事の真似事をしているらしい。

「こちらでございます」

 大きさでは王城に遥かに見劣りするものの、フェリスたちが何日間か滞在するだけならば十分な広さだった。暖炉は各部屋にあり、窓を開けて換気もできる。中央に置かれたテーブルは重厚で、ソファは革張りだ。寝室には天蓋つきのベッドと、衣裳入れが置かれている。

 ここは、他国の王族専用の客間といった扱いの建物のようだ。

 男性が下がると、ライリーはすぐに騎士たちの部屋割りと警備の順番を決める。最も広く、中心にある部屋にフェリスとレティシア。ライリーはその正面で、ヴィータは寝室に近い側の隣室だ。他の騎士たちは二、三人で広々と部屋を使えるほど、部屋数に余裕があった。

 荷物を解くために、決められた部屋に引き上げる。フェリスとレティシアも部屋に入って、そろってホッと息をついた。

「やっと着きましたね」

 紫水晶で作った額飾りとヴェールを外し、素顔をさらす。レティシアにならい、フェリスもヴェールを脱ぐ。それから、自分の荷物を侍女用の続き部屋に放り込む。

「それにしても、クウェンネルに貴石に関する文書があったなんて」

「何が書かれているか、不安になりますね。外から見た[太陽の貴石]の力を知る機会とはいえ、フェリス様が貴石の使い手であることは他国にも知れ渡っていますから」

 人質を取られる程度で済めばいいが、場合によっては、もっと恐ろしいことになるかもしれない。力ずくで言うことを聞かせるために襲われれば、どうにもならないだろう。

 自分で描いた想像が、背筋に冷たい汗を流す。フェリスは、レティシアの瞳を真っ直ぐ見つめた。

「もし襲われることがあったら、フェリスではないと言って。本物ならば貴石を身につけているはずだと、自分はそんなものは持っていないと」

 条件反射のように、レティシアはぶんぶんと首を横に振る。

「決して言いません。事実を知られれば、狙われるのはフェリス様だけになってしまうでしょう? フェリス様をお守りしたいと思っているのは、ヴィータ様だけではありませんから。私も、そう思っています」

「でも、レティシアが傷つけられるのは嫌よ!」

「私はフェリス様の影です。代わりに傷つくことなど恐れません」

 王女としてかしずかれ、何不自由なくのうのうと生きていきたいわけではない。そうすることでフェリスを守れると信じてきたから、レティシアは「フェリス・ガーランド」として表舞台に出ているのだ。

 自分とほとんど変わらない顔というのに、これほど優しく、聖女のような笑みが浮かべられるのか。レティシアの微笑みを見ながら、フェリスは驚いてしまう。

「何より、王女のそばには常に騎士様がついていてくださいますから、私は大丈夫ですよ」

 守るためについていながら、みすみす相手に奪われるような失態を犯す。そこまで愚かな紫騎士はいないと、レティシアは信頼している。

「ですから、フェリス様はご自身を案じてください」

「……わかったわ」

 渋々といった表情で頷くフェリスに笑みを向け、レティシアは茶でも淹れようと簡易キッチンへと歩み寄った。

 湯を沸かし、使ったカップを洗うしかできない場所で、慣れた手つきで茶葉を選ぶ。それぞれを開け、匂いを確かめながら、どれにしようか迷っているようだ。

「落ち着けるものがいいですよね」

 考えた末、乾燥させたハーブで淹れることにしたらしい。レティシア特製の乾燥ハーブが入ったビンを持って、湯が沸くのを待っている。

 コトコトと蓋を押し上げて、はみ出してくる蒸気が心地いい。

 自分が淹れた茶を飲んで、安心して笑ってくれるフェリスを見る。そんな一時が、レティシアは好きだ。

 今までに何度も命を差し出している。いつまで生きていられるのかと、怯えて暮らす。ひっそりと沈むフェリスの気持ちを、レティシアが想像することはできても、正確に理解することはできない。

 だからこそレティシアは、あの笑顔が見られるのならばこの程度の労力などいくら払っても惜しくないと考えている。

 レティシアはガラス製のティーポットに沸いた湯を注ぐ。乾燥させたハーブたちが、クルクルヒラヒラと踊るように上下する様を眺める。開ききったハーブから、じわじわと色が染み出して透明な湯を淡く染めていく。

 ティーポットとカップを二つ乗せたトレーを持って、フェリスのところへ向かう。

「特製ハーブティーね」

 ガラス製のティーポットを見ただけで、中身が何であるかがわかる。レティシアがそれを使うのは、フェリスが気まぐれに摘んできたハーブを茶葉に淹れる時だけ。

「これが一番、落ち着けると思いましたから」

 カップをフェリスの前に置き、レティシアは静かにハーブティーを注ぎ入れた。

 ほのかに甘くて、けれど気分をすっきりさせる。不思議な香りが鼻から胸へと入って、フェリスの気分を少なからず軽くしてくれた。

 口に含むと、香りは体中に広がっていく。

 喉を潤すというよりは、体にため込んだよくないものを一掃してくれる。そんな気分がして、知らず知らずフェリスの顔に笑みが浮かぶ。

 その笑顔にレティシアは嬉しくなる。フェリスのようにハーブティーを飲んだわけでもないのに、笑みがこぼれた。

「……明日は、少し苦労させられそうね。人前でヴェールを外すわけではないし、私が「フェリス・ガーランド」として立ち会った方がいいと思うの」

「ですが、万一ということもあります。意見を言う必要がなければ、私が「フェリス・ガーランド」であった方が、混乱は少ないと思います。ヴィータ様も、わざわざ[神眼]を使って確かめることもないでしょうし」

 ヴィータの名を出され、フェリスは無意識に唇を硬く引き結んだ。

 彼は、使うたびに命を削られる[神眼]を気軽に使う。フェリスの目にはそう映っている。だからなのか、[太陽の貴石]を使っては明日の生死に怯える自分が、命を惜しむ自分勝手な人間に思えて仕方がない。

(ヴィータは、どんな思いで[神眼]を使っているの?)

 ──使ったことが怖くならないのか。

 ──明日をも知れぬ我が身に、悲観したことはないのか。

 ──そもそも、生きていることさえ苦しくならないか。

 直接聞いてみたい。けれど、自分と違う考えを、真っ向からぶつけられることが怖くて。

(自分の気持ちを、似たような人に肯定されたいなんて……私、ずいぶん子供ね)

 同じ人間ではないから、理解はできても同じ気持ちにはならない。そんなわかりきったことを、誰かに肯定されてそのまま信じたい。

 それほど、生きること自体に疲れてしまったのか。

「……混乱を」

 搾り出した声がかすれていることは、フェリス自身にもわかっていた。当然、レティシアも気づいただろう。だが彼女は、目を伏せてハーブティーを口に含んでいる。

「混乱を避けるために、普段どおりにしましょう」

「はい。私は意見を求められても何も答えません。ヴェールで見づらいと言えば、読み上げてくださるでしょう。ああでも、言葉が歪められているかどうかは、わかりませんよね……」

 相手は敵だ。書物に書いてあるとおりに、読み上げてくれるとは限らない。

「ライリーは先代の[太陽の神子]の功績を知っているから、大きな嘘があるかどうかはわかるはずよ」

 前もって、クウェンネル王国側には「フェリス・ガーランド」の護衛として団長のライリーが、さらに侍女とその騎士が同席することは伝えてある。

 待ち受けているものは、嘘か真実か。

 想像しなくとも、フェリスの心臓は勝手に鼓動を速めた。


        †


 薬物を警戒し、食事はすべて持ち込んだ食材を離宮で調理している。騎士が交代で作る料理は、スウィーニー王国の家庭料理が主だ。食材の切り方に少々大雑把なところはあれど、味は問題ない。

「見た目はともかく、おいしいわ」

「私が子供の頃は、こういった料理がいつも食卓に並んでいましたよ。懐かしいです」

 自国の家庭料理を初めて口にした。フェリスは、素朴ながらもしっかりした味つけの料理を大いに気に入ったらしい。珍しく、少しだがお代わりをしていた。

 朝食を済ませたフェリスとレティシアは、いつもどおり入れ替わった状態だ。ライリーとヴィータを従えて、クウェンネル王国側が待つ会議室へと向かう。

 王女がいるからと、ヴィータを部屋には入れていない。そのせいか、ここぞとばかりに張りついてくる。レティシアとライリーには、見ない振りを決め込まれた。

 助けを求めることができず、フェリスは仕方なしに相手をする。

「レティシアの好きな色は?」

「どの色も好きよ」

「じゃあ、食べ物は何が好きなんだ?」

「食べられるものであれば、何でもかまわないでしょ?」

「だよなぁ。食えるもんを食べてればとりあえず生きていけるし。んじゃあ……俺のこと、どう思う?」

 直球すぎる。

 思ったが、口には出さない。レティシアとライリーの小さな嘆息が聞こえた。

 思わず足を止めた三人を不思議そうに眺め、それからフェリスを真っ直ぐ見て、ヴィータはもう一度問いを繰り返す。

「……よくわからない人」

 正直な思いを告げれば、質問攻めを止めてくれるだろうか。思ったとおりに伝えたものの、彼はフェリスの想像よりずっと強かだった。

「ああ、うん、だよな。俺もあんたのことほとんど知らないし。そうだ。今度はあんたが俺に聞いてくれよ」

(何を聞けというの? 私が本当に知りたいことは、何一つ聞けないのに……)

 首を横に振って、フェリスは口を閉ざす。

 知りたいことはない。

 そんな意思表示のつもりだった。

「あんたはどうか知らないけどさ、俺はあんたのことが知りたいんだ」

 ヴェールの向こうから、射抜くような視線を感じる。見つめられていると自覚して、フェリスの頬がゆるやかに熱を持つ。

 再びヴィータ以外に沈黙が落ち、レティシアとライリーはあらぬ方を見ている。

(……ヴェールがあって、よかったわ)

 頬の火照りを冷やすために、手を当てるわけにはいかない。フェリスの手は、所在なげにそろえられたままだ。

 ヴィータの視線を感じて、フェリスは落ち着かない心持ちになる。

 何を言えばいいのか。

 考えても言葉が何ひとつ出てこない。顔は熱くなる一方だ。

「そろそろ行きましょうか。あまり遅くなっては、あちらに申し訳が立ちませんし」

「遅れたから見せないと言われては、大変に困りますからなぁ」

 困り果てているフェリスを見かねたレティシアが助け舟を出し、ライリーもそれに乗る。

 残念と顔に書いているヴィータに苦笑をこぼすライリーが歩き出し、ようやくフェリスは小さく息を吐いた。

 どこまでも自分の感情に素直なヴィータは、心臓に悪い。

 会議室に到着するまでに、跳ねている心臓と熱を持ったままの顔をどうにか落ち着かせたくて。フェリスは、今から待ち受けていることを考えてみる。

(今は確かに私が[太陽の神子]と呼ばれている。でも、私は国内の安定を図る以上のことはしていないわ。この国と交戦していた頃の[太陽の神子]だったら、攻撃も行っていたかもしれないけど)

 戦時下の話が飛び出してきたとしても。その頃はまだ生まれていないフェリスには、何も言うことはできない。口を出せるのは、当時から生きているライリーだけだ。

 考えながら足を動かしている間に、フェリスたちは目的の部屋の前へ着いていた。

 ライリーがドアを叩いて、スウィーニー王国の人間だと名乗っているようだ。自覚がないまま緊張していたのか、耳鳴りがしてよく聞こえない。

 無意識のうちに、手が胸元へと伸びた。服の下にある硬いものに触れた手は、小さく震えている。

「レティシア」

 胸元に置かれた手と、そっくりな手が重ねられた。

「私は大丈夫ですよ」

 ヴェールに隠された顔は見えない。でも、声の調子から、穏やかな笑みを浮かべているレティシアが簡単に想像できる。

 今までも、何度レティシアの精神的な強さに助けられてきたかわからない。

「行きましょう」

 力強いレティシアの声に引っ張られるように。中から開けられたドアを抜けて、室内へと足を踏み込んだ。

「お疲れのところを申し訳ない」

 フェリスたちに声をかけてきた、上座に座る初老の男性の左側は空席が四つ。恐らくフェリスたちの場所だろう。彼の右側は奥から順に三十そこそこで気品ある男性。五十半ばで、服装から騎士と思われる男性。研究者か学者らしき、三十後半から四十くらいに見える男性が座っている。

 学者らしき男性の前には、少し黄ばんだ紙が置かれていた。

「どうぞおかけください」

 初老の男性に勧められ、まずはレティシアが一礼をし、もっとも奥の椅子に座る。その隣にライリー、フェリス、ヴィータの順に並んだ。当然のように、ライリーはレティシアの、ヴィータはフェリスの椅子を引いて彼女たちを補佐する。

 「フェリス・ガーランド」はともかく、彼女の侍女にまで騎士をつけて淑女扱いするのはどうなのか。そんな視線があからさまに向けられた。

「お話を聞かせていただけますか?」

 彼らの視線を、レティシアもヴェール越しに感じ取ったはずだ。けれど、淡々と問いかけている。有無を言わさぬ彼女の声の強さに、フェリスの緊張は少しだけほぐれた。

 しばらく目で言葉を交わしていたが、クウェンネル側の出席者は頷く。

「まずは簡単に自己紹介をしておこう。私はクウェンネル王ナイジェル・アーリック。私の隣から順に、息子のノラン・アーリック、騎士団長モーガン、研究者のハントだ」

「私はスウィーニー王国王女フェリス・ガーランドです。隣は紫騎士団の長ライリー。その隣は、幼い頃から私のそばに仕えてくれているレティシアと、彼女の騎士ヴィータです」

 よどみなく、自然な仕草を交えて説明するレティシアの手も声も震えていない。

 机の下に隠したフェリスの手は膝の上で戦き、歯の根が合っていないというのに。

「私が有する[太陽の貴石]に関する文書が発見されたそうですが、どのようなことが書かれていたのですか?」

 さりげない動きで、レティシアは胸元に右手を持っていく。それは、強い感情に心が揺さぶられたフェリスが、思わずしてしまう癖そのものだ。同時に、そこに[太陽の貴石]があるのだと、クウェンネル側に教えたことになる。

 彼らの視線が一斉に向けられたが、レティシアはまったく動じなかった。

「文書を拝見したいところですが、あいにく私は人前でこのヴェールを外すことができません。よろしければ、読み上げていただけないでしょうか」

 問う形を取りながら、レティシアの口調は拒否を許さない。

 十五歳という年齢に見合わない、堂々としたやり取りを行う「フェリス・ガーランド」が、よほど彼らの予想に反していたのか。

 クウェンネル側は、何度も困惑を隠さずに目で会話をしている。その様子を、ライリーとヴィータは余すことなく見つめていた。

「わかりました。読み上げさせていただきます」

 紙をつかんで立ち上がったハントは、ゆっくりと口を開く。

「恐ろしいものを見た。雲ひとつない空から突然、巨大な雷が我々目がけて駆け下りてきたのだ。あれはいったい何だったのか……まさか、あれが[太陽の貴石]の力なのか?」

 読み上げられた部分に心当たりがあったのだろう。ライリーが静かに目を閉じた。

「あの雷で、我々の戦力は半分まで減らされた。これを好機と取ったスウィーニー王国軍に、攻め込まれるのも時間の問題だ。生き残った我々がすべきことは、この事実を王に伝えて、どうにか和平へ持ち込んでもらう以外にない」

 そこまで読み上げられてからようやく。ライリー以外の三人は、クウェンネルと相互不可侵条約を結ぶきっかけになった出来事なのだと察する。

 不利な条件をつけられないようにと、クウェンネルの前王は自害した。跡を継いだナイジェルとの間で、互いに侵略しない条件のみの和平を成立させたのがフェリスの父だ。

「王は自刃され、ナイジェル様が不可侵条約を結んだ。我々は、何のために戦ってきたのか。あの雷で殺された者たちは、何のために死んだのか。あれさえなければ、勝利は我らのものだったというのに……」

 感情が込められていないハントの読み上げ方が、逆に恐ろしく感じられる。

 フェリスの止まらない震えは、クウェンネル側の目にも明らかになっているだろう。同席を許されたのは、その当時雷を落とした[太陽の貴石]の使い手の関係者だから。そんな認識を持たれたかもしれない。

 怖い。恐ろしい。何もかも投げ捨てて、今すぐここから逃げ出したい。

 叫ぶ心の声が聞こえないのか、フェリスの体は動かなかった。

 ライリーとヴィータは静かに耳を傾けている。ヴェールで顔色を窺えない「フェリス・ガーランド」は、身動き一つしない。

「貴石にクウェンネルへの落雷を願ったあの時も、父王が亡くなられた際に人々から願われた報復を退けた陛下は、最後まで反対された。だが、自分の領土を減らされることを恐れていた辺境貴族たちに何度も懇願され、その上[太陽の神子]が彼らの味方をしたことで、陛下は認めざるを得なくなったのだ」

 沈痛な面持ちで言葉をつむいだライリーに、鋭い視線が向けられる。とはいえ、彼は言い訳をしたかったわけではない。

「陛下は、止められなかった責任を感じていらっしゃる。いつでも非難や苦情、怒りの声を聞き入れる覚悟をお持ちだ。言いたいことは直接でも、書面でもかまわない。あの方の目に、耳に、必ず届けよう」

 こちらにも非はあり、それに対する言葉は甘んじて受け入れる。しかし、そちらはどうなのか。

 凪いだ湖のようなライリーの瞳は、居並ぶクウェンネル側の面々に問いかけていた。

 [太陽の貴石]によって常に安定している。それが過言ではないスウィーニー王国の豊かな土地を欲して、攻め入ったのはクウェンネル王国だ。

 彼らを[太陽の貴石]に頼って追い出すことは簡単だった。しかし、命を使い果たした[太陽の神子]が、再び貴石に願えるようになるまで数年が必要だ。単に追い払っているだけでは、[太陽の神子]が不在の隙を突かれて滅びてしまうだろう。

 四十を越える[太陽の神子]は、過去にたった一人だけ。だから、あれは手を打つ時だったのだ。今ならば、ライリーはそう考えられる。

「現在の[太陽の神子]が死に急ぐことのないよう。もっとも長く生きた[太陽の神子]として歴史に名を残せるよう。祈り努めることこそが、今の私にできるただ一つのことと認識しております」

 ライリーの言葉が、フェリスの中にストンと落ちてくる。

 [神眼]持ちや[太陽の神子]は、人生を駆け抜けてしまう。その様を、ライリーは目の当たりにしてきた。だからこそ、人の手に負えない自然災害や、それに付随する不作以外で、フェリスが命を差し出すことのないよう助力してくれたのだ。

「それは、スウィーニー王国側の屁理屈ですな」

 ひやりとしたモーガンの声に、レティシアはそちらへ顔を向けた。

「自国さえ潤っていれば、他国などどうでもいい。そう聞こえますぞ」

 憤りで立ち上がりかけたライリーを腕で制し、レティシアは嫣然たる笑みをヴェールの中で浮かべる。

「お言葉ですが、あなたは、自分自身には何の関係もない者を救うために、己の命を差し出せますか? 願ったとたんに死ぬかもしれない。それでも、赤の他人を救いますか?」

 どこまでも静かな、冬の早朝のピンと張り詰めた空気のような声音だ。

 すぐそばで見てきたレティシアの個人的な意見と、フェリスには感じられた。

「明日目覚めることができるかどうか、不安に怯えながら眠ろうとも。国を守るため、国民を救うためであれば、それは立派な大義名分です。よくて四十、早ければ三十歳より前に召されるとしても、命を差し出す気にもなれましょう。けれど、無関係の者の平穏にまで、となれば、それは質の悪い偽善です。あなた方は、私自身の人生を、命を、どこまでも他人に搾取されて生きろとおっしゃるのですか?」

 しんと静まり返る。

 モーガンはもちろん、他の誰にもできるはずがない。

 己の命と引き換えに、無関係の者まで救う理由。それは、レティシアの言う「偽善」以外、見つからないのだから。

 レティシアはハントの方へ顔を向ける。

「他に[太陽の貴石]に関する文書はあるのですか?」

「い、いえ……今発見されているのはこれだけですが……」

「では、私たちはこれで失礼させていただきます。これ以上は、お互いの益になりそうにありませんから」

 立ち上がったレティシアは、来た時同様一礼した。ヴェール越しのぼんやりした視界の中、しっかりした足取りでドアへと歩いていく。その後にライリーが続き、ヴィータは体がすっかり固まってしまったフェリスを立たせ、抱きかかえるようにドアまで歩いた。

 そのまま部屋を出て行くのかと思われていたレティシアは、唐突に室内を振り返る。

「私たちが滞在中に新たな文書が発見された際には、またこうしてお話を伺いに参りましょう」

 すかさずライリーがドアを開け、レティシア、フェリス、ヴィータの順に部屋を出ていく。残される者のことなど、かまう暇はない。

 離宮へと戻っていくレティシアとライリーは、少し遅れているフェリスに聞こえないよう、ヒソヒソと言葉を交わす。

「困ったことになりましたね」

「だが、向こうの狙いは確実に絞られたはずだ。ヴィータ以外が堂々とそばにいるわけにはいかないが、万一の時は[神眼]に頼ってでも救い出さなくては……」

 今になって、レティシアの体は震えていた。それを気づかせないよう振る舞う彼女は、フェリスより一歳年上の少女だ。その事実を、ライリーは時々忘れそうになる。

 国王がレティシアを見つけたのは、フェリス五歳の誕生日を祝うパレードの最中だ。

 屋根を取り外したパレード専用の馬車の隣に座っている娘が、庶民の服を着て見物客に混ざっている。二人に分かれてしまったのかと、焦ってフェリスの腕をつかんで確かめたほど似ていたらしい。

 後日、娘に似た少女を探し回り、すぐ近くでその姿を見た時にも「似ている」という思いは揺らがなかった。国王は彼女の両親に許可をもらい、レティシアという名の少女をフェリスの侍女に迎え入れたのだ。

 城に上がった時分から、レティシアの肝は据わっていた。あの頃はまだ、七歳にならない子供だったというのに。王女の身代わりを提案されて、即答で受け入れていたのだから恐れ入るしかない。

 あれから十年が過ぎ、レティシアは生来の気丈さをより強固なものとしている。生まれながらの王女と言われれば、誰もが納得するだけの気品と教養も身につけた。

『フェリス様のためですから』

 つらくはないか、と尋ねられれば、レティシアは常にそう答える。

 本来の「レティシア」としての人生を生きられなくとも。自分がいることでフェリスが自由を得られると知っている彼女に、一切の後悔はない。

「私が一人にはしません」

 強い決意のもと、レティシアはライリーに囁いた。



    四


 翌日は、朝から雨が降っていた。フェリスとレティシアは、退屈しのぎに刺繍をしている。二人の隣室に控えていたヴィータは、体を動かしたいと断りを入れてどこかへ出ていったばかりだ。

「ああ、もう! また糸が絡まって……」

 器用とはいえないフェリスは、気を抜くともつれる刺繍糸に苦戦している。その隣で、レティシアは様々なモチーフを鮮やかな手並みで刺していく。

(レティシアくらい上手にできたら、きっと楽しいんだろうけど……)

 命を犠牲にすれば何でも叶ってしまうからか、フェリスは創造することが苦手だ。よほど不器用らしく、指はいつだって思うとおりに動かない。

 自分が何をどう言っても、フェリスの気分を害してしまう。それがわかっているレティシアは、黙って手を動かしている。瞬きを繰り返す間に、白い布に花が咲いて蝶が降り立つ様は、感嘆のため息しか出てこない。

 手元にある同じ刺繍道具を見ていると、フェリスは泣きたい気持ちになる。

 ため息をつき、雨が止まないものかと窓を眺めた。遠くの空が明るくなっていることに気づいたフェリスが、思わず窓に駆け寄る。

「レティシア、もうすぐ雨が止むわ。晴れたら散策に行きましょう?」

 明るい笑顔を向けるフェリスに、レティシアは姉の顔で頷く。

 雨が降っていなければ外を歩き回る。それがフェリスの日課だ。雪の日にはしゃぎすぎて、レティシアともども風邪を引いたこともあった。

 遠くへ過ぎてしまった、一つ一つの出来事。思い出すだけで、レティシアの胸はふわりと温かくなる。

「フェリス様は散策がお好きですものね」

 刺繍道具を机の上に置き、レティシアはフェリスの隣に立って外を眺めた。

 雲の切れ間から、光が降り注いでいる場所がある。フェリスの言うとおり、じきに雨は止むのだろう。

「ある程度は体を動かさなくては、夜が寝つけませんしね」

 室内で座っているだけでは疲れない。

 レティシアはそう言いたかっただけで、他の意味や含みを持たせたつもりはなかった。

「……疲れて、怖い気持ちが薄れるなんてないわ」

「え?」

「どんなに疲れていたって、すんなり眠れたことなんてない!」

 何を言われたか理解できていない顔のレティシアに、なぜか無性に腹が立った。フェリスは考えなしに憤りをぶつける。

 冷静さをどこに置いてきたのだろう。そんなことを考える暇もなかった。

「明日目覚めるかわからなくて、夜眠るのが怖い。朝日の中で目が覚めて、生きていることを実感するけど、すぐに夜が怖くなる。そんな、死ぬ日を指折り数えて待っている毎日を過ごす私の気持ちは、レティシアにはわからないわ!」

 決して揺らぐことなどない。ずっと、そう信じてきたレティシアの瞳が、ゆるゆると悲しみの色に染まる。

 傷つけた。傷つけてしまった。

 逸らされないレティシアの眼差しに負けて、フェリスは無意識にソファの背に置いてあった自分のヴェールと額飾りをつかんで部屋を飛び出す。

 廊下を駆けながら、「フェリス・ガーランド」とそっくりなこの顔を見られてはいけないことを思い出した。隅で手早くヴェールを被って、額飾りで押さえつける。

(とにかく、レティシアから離れて冷静にならないと……)

 いくつか角を曲がった先で、フェリスは眩しさに目を閉じた。

 雨が止み、日が差している。

 誘われるように、フェリスの足は外へと向かっていた。


 離宮を離れ、近くの庭園を歩いているうちにフェリスの頭は冷えた。同時に、苦い後悔が湧き上がってくる。

(私は、レティシアにひどいことを言ってしまった……)

 彼女に、自分の気持ちのすべてが想像できないことなどわかっている。それでもレティシアは、少しでも感情を理解しようとしてくれているのに。

 初めて引き合わされた時、鏡を見ているような心持ちになった。王女として他者の前に出て振る舞えるよう、教育を受ける日々が続いてもレティシアは毎日笑顔を絶やさない。いつも明るい彼女に救われ続けてきた。

 国を守るため、[太陽の貴石]に願うよう頼まれた時は、落ち着くまでそばにいてくれる。眠るのが怖いと駄々をこねれば、一緒にベッドの中に入って、朝までずっと手を握っていてくれた。

(レティシアは、影武者なんかじゃない。私の姉であり、友であり、理解者よ)

 そんな単純な事実が抜け落ちるほど、レティシアの言葉の何が引っかかったのか。

 昨日は緊張を強いられた。今日は朝から部屋に閉じこもって、苦手な刺繍をしていた。自分でも気づかないうちに、鬱憤がたまっていたのかもしれない。

 浮かんだ考えに、ますますレティシアへの申し訳なさと後悔が強まる。

(戻って謝らなきゃ)

 言ってしまったことを後悔している。この先、レティシアがそばにいてくれなかったら、寂しくてたまらない。

 彼女に許してもらえるかどうかはわからないが、今の素直な気持ちを伝えよう。

 決心して踵を返したところで、人の気配を感じた。視線は額飾りを見ているようだ。

「誰?」

 問いかけた直後、気配は距離を詰めて。

 腹部に衝撃を感じて、フェリスは意識を引き止めきれずに手放した。


        †


 あんなことを、言わせるつもりはなかったのに。

 理解しているつもりでいた。でもそれは、ただの思い込みに過ぎなかったのだ。

 フェリスを傷つけてしまった。自責の念から、部屋を飛び出した彼女の後を追いかけられずにいる。

「私は、どう謝れば……」

 自問の声に答えてくれる人間はいない。

 悩んでいる暇があるならば追いかけるべきだ。頭ではわかっている。

 誰かに相談して違う答えが得られるのであれば。レティシアは迷うことなく、ライリーに相談する。だが、今回はわかりきっている答えをもらうだけだ。自らの意思で動く以外、解決する術などない。

(私は、フェリス様がどれほど夜の訪れに怯えていらっしゃるかを知っている。寝つけないと言った時点で、非は私にあった……)

 わかっているのに。フェリスに拒否されることを恐れる心に従う体が、動いてくれなかった。

 踏ん切りがつかない間に空の色は少しずつ変わり始め、赤みが強くなる。

 その時、控え目なノックとともに、レティシアの名を呼ぶヴィータの声がした。

「レティシア、いるか?」

(ヴィータ様? あ……では、フェリス様は今お一人に!)

 彼が席を外していたことを思い出し、レティシアの顔は青ざめる。

 フェリスを一人にしないと、ライリーにも約束したというのに。なぜ自分は拒絶を恐れて、彼女の後を追わなかったのか。追っていれば、一人にすることはなかった。

「お願いです、レティシアを探してください!」

 素顔をさらしたまま、ドアを開けたレティシアの蒼白具合。さらに、探している「レティシア」が室内に見当たらない。状況を察したらしく、ヴィータは迷うことなく[神眼]を使う。

 多くの人間は、壁などに遮られると[神眼]では見ることができなかった。しかし、フェリスの魂は、壁ごときが遮断できるような弱々しい輝きではない。そこに太陽があるのかと錯覚するほどの、強烈な光を放っている。

 グルリと一周する前に、ヴィータはフェリスの輝きを見つけた。

「いた!」

 光を目指して駆け出すヴィータを、レティシアは今度こそ躊躇うことなく追いかける。ヴェールを置き忘れたことなど、頓着している場合ではない。

 途中ですれ違ったライリーは、レティシアがヴィータに先導させていることで事態を察したのか。手の空いている紫騎士の招集にかかった。


        †


「レティシア!」

 ヴィータと、レティシアの声が聞こえた。きっとヴィータが、〔神眼〕の力を使ったのだろう。

 キィキィと耳障りな音を立てる引き戸がゆっくりと開き、ヴィータが飛び込んできた。彼の瞳は金色に光ったままだ。

「ヴィータ……ごめんなさい」

 駆けつけてくれて嬉しい。だが、迂闊な行動を取ったために、命を削らせてしまった。その事実が、あまりに申し訳なくて。どれだけ謝っても、許される気がしない。

 スッと、ヴィータの瞳がとび色に戻った。

「え……?」

 間の抜けた声を出して、ヴィータは硬直している。彼の後ろにいるレティシアが目を見開き、両手で口元を覆う。外から、駆けつけてくる大勢の足音が聞こえる。

 ヴェールのない今、言い逃れることはできない。じきに到着する紫騎士団の面々にも、すべてを知られてしまうだろう。

 だが、それでいいと思えた。

「レティシア!」

 必死の表情で名を呼んでくれるレティシアに、フェリスは笑みを返す。

 こんな時でさえ我を忘れない彼女には、尊敬の念を抱いてしまう。

 バタバタと響く足音が止まり、紫騎士団が到着した。先頭のライリーは眉根を寄せただけだが、団員たちは一様に口を開け、呆然とフェリスを見ている。

 粗末な椅子に縄で縛りつけられている彼女のそばには、覆面の男が立って短剣を突きつけていた。下手に動けば即、彼女は刺されるだろう。

 状況もだが、彼女の顔にも目を見張る。

 真っ直ぐに流れ落ちる長い髪。大きな瞳は、わずかに目尻が上がっている。ふっくらした唇は薄く開き、緊張に頬を強ばらせていた。

 就任式での拝顔は記憶に新しい。彼女は、「フェリス・ガーランド」に似すぎている。

「どちらが、フェリス様なんだ……?」

「捕まってるのがレティシアだ」

 誰かの呟きが、事実を知らない者たちの心を代弁した。それに対し、ヴィータが断言した言葉を、紫騎士たちは信じるしかない。

「ふむ……あまりに素顔が似ているから迷っていたが、やはりこちらが侍女か」

 覆面の男は低く笑う。ヴィータが苛立ちを露骨に出すが、動くことはできなかった。

「さて、フェリス王女」

 男がレティシアに向かって声をかける。レティシアは「何でしょうか」とだけ返し、相手の出方を待つ。

「この国の、永遠の豊かさを願ってもらいましょうか」

「……つまり、あなたは私に、この場で祈りを捧げて死ねと言うのね」

 相手の望みを乱暴な言葉で繰り返しながら、レティシアはフェリスを見る。彼女は数回、首を横に振った。

 意味はわかっている。だが、そのとおりに行動したら。

 いや、どちらにしても、フェリスの命は。

「スウィーニー王国のために使うのであれば、後悔はしません。けれど、こんな国のために命と引き替える願いは、私の中に存在していません!」

「かわいそうな侍女だな。命を惜しんだ主の代わりに、あんたが死ぬんだ」

 言うが早いか、男は短剣をフェリスの左脇腹辺りに刺した。引き抜いた短剣を手に、男はサッと身を翻す。

「いやぁ──っ!」

「追え!」

 レティシアの悲鳴が上がる。ライリーがとっさに叫んだ命令に、足に覚えのある者が数人駆け出した。

「フェリス様!」

 思わず叫び、レティシアはフェリスに駆け寄る。

 王女たる者、常に冷静であれ。失態を見せるな。絶対に、影と気づかれるな。

 レティシアの頭の中を、意識に染みついた言葉が巡る。それでも、フェリスの名を呼んでしまう。

 刺された場所から、白いエプロンが違う色に染められている。首を前に落としたまま、フェリスは身じろぎ一つしない。

 震える手でロープをほどこうとするが、うまくいかない。焦るレティシアの代わりに、ヴィータが剣でロープを切る。崩れたフェリスの体を抱き止め、ヴィータは彼女を床に横たえた。

「フェリス様! しっかりしてください、フェリス様!」

 肩を軽く揺すってみるが、目は開かない。

 ボロボロと涙をこぼし、レティシアはもう一度フェリスの名を呼ぶ。

「なぁ……どっちがどっちなんだ?」

 落ちてきた声を振り返ったレティシアは、何かを思い出した顔で見つめた。

「ヴィータ様、お願いです。どうか、どうか、フェリス様を助けてください!」

 以前、ライリーから聞いたことがある。

 〔神眼〕は魂の色を見るだけではない。相応の命を削られるが、誰かの傷を別の人間に移すことができる、と。

「……俺に、〔神眼〕を使って後始末をしろってことか?」

「ええ。本来は私が失うはずだった命を、フェリス様にお返ししたいのです。あなたも、騎士の誓いを立てながら果たせなかったでしょう?」

 卑怯なところをついたと思う。だが、そうする以外に、ヴィータに力を使ってもらう方法が思いつかなかった。

 グッと眉を寄せ、渋面になるヴィータに、レティシアはもう一度頼み込む。

 彼の視線が、呼吸の浅いフェリスに落ち。

「……わかった」

 承諾の言葉を聞いたレティシアは、すぐさまフェリスの隣に寝転がる。急に傷ができた痛みで意識を失った時、フェリスの上に倒れたくなかったのだ。

「〔神眼〕よ、フェリス王女の傷を、レティシアに」

 金色に光る瞳が、フェリスとレティシアを見つめる。とたんに、レティシアの左脇腹辺りが鋭く痛み出した。そこから、温かな何かがあふれていく感覚もある。絶え間なく襲う痛みに、意識を手放したくてもできない。

「レティシア! しっかりしろ!」

 ヴィータの呼び声に、フェリスの口からため息がこぼれた。

「……ヴィータ?」

 体を起こそうとしたが、激しい眩暈で断念する。

 左脇腹に手を当てると、服に穴が開いて、周辺がじっとりと濡れていた。

 刺されたことは夢ではない。痛みも確かに感じていた。だが、今は痛みも、血の気が引いていく感覚もない。

 首を左右に動かし、左側にレティシアがいると気づいた。

「まさか……」

 眩暈がする、などと言っていられない。

「レティシア!」

 彼女の名を呼び、強引に体を起こす。一瞬視界が白くなり、倒れかかったところをヴィータが支えてくれた。

 思わず、彼の手を払いのける。そのまま、ヴィータにつかみかかった。

「〔神眼〕の力を、使ったのね」

「ああ……彼女の希望だ」

「私は望んでいないわ!」

 事実を知っている者たちにとっては、確かにレティシアは影だ。だが、どうして彼女が、負っていないケガまで引き受けなければならないのか。しかも、関係のないヴィータの命を削ってまで。

 そっと触れたレティシアは、まだ息をしている。

「レティシアのことだから、私を守れなかった自責の念で行動したんでしょうけど……私を思うなら、もう少し考えて欲しかったわ」

 右手で、服ごと〔太陽の貴石〕を握った。その上に左手を重ね、強く強く願う。

「〔太陽の貴石〕よ、レティシアのケガを治してくれるなら、私の命を好きなだけ持っていきなさい!」

 いつもは、最低限でお願いします、と頼む。でも、レティシアのためならば、明日の朝目覚めなくとも後悔はしない。

 フェリスの手から金色の光がこぼれる。その光に照らされたからか、瞳が金色に輝く。

 彼女の手を離れた光は、レティシアの傷へと吸い込まれた。

 淡いオレンジ色のドレスに広がっていた染みが、動きを止める。

「レティシア」

 そっと呼びかけた。ジッと待っていると、ゆるゆるととび色が覗き。

「……フェリス、様?」

「そうよ。私にこの国で貴石の力を使わせるなんて、今夜はお説教よ!」

 唇を尖らせて言い放ち、フェリスはレティシアが体を起こすのを助ける。起き上がりながら、レティシアの表情は沈んでいく。

「私が、フェリス様を一人にしたばっかりに……申し訳ありません」

「私だって、つまらないことで怒って部屋を飛び出したんだもの。レティシアだけが悪いんじゃないわ。ごめんなさい、レティシア」

 次いで、フェリスはヴィータを見上げる。ヴェール越しや、遠目に見ていた時は気づかなかったが、彼はずいぶん背が高い。

「命を削らせてしまって、ごめんなさい」

 軽く頭を下げると、ヴィータの苦笑いが聞こえた。

「いや、あんたのためなら惜しくないさ。それに、騎士の誓いを守れなかったのは俺なんだ。どうせなら、俺に傷を移せばよかったって思ったしな」

 頭をポンポンと優しく叩かれ、フェリスは顔を上げる。

 大がかりな力を使った直後とは思えない、ヴィータの穏やかな微笑み。今フェリスが感じている、爽快な気分を彼も抱いているのかもしれない。

 彼の笑みにつられたように、フェリスも微笑んでみせる。そのまま、ほとんどが茫然自失となっている紫騎士だちに向き合う。

「長らく、あなたたちに顔を見せずにいました。多くの大切な者を作るのが怖かった、私は臆病者です。だましていたと、軽蔑されてもかまいません」

 誰かが小さな声を出した。それを遮るために、フェリスは再び口を開く。

「今からでも遅くないと言ってもらえるならば、私は、あなたたちの主になりたい。これからは、逃げずに、前を向いていたいと思っています」

 パン、と手の鳴る音がした。触発されたのか、次から次へと音が広がり、大きな音が建物内に響き渡る。

 ヴィータも、レティシアも、ライリーも、紫騎士たちも。笑顔で拍手していた。

「我々が守るべきは、フェリス王女だ。そして、王女の大切な侍女も」

 ライリーの宣言を聞き、フェリスの頬にしずくが筋を作る。

 感謝の意を込めて、今度は深く頭を下げた。



    五


 血のついた服が目立たぬよう、日が落ちる直前に離宮へ戻った。湯で体を流し、新しい服に着替えたフェリスは、ライリーから報告を受ける。

「残念ながら、フェリス様を刺した男には逃げられました」

「そうでしょうね。声を頼りにしようにも、布でくぐもっていたから……断言できる自信はないわ」

 命が完全に無事だったとは言えないが、死人は出ていない。今回は、勉強と思って諦めるのが無難だろう。

「あー、見つけるだけなら、〔神眼〕で見ればわかるかもしんないけど」

「そのために、手当たり次第見てもらうのは悪いわ。だいたい、通りすがりの雇われ者で、とっくにお払い箱になっているかもしれないのよ? それに、目の色はどうやってごまかすつもり?」

 見つかるかどうかわからない者を、他人の命を奪ってまで探す気にはなれなかった。そんなことをするくらいなら自分の命で復讐するが、もったいないからやらない。ただそれだけだ。

 つらつらと並べ立てると、ヴィータが苦虫を噛みつぶした顔になる。

「王女様つきとはいえ侍女だから、得体の知れない相手には言い過ぎるくらいに言ってんのかと思ってたんだけどなぁ……」

「それは違いますよ」

 フェリスが文句をつける前に、レティシアが口を挟む。

「私が知る限り、フェリス様は私とライリー様、それからご兄弟にしかこんな話し方はしません。信じていい人間と思っているからこそ、本音をぶつけてくださるんです」

 レティシアは笑顔でとうとうと語る。

 苦手なもの、怖いこと、好きなもの。十年近く一緒にいるから、互いのことは熟知しているつもりだ。それが自信となって、レティシアの笑みを輝かせていた。

「報告は以上です。進展がありましたら、翌朝にでも報告に参ります」

 苦笑いを添えて一礼し、退室するライリーを見送る。

 手持ちぶさたなのか、ヴィータが左手を髪に突っ込んで動かす。

「ちょっといろいろ確かめたいんだけどさ」

「何が聞きたいの?」

 視線をフェリスたちから外し、何から聞くかを決めているようだ。

「えーっと、まずは基本的なとこで、俺がレティシアって呼んでたのは、実はフェリス王女だったんだよな?」

「ええ、そうよ」

「んじゃあ、これからはフェリスって呼ぶから」

 ヴィータの言葉に戸惑い、フェリスは非難の声を上げる前に固まってしまった。

「それから、フェリスが選んだ俺の徽章……これってさ、どういうもんなわけ?」

 当たり前の顔をして、名を呼び捨てる。王女と知っても、口調は改まらない。そんな些細なことが、泣きそうなくらいに嬉しくて。

 声が震えてしまわないよう、こっそり深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

「……ちょうどレティシアと会った頃ね。母様みたいなブローチが欲しいと駄々をこねて、作ってもらったのよ。その頃は毎日つけていたわ」

 話しつつ、ヴィータの襟元に光るブローチを見上げた。渡した時より、ずっと綺麗になっている。

「大事にしてくれて、ありがとう」

 フェリスがお礼を言ったとたん、ヴィータは横を向く。気のせいか、彼の頬が淡く色づいているように見えた。

「お茶を淹れ直してきますね」

 言いながら、レティシアはなぜか廊下へ出ていく。

 設えられた簡易キッチンと、いなくなったレティシアを交互に見ていたフェリスは、不思議そうに首を傾げた。

「お茶だったらそこでも淹れられるのに、どうしたのかしら?」

「さあな」

 ヴィータもわからないらしく、呆れ顔で肩をすくめている。

 厨房まで行けば、帰ってくるまでいくらか時間がかかるだろう。その間、ヴィータと二人きりなのだと、今さらフェリスは気づく。

 とたんに、頬が熱を帯びた。

「そーいやさぁ」

 いきなり顔を覗き込んできたヴィータに驚き、フェリスの口から小さな悲鳴が漏れる。

「あんたの色が紫の理由、知ってる?」

「え? いいえ」

 首を横に振るフェリスに、ヴィータは「ふーん」と呟いてニヤリと笑う。

「あんたさ、二月生まれだったよな?」

 今度は頷く。

 フェリスの兄弟たちは、それぞれが負う役目に従って色が決められている。次の王になる長兄は赤、補佐する次兄は青で、弟は黒だ。各々が、フェリスと同様に騎士団を有している。

 だが、フェリスの色である紫は、何人の男児が生まれようと関わらない色だ。

「二月生まれの守護宝石ってのがあってな、それが紫水晶なんだと」

「……え?」

「昔の詩の中にさ、二月生まれは紫水晶身につけて、激情と不安から解放されろ。誠実と心の平安を手に入れろ。持ち主がこの宝石を大事にすれば、争いと不安から逃げられる、ってのがあんだよ。もちろん、他の生まれ月のも書かれてる」

 聞いているうちに鼓動が速くなり、耳鳴りがしてきた。頭がクラクラして眩暈を覚え、真っ直ぐ経っているのかどうかがわからなくなる。

 争いごとや不安からは、死ぬまで逃げられない。〔太陽の神子〕となったこの身を、両親は少しでも守ろうとしてくれたのだ。

「ちなみにその詩、結構知られててさ。俺ももちろん、騎士はたいてい、自分の誕生月の宝石持ってんだ」

 言いながら、ヴィータは剣の鍔を見せてくれた。左右の狭い面に、淡い緑色の宝石が一つずつはめ込まれている。

「それからもう一つ。あんたの侍女なんだが」

「レティシアがどうしたの?」

「あいつの魂な、紫水晶と同じ色なんだよ」

 思いがけない言葉に、声が出なかった。両手で口を覆い、浅くなった呼吸を必死で戻そうとする。

「あんたのそばにいるべくしているんだろうから、大事にしろよ?」

「そんなこと……っ!」

 言われなくてもわかっている。

 返したいのだが、声が詰まって続けられなかった。代わりに、何度も頷いて意思を表明してみる。

 ニカッと笑ったヴィータが、頭を少しだけ乱暴になでた。何度も何度も。

 急に胸がいっぱいになり、鼻の奥がツンと痛む。泣きたいわけではないのに、苦しさと痛みで視界がぼやけてしまう。

「……と、そうだ。この際だし、あんたの名前にもっかい誓い直すか」

「わざわざ?」

 楽しげなヴィータにつられて、フェリスの頬が緩む。

「俺の魂まで、全部あんたにやるよ。そん代わり、俺が死ぬ瞬間まであんたの騎士でいさせてくれ。もう二度と、無様な真似はさらさねぇから」

 表情を改めたヴィータの言葉に、黙って頷く。

 声を出したら、泣いてしまいそうだ。

 俯いていると、いきなりドアが大きな音を立てて開けられた。

「フェリス様、お茶をお持ちしました」

「あ、ありがとう、レティシア」

 目をこするフェリスは、目だけが笑っていないレティシアに気づかない。振り返ってしまったヴィータだけが、顔を引きつらせている。

「まだ神経が高ぶっているでしょうし、ハーブティーにしてみました。あ、ヴィータ様も飲みます?」

 ササッとソファに座るフェリスと、視線が「早く帰れ」と言っているレティシア。

 二人を交互に見てから、ヴィータは左手で頭をかいた。

「なんつーか、妙な疎外感があるのは俺だけか?」

「何を言っているんですか?」

 聖女の微笑をたたえるレティシアの口が動く。

「ヴィータ様は邪魔者ですから、当たり前ですよ」

「……なーるほどな。フェリス王女がレティシアを名乗ってる時の態度は、本物にならってたってわけか」

「え? 最初は、胡散臭いから警戒していただけよ。顔は全然見えないし、従騎士だってこともよくよく見てからわかったんだもの」

「あー、つまり、二人とも素でそれってわけか」

 頭をかきながら、ヴィータはため息の後に苦笑をこぼす。

 レティシアと顔を見合わせて笑みを交わし、フェリスはもう一度ヴィータを見た。

(あなたは、私だけの騎士……)


        †


 帰国後、フェリスは広間で誓いの儀式をやり直した。

 真偽のわからない騎士たちだから。そんな理由で近づかないのではなく、自分を見せて覚えて欲しいと思ったのだ。

「私は、今まであなたたちをだましていました。ごめんなさい。もし許してくれるのならば、この場で、あなたたちを紫騎士として任命させてください」

 頭を下げて謝罪し、騎士たちの反応を待つ。

 沈黙が、息苦しい。

「私は、今も昔も、あなたに騎士の誓いを捧げていますよ」

 穏やかに告げる声はライリーのものだ。

「あ、あのっ、正直に言っちゃうと、どちらでも美人なんで。オレ、紫騎士でラッキーって思ってたんですよね」

「お前もかよ!」

 誰かの本音と突っ込みに、場が笑いの渦に包まれる。

「我々一同、フェリス王女の紫騎士に志願します!」

 少しばらけていたが、全員が同じ言葉を口にした。まるで、最初から決めていたように。

 喜ばしくて、視界がにじんだ。

(泣くのは、後でもできるわ)

 気を引き締め直し、フェリスは居並ぶ騎士たちをしっかりと見つめる。

「……あなた方を紫騎士に任命します。紫騎士たるもの、人を裏切ることなく、欺くことなく、弱者には優しさを忘れず、強者には勇敢に立ち向かい、礼儀正しく、誠実さと謙虚さを持って、常に騎士としての品位を高めなさい」

 レティシアが出るようになってからも、練習は欠かしていない。

 「フェリス・ガーランド」に戻ることもあるだろうからと、儀式の時は隠れて、心の中で呟いてきた。

 やっと、彼らが自分の騎士団なのだと、実感できるようになったのだ。

 長いつき合いにはならないだろう。それでも、彼らに主として誇ってもらえるように、生きていきたい。

 正面に立つヴィータを見つめると、自然と笑みが浮かぶ。

「我らがフェリス王女に幸あれ!」

 紫騎士たちが剣を抜き、天井に向けて突き上げた。

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