川の向こう側
私はそこそこ大手の機械設計会社に勤めている。もちろん妻もいる。子供はいない。
私の趣味はクルマだ。
学生の頃から無理をして軽自動車を買って、大学の入門証でキャンパスに立ち入り駐車場代わりに使っていた。妻とはその頃に知り合った。だからクーラーのない灼熱の夏の車内を一緒に経験している。当時はクルマに乗るだけで楽しくて夜な夜なドライブしていた。
その後、いわゆる普通車というか小型車に乗り換えた。今でも名車といわれるスポーツカーだった。その頃に彼女と結婚した。
そしてモータースポーツにはまって専用車を買ったり、その反動で大きめのサルーンを買ったりした。
ここまで私はなんの迷いもなくずっと国産車を乗り継いできた。
ひょんな事がきっかけて、ある友人が出来た。彼は数台のクルマを持っていた。どれも輸入車だった。私はいろいろなクルマを運転させてもらった。目から鱗が落ちた。「こうもちがうものか」と。
クルマは総合産業だ。つまり「国のあり方」がわかる。
その感覚が面白くて、私はいろいろな国のクルマに乗ることになる。
フランス車は牧歌的だ。どこか大らかだ。
イタリア車にはパッションを感じる。伊達なクルマだ。
イギリス車にはバックビルダーの意地を感じる。細かい品質を追求してはいけない。
アメリカ車には砂漠の銃撃戦を。銃撃を受けてもアメリカ車は走り抜けそうだ。
ドイツ車にはゲルマン民族の誇りを感じる。自分たちにしか出来ないだろうという自信を感じる。
いろんなクルマに乗ってきて、今はポルシェに落ち着いている。もう4台も買ってしまった。
ポルシェのどこがいいかを論じても仕方ない。ただ自分に合っているというだけだ。
今乗っているポルシェはポルシェ911タイプ997という比較的新しいモデルだ。クルマには何の不満もない。そう、何の不満もないことが不満なのだ。997はよく出来たクルマだ。よく出来過ぎている。それだけに「もっと古い未完成だった頃のポルシェってどうだったんだろう」と思ってしまう。「もっと古い」とはポルシェの場合「空冷エンジン」のことを言う。
すると、空冷ポルシェが欲しくてたまらなくなる。私は「最後の空冷」ポルシェ911タイプ993が好みだ。それでも最終型が1997年だから15年も前のクルマだ。
「新しいポルシェを売って15年前のポルシェを買う」とはなかなか家内には言い出せなかった。
雑誌をリビングにいっぱい置いて「暗黙作戦」だ。
「だめよ、新しいクルマは。」
私は内心「新しいんじゃなくて古いんだけど」と反論したもののこの作戦は失敗だ。
さて次は「友人作戦」だ。「空冷」に乗っている友人達を自宅に招いて盛り上がった。これも大失敗で「そりゃ、自分のクルマが一番でしょうよ。」ってな具合だ。
結局正攻法しかないと、家内に切り出した。
「ポルシェ、買い換えたいんだけど。」
「わかってたわよ。正直に言えばいいのに。」
「で、新しいのにするの。」
「いや15年前のヤツ。」
「そんなの動くの。」
「動くに決まっているじゃないか。」
ここで私の「空冷」に関するレクチャー。
「よくわからないけど、要するに今の快適なポルシェよりその古いポルシェの方が乗ってて幸せなのね。」
「少なくとも僕はね。」
「助手席は快適じゃないってことよね。」
「・・・」
「まあいいわ。好きにしなさい。その代わり後悔しないようにね。」
懇意にしている営業マンに993を頼んだ。
数ヶ月後にかなり程度のよい個体が見つかった。しかし、その分予算を大幅にオーバーしていた。私は躊躇したが、ここで断れば他のお客さんが買うのは明白だ。家内には事後承諾を得るとして、私はその場で判をついた。
家内に報告すると、家内は寛容だった。
「欲しいものなら買えばいいのよ。そこでケチっても後悔するだけよ。」
私は、晴れて993のオーナーになった。今時「空冷」に乗るなんて、かなりのポルシェフリークだ。自分にとっても5台目のポルシェだ。誰が見てもポルシェ通だろう。
休みの日にワインディングロードを走るのが至福の時だ。しかし街乗りでも楽しい。だから私は通勤にもこのシルバーのポルシェ911タイプ993を使っている。
私の自宅と会社の間には大きな川があって長い橋がかかっている。その前後には信号が連なっているので、通勤時間帯にはどうしても渋滞になる。
私が橋の上の渋滞につかまっていると、対向車で黒のポルシェ991タイプ997がやってきた。すれ違いの一瞬だったが、若い女性が運転しているようだった。目と目が合った。
「あの997って・・・」と私は思った。
「古いクルマね」と彼女は思った。
その後も通勤時によく見かけるようになった。その度に、目と目が合って、
「あの997って・・・」と私は思った。
「古いクルマね」と彼女は思った。
彼女は大手アパレル会社に就職していた。ここなら好きな服が作れると思った。
しかし実際には、ネームバリューや利益率が優先され、他のブランドとの棲み分け、実用性より見栄え重視等々いろんな要因で、彼女は自分の作りたい服が作れなくなってしまっていた。彼女は一念発起して30歳を前に28歳で会社を辞めて独立した。
独立したといっても暗中模索の状態が続いた。気がつけば30歳をとっくに過ぎていた。
会社といっても従業員は5名。それでも月々の給与の支払いに走り回っていた。
「これが自分のやりたい事だったのか」自問自答の日々だった。
そんな矢先、両親から連絡があった。
「もう会社の方は十分に頑張ったのだから、そろそろ・・・」
会社をたたんで結婚しろと言う。300万円が入った通帳も送られてきた。
会社の運転資金に使いたかったが、これは私個人にもらったお金なので我慢した。
自分の信念が揺らぎそうになった時、彼女はある人物と出会った。
その人物は、中堅どころのファッション雑誌の編集長だった。彼女の会社もうち同様に経営は苦しそうだった。
「あなたのところの服、いいわよね。極端に流行を追い求めない堅実なOLさんに着て欲しいわよね。」
「はい、それがコンセプトです。ありがとうございます。」
「もちろんうちの雑誌には掲載させてもらうけど、もっと大手の雑誌にも推薦してあげるわ。」
「本当にありがとうございます。」
「そうそう、あなた社長さんよね。」
「はい、恥ずかしながら。」
「だったら、自分にプレッシャーかけてる?」
「えっ。」
「人間はプレッシャーや自分を追い込む何かがあってこそ本来以上の能力を発揮するものなの。」
「私には、会社の経営自体がプレッシャーなんですけど。」
「それは社長なら当たり前。あなたにとってのプレッシャーって何かしらね。」
「はぁ。」
この時の彼女は編集長のいうアドバイスの意味が全く理解出来なかった。
編集長の働きかけもあって、彼女の作品は少しずつ雑誌に載るようになった。
今日も、その作品の撮影だ。モデルを使って背景もしっかり作り込んだお金のかかった撮影だった。
今日は背景にクルマを使う。アパレルでは服が映えるように白か黒のクルマを使うことが多い。今日は黒の左ハンドルの外車だった。
「このクルマ何ていうの。」と脚立からクルマ全体を見渡している照明の子に聞いた。
「えっ、知らないんですか。ポルシェですよ。ポルシェ。ポルシェの911。」
「これがポルシェ。」
「高いの。」
「たぶん新車で1000万。中古でも500万円くらいかな。高嶺の花ですよ。」
「ふーん、500万ねぇ。」そう言いながら、彼女はクルマの周りを何周も廻った。
その後、ポルシェ911のシルエットが頭から離れなくなった。リヤエンジンとかは知らないけど独特の美しさがあった。シンプルな面の張り方が気に入っていた。
知り合いで最もクルマに詳しいカメラマンに、
「黒い911のオートマでなるべく新しくて500万位の探して欲しいんだけど。」
「なんか欲張りな注文ですね。いいですよ。馴染みの営業マンに頼んでおきます。」
彼女は赤いセリカに乗っていた。
「赤いクルマだから赤字。で黒のポルシェにしたら黒字。そんな安直な、ねぇ。」
1ヶ月ほどでクルマが見つかったという。
「ちょっと予算オーバーなんですけどね諸費用込みで600万円だそうです。」とカメラマン。
「100万円オーバーは痛いなぁ。」
「でも中古車は出会いですから、まずは見に行きましょうよ。」
彼女はクルマ屋に行って、その997に試乗して購入を決めた。
支払いをどうするか。その時、あの編集長の言葉を思い出した。
「自分にプレッシャーをかけるんだ。」
もちろん親からの300万には手をつけなかった。これはやがて返すつもりでいるお金だ。
結局、なけなしの貯金を頭金にして1年でローンを返済することにした。月々約50万円の支払いになる。彼女の会社にそんな余剰利益はなかった。毎月ギリギリ黒字の状態だ。
「私が会社を黒字にして、さらに50万稼げばいいだけよ」
昔は「自分の会社は小さいから」と、種々雑多な仕事をもらってきた。しかしポルシェを買ってからは、工房にも名前をつけ、自分のコンセプトにあう仕事だけを選ぶようになった。結果的に売り上げは倍増した。そしてその斬新なコンセプトはしばしばメディアに取り上げられるようになった。ポルシェのローンは順調に減っていった。
服だけではなく、彼女自身にもメデイアは注目した。
今日は、彼女の黒いポルシェをバックに小洒落たカフェ仕立てでのトーク番組だった。
現場にはあの編集長がいた。
「最近頑張っているわね。評判もいいわよ。」
「ありがとうございます。ここまで来れたのは編集長のおかげです。」
「それは言い過ぎだけど、いいプレッシャー見つけたわね。」
「はい、あのポルシェのおかげです。」
「そうね、福の神ね。で、あのポルシェって中古だったのよね。」
「ええ。」
「前のオーナーにとっても福の神なら、このポルシェすごいわよね。」
彼女の自宅と会社の間には大きな川があって長い橋がかかっている。その前後には信号が連なっているので、通勤時間帯にはどうしても渋滞になる。
彼女が橋の上の渋滞につかまっていると、対向車でシルバーの古いポルシェ911がやってきた。すれ違いの一瞬だったが、中年の男性が運転しているようだった。目と目が合った。
「古いポルシェね」と彼女は思った。
「あの997って・・・」と私は思った。
その後も通勤時によく見かけるようになった。その度に、目と目が合って、
「古いポルシェね」と彼女は思った。
「あの997って・・・」と私は思った。
彼女が休みの日にクルマ屋にオイル交換に行った。
クルマをあずけて、店内に入ると、ソファーには毎朝見慣れた顔が。
「どうも。」
「どうも。」
話が進まないのをみて営業マンがお互いを簡単に紹介してくれた。
私は、彼女の997が私の乗っていた997か確かめたくて整備場に行った。私がメモしていた個体識別番号と一致した。懐かしさがこみ上げてきた。
一方、店内では、彼女が営業マンに
「私の997の前のオーナーさんって彼じゃないですか。」
と単刀直入に聞いた。
営業マンは、
「そうですよ。」
と教えた。
ふたりはそういう関係だったんだ。
彼女は整備場から戻ってきた私に尋ねた。
「ぶしつけですが、あの997に乗っている間に何かいいことありました。」
「うーん、いいことねぇ。」
「そう言えば部長昇格しました。でも死ぬほど働いたから、いいことなのかなぁ。」
「努力は必ず報われる、ってことなのかなぁ。」
彼女はこの997を買う前と買った後のことをかいつまんで話した。
「あなたはどうしてこんなにラッキーな997を手放したのですか。」
「私にとってのラッキーは終わったんですよ。今はあなたがラッキーの番。」
「自分にとってのラッキーが終わったってどういう意味ですか。」
「私はこの997を手放して993を買いました。私にとって997の役目は終わったのです。」
「でも、こんなラッキーな997を手放すなんて、私には信じられません。」
「だから、そう感じるあなたの元に997は今いるんですよ。」
「じゃあ、やがて私も手放すと。」
「それはあなた次第でしょう。手元に大事に置くもよし、次の人に回すもよし。その時期が来ればわかります。」
「ポルシェって不思議ですね。」と彼女。
「でしょう。」私と営業マン。
彼女の997のオイル交換が終わった。
昼時だし、私は食事に誘ったが、彼女は取りかかった仕事が気になるから会社に戻るそうだ。
私はワインディングロードでも楽しもうとしよう。
「明日から黒い997を見る目が変わるな。」
彼女は会社に向かいながら、
「明日からあの古い911を見る目が変わるわ。」
明日も橋の渋滞が待っている。