【八話】 誓いの口付け
アドリーヌにも、彼女と一緒にいるリュシアンにも会いたくなくて。入り込まなければそんなスペースがあることさえ気づかないような、庭の隅で座り込んだままじっとしていた。
どれくらい、そこから動かないでいただろう。
つい寝入ってしまっていたらしく、ミミは赤みを増した空を見てため息を零す。分かりきっていたことで、ショックを受けるなどありえない。そんなことを思い、またため息を一つ。
これから先に、何度もこういうことはある。
慣れなければやっていられない。
「……愚か、じゃな」
荷物から取り出したのは例の紐飾り。色とりどりの花が咲き誇る、綺麗な婚礼衣装。ささやかなミミの本音を代弁する、けれど決して伝わらないもの。
作る意味など無かったのかもしれない。
そんなことを思った瞬間。
「……」
かさり、と草を踏む音がして、見上げた先に――リュシアンがいた。ミミが隠れていたのは庭の隅っこだから、偶然やってきたわけではないだろう。
それに彼は知っている。
何かあるとミミがここに隠れているのは。
幼かった彼に、ここを紹介したのは他ならぬミミだったから。
言い返せない、というのは案外悔しい。呪われた王子、と謗られ、でも言い返す声をなくした彼は一人で耐えるしかなかった。ミミは彼に、ひとりになれる場所を紹介した。
それがこの、庭の隅にある茂みの奥の小さな空間。
おそらく二人しか知らないであろう、秘密の場所だった。
いつもの場所にいない時、ミミはだいたいここにいる。空の感じからして夕食の時間が迫っているから、リュシアンは探しに来たのだろう。夕暮れなのに姿を見せないミミを案じて。
それに関してはありがたいと思う。そして申し訳ないとも思う。
だけど同時に、隠し切れない焦りも生まれた。
「りゅ、リュシアン、これは、その」
「……」
彼は、ミミの手の中にある紐飾りを見ている。じっと見ている。凝視している。何か気に障るものだったのだろうか、と不安になってミミがうつむくまで、ずっと睨むように見ていた。
ふ、と自分に影が落ちるのに気づく。
見上げるといつの間にか、リュシアンがずっと近くに立っていた。
リュシアン、と声をかける前に、抱きしめられる。上から圧し掛かるように。苦しくて、彼の背中に腕を回したら、なぜか抱きしめる力が余計に強くなった――ような気がする。
しばらくじっとしていると、ゆっくりと開放された。
と、思ったのだが。
「えっと、あの……」
リュシアンは、ミミが手にしていた作りかけの紐飾りに触れてきた。
この国では珍しかったのだろうか。
手渡すと、リュシアンはしげしげと眺め始める。飾りつけはまだまだだが、今すぐにでも使える程度には完成していて、幸いだった。不恰好なものを、彼に見せずにすんだ。
まぁ、そもそも見られたくはなかったのじゃが、とミミが心の中でぼやいていると、ふと頭に奇妙な重みが加えられる。続いて、獣の耳に走る、くすぐったいような感覚。
そして何かを頭に載せるような体制の、リュシアンの姿。
「な……」
彼はおそらく、見ているうちにわかったのだ。
これは獣人族が身につけるもので、輪を耳に通すのだと。
ミミにぴったりなサイズを見て、彼はどこか満足そうに微笑む。
だが、身に着けさせられた方はたまったものではない。いや、元々こうやって身につける予定だったが、それなりの準備というものがある。ヴェールも無ければドレス姿ですらない。
しかしリュシアンはヴェールを払うように、ミミの頭部に手を添える。そして、それに驚いた彼女が彼を見上げた瞬間に、その手を後頭部へと滑らせながら、一気にミミを抱き寄せた。
上へ――掬い上げるかのように。
何をされたのか、ミミは一瞬どころか数秒ほど理解できなかった。やたらリュシアンの整いきった顔が、視界の中に広がっている。唇に何か、やわらかい物が触れている。
背中に彼の腕が回っている。
後頭部にあった手が、いつの間にか背中を這っている。
というか、唇をみっちりと塞がれてしまって、どうにも息がし辛い。
そこまでじっくり考えて、ゆっくりと二人の間に距離が生まれて――やっと。
「……きす?」
そう呼ばれるものをされたのだと、認識した。
おかしい、とミミは思う。なぜそんなことをされるのか、わからない。されるような誘い文句を言った記憶も無い。そもそもそんな雰囲気でもなく、関係ですらなかったはずだ。
そして、彼がそういう行為をいたす相手に、困っているわけもない。彼がその気になればアドリーヌにせよ噂の男爵令嬢にせよ、それこそ侍女でさえ異のままに『使える』はずだ。
みんな、喜んで『使われて』くれるだろう。
そう、この化け猫姫――十六歳の彼の妹よりずっと貧相な身体をしている、自分を相手にするわけが無いのだ。まさか、そういう嗜好なのだろうか。幼くなければいけないという。
いや、いや、今は彼の個人的な好みは置いといて。
だんだん冷静になってきたミミは、大きく息を吸い込んで。
「なっ、何をするのじゃ!」
叫ぶと、リュシアンは不思議そうにミミを見る。
どうして怒るんだ、とでも言いたそうに。
どこか縋るような目で、ミミの中にある怒りのような感情が少し鈍りそうになる。だがここは心を鬼にして、しっかりと言い聞かせないといけない。彼の今後のためにも。
「そんな顔をするなっ。よいか、こういうのは、とてもとても重要なものなのじゃ。むやみやたらと振舞っていいものではないのだと、まさか知らなかったわけでもなかろうが!」
そう、キスというのはとっても重要なものだ。
結婚式では誓いの儀式となるし、それ以外でもありとあらゆる愛を示す行為。
初めてのそれを奪われた、という悔しさはあるが、まぁ、相手がリュシアンだからこれはこれでよいかな、という気持ちはかすかにある。ミミ的には断固として認めたくは無いが。
「ワシなのではなく――そうじゃな、そのうち現れる花嫁にでもしてやれば」
いいのじゃ、と言いかけた唇をまたふさがれた。
二度目なので容赦なく、全力で逃げようともがくミミ。しかし体格の差は彼女の逃亡をことごとく無力化した。もがくほど疲れるばかりで、意識がくらくらとしてくる。
ようやく開放されたと思ったら、また痛いぐらいに抱きしめられた。
腕の中に、閉じ込められるような感覚がある。どこか潤んでみえる彼の瞳の中に、その澄んだ緑色には似つかわしくない炎が見えた。赤く煌々とした、光を。
「うぅ……お前が何をしたいのか、ワシにはわからん」
ただの戯れなのか。それとも『本気』なのか。
彼の本意がわからなくて、ミミはひたすら戸惑っていた。