【三話】 恋する猫
数年ぶりの再会に、ミミはしばし何も言えなかったことを、今でも覚えている。
頭の中に残っているリュシアンは、どこか大人しくて華奢な子供だった。再会すると、自分など軽がると抱き上げられそうな、立派な成人男性へと変貌していた。
もう本当に、誰だ、と思わず口に出てしまうほど。
最初は、だからだろう、と思っていた。
ふとした瞬間に彼を目で追いかけてしまうのは、あまりの変貌にまだ自分が戸惑っているからに違いないと。それ以外の理由も、他意も、在るはずがないのだと……思い込むように。
おかしいな、と思ったのはいつだっただろうか。
彼の傍に自分じゃない、女がいたのを見た時だったか。
胸の底から何か不快な熱がこみ上げ、思わず叫んで彼の傍に行きたくなった。そうしなかったのは彼が、彼女をあからさまに拒絶しているのに、駆け出す前に気づいたからだ。
あぁ、彼はあの令嬢が嫌いなのか。
そう思ったら、こみ上げていた何かがすっと下がった。
一人になったリュシアンの傍に、何気ない顔をして近寄ってみた。そのままいつものように頭を撫でてもらったら、こみ上げていたものの残滓は完全に消えてしまう。
ミミは、決してバカではない。書物を読むのも嫌いではない。
だからこの気持ちの揺れ動きの名前を、知っていた。
――恋をしてしまった。
ミミに呪われたということになっている、声をなくした王子様。味方など一人として名乗り出ないであろう、自分には不相応な想いを抱いた。抱いてしまっていた。
自覚すると、苦しさは増した。
言いたい、言えない、言うわけにはいかない、言う資格がない。
葛藤は更なる葛藤を呼びつけて、こみ上げる熱の苦味で笑顔すら失いそうで。
だから、ミミは言った。
『ワシはお主を、呪ったかもしれん猫じゃ。近寄れば、今度は声ではなく、命さえ奪うかもしれんが……それでもよいのか、リュシアン王子。妹にすべての重責が向かうぞ?』
脅すような、突き放すような言葉を。
そうしなければ、ミミがダメになりそうだった。彼から離れなければいけないのは、わかっているのだ。自分が傍にいることで、彼が余計に縁談を逃していると知っている。
なのに自分からはどうしても離れられなくて。
だから、彼に離れていってほしかった。
なのに――。
『……』
その言葉に彼は、かすかに不思議そうな表情を浮かべた。
それがどうかしたのか、とでも言いたそうな。
『だからの、ワシはワシのせいで、お主の婚期が遅れるのではないか、と……』
ぼそぼそとつい本音を漏らしてから、ミミは慌てて訂正する。
『い、いやいやいや、違う。ワシはお主など心配しておらん! 嫌いじゃからな! 大っ嫌いじゃからな! しかしそんな相手でも、主の子孫に死なれるのは気分が悪いだけじゃ!』
いいからワシから離れるのじゃ、とミミは叫んで、立ち去ろうとした。
けれど、それより先にリュシアンの腕が伸びる。
すっぽりと腕に抱かれ、ミミはじたばたともがくが、ただ疲れるだけだった。
必死に何かを言おうとするミミだが、言葉が出てこない。何か、何か彼の逆鱗にでも触れるような言葉を。渦巻く思いを抹殺できるような、自分にとって劇毒物となる呪文を。
しかし、そんな妙案が混乱する頭にポンと浮かぶはずも無く。
ミミは彼の腕の中で、次第に動きを弱めていった。
諦めたのではなく、単純に疲れたのだ。
じっとしたミミに満足したのか、それとも安堵したのか。リュシアンはミミの首筋にその顔をうずめてきた。彼の息が肌にかかって、ピーンと耳や尻尾が硬直する。
一瞬で、ミミの頭の中はさらなる混乱の海に、容赦なく叩き落されていた。
まるで恋が叶ったかのように、その腕の中は暖かくて優しい。
勘違いをしそうに、なる。
彼が何をしたいのかわからなくなる。
『わ、わわ……ワシは、ワシ、は。リュシアン、ワシ、えっと』
腕の中で身じろぐことさえもできずに、じわりと布越しに温もりを感じる時間。それは彼の側近となっている、エリクが呼びに来るまで続いた。正直、もう少しゆっくり呼べと思った。
離れていく彼の服の端っこを、ミミは思わず掴んでしまう。
彼女の行為に驚いたのか、リュシアンは少し眼を見開くようにしていたが。
ふ、とめったに見せない笑みを向けたかと思うと、ミミの額に口付けてきたのだ。
今思い出すだけで顔がほてって仕方がない。正直なところ、いっそ額でないところでも良かったと思ったりもするのだが、やっぱりそれはそれで困るので額で良かったと思いなおす。
ともかく、ミミにとってアレは大きな転機となった。
彼に嫌われてはいないのだとわかって、少しだけ欲が出てきてしまった。
もっと、見てほしい。
撫でてほしい。
あと、言葉にならなくてもいいから、可愛いと思ってほしい。
子ども扱いしないでほしい。
綺麗だって、大人だって思ってほしい。
それらを叶える方法を、ミミは偶然にも少し前に書庫で見つけている。気まぐれで手に取った書物に書かれていたものが、その欲を感じた瞬間に頭の中へと浮かび上がってきたのだ。
まるで、これこそが願いを叶えるための手段だと、ミミに伝えるように。
そしてミミは働き始めた。
ミミが知る中で、もっとも美しい衣装。
――獣人族の婚礼衣装の、ヴェールを彩る紐飾りを作るために。