【十二話】 プロポーズ
目が覚めると、見覚えのある部屋にいた。ふかふかのベッドの上、ミミは身体を起こしながら大きくのびをする。そして、視界に入った己の手足に、絶句して固まった。
ヒトの、手足。すでに失ったはずの姿。
慌ててベッドから駆け下りて、そろえて置かれていたサンダルを履いた。
そして、身だしなみに使う鏡の前に立つ。
「……誰じゃ、これは」
そこには、真っ白い髪の、青い瞳の、白いワンピースを来た少女が一人。
やけに驚いた表情を浮かべて、自分をじっと見つめていた。
それは失ったはずの、化け猫姫のミミ。魔法がもたらした長い夢の中、消えていったはずの姿がなぜそこにあるのだろう。夢かと思ったけれど、軽くつねった頬は痛かった。
ふらふら、と部屋の中をさまようミミ。
見覚えがあるのは当然だった。ここは何度か入ったことのある、彼の部屋だから。整理整頓された室内。古今東西の国について纏められた資料。あと彼の趣味の書物。
壁には外套がかけられていて、それは確か、再会の時に彼が着ていたものだった。
周囲から物音はしない。どうやらみんな出払っているらしい。
どういうことじゃ、と小さくつぶやいたミミは、ようやくそれの存在に気づく。
「あれ、は」
長い時間をかけて作った、婚礼衣装である紐飾り。当初の予定通りに美しいヴェールが幾重にも重ねられて縫い付けられていて、想像を超える仕上がりとなって目の前に置かれていた。
惚れ惚れするほど、見事で。
「……」
ミミは、持ち上げてしげしげと婚礼衣装を眺めていた。
けれど――シャルロットの部屋に残したそれが、どうしてここにあるのか。元の位置に戻そうとして、ミミは下に置かれていた何かのメモに気づく。
そこに書かれていたのは間違いなく、リュシアンの少し癖のある筆跡だった。
『婚礼衣装を身に付けたまま、広間に来てほしい。 ――リュシアン』
どきり、とする。
呼ばれる理由がわからない。
ましてや婚礼衣装を……なんて。
けれど、彼からの呼び出しを断れない。
ミミは震える手で、婚礼衣装をそっと頭に載せてみた。それから鏡の前に立って、位置や傾きを念入りにチェックする。早く行きたいけど、ちゃんと綺麗にしておきたい。
その時間は、やけに長く感じられた。
頭の中で急かす声が、早く早くとうるさい。急いだって得にはならない、けれどゆっくりしすぎるのもよろしくない。だから、ミミはゆっくりと急いで、ついでに髪もさっと整えた。
「……よし」
身だしなみを整える、というこの部屋にとどまる理由はもう無い。鏡の中には、今からでもお式をあげられそうな花嫁が、少しどころではないほど緊張した面持ちで立っている。
ミミは扉を押し開き、廊下に出た。
広間とは、おそらく定期的に開かれるパーティで使う広間だろう。外に出ると、かすかに人々が楽しげに談笑したりする、賑やかそうな音が聞こえる。もちろん広間がある方向からだ。
誰とも出会わないまま、ミミは広間の入り口の一つまでたどり着いてしまう。
もし、誰かと出会えば……逃げたかもしれない。
そして逃げるという選択肢を失ったミミは、少しだけ扉を開いた。怖かったのだ。リュシアンがなぜ、自分をこの場に呼んだのかわからないから。着飾らせたのかわからないから。
覗いた瞬間、ミミはその行為を後悔する。
すぐ傍にアドリーヌがいた。リュシアンに身体を密着させ、うっとりとした目で彼を見つめて微笑んでいる彼女が。リュシアンは背を向けていて、表情はわからないけれど。
でも、彼女を拒んでいるようには、見えない。
社交辞令かもしれない、という冷静な声は激情の前に一瞬で吹き飛んだ。彼は、見せ付けたかったのだろう。もうミミは要らないのだと、アドリーヌがいると。
ミミは扉を蹴るように開いて。
「――ワシをバカにしておるのか!」
ゆがむ視界の中心に寄り添う二人を収め、喚くように叫んだ。
いきなり現れたミミを、誰もが驚愕の目で見る。
無理も無い、いなくなったとされる、噂の化け猫姫が現れたのだ。
「リュシアンなど大っ嫌いじゃ! そんなにワシが嫌いなら、こんな回りくどいことをせずハッキリといえばよいのにっ。そしたらワシは、ただの猫として勝手に死んでやるというに!」
着飾らせて、少し期待をさせて、叩き落すなんて。
そんなに自分は嫌われていたのだろうか、勘違いしていたのだろうか。シャルロットやエリクがミミを受け入れているから、彼もそうだと思い込んでいた。
愛を囁くように、抱きしめられたりキスをされたから。
でも本当は、本当は。
ミミは突然の光景に動けない人々の間を、外に向かって走り出す。猫姉様、と聞きなれた少女の声が自分を呼ぶのが聞こえたが、ミミは少しも反応せずに、ただただ走り続けた。
戻ってくるべきではなかった。
あのまま、ノラネコでいればよかった。
城を飛び出したミミは、周囲の奇異の目も気にせず走り続ける。目指す場所は特に無かったはずなのに、自然と足は懐かしいあの食堂へと向かう。彼女に、どうしても会いたい。
人々の間をすり抜けて、ひたすら走る。
店先にその姿を見た瞬間、ミミの涙腺は完全に崩壊した。
彼女に抱きついて、ミミはその胸に顔をうずめる。
「おかみ、女将、殿……っ」
ぐす、と鼻をすする。最初よりは落ち着いてきたが、未だ涙は止まらない。自分を抱きしめて背中を撫でるナタリーに、縋って泣きじゃくるばかりだった。
ぞろぞろ、と店の中にいた常連達が、何事だと飛び出してくる。
ナタリーは彼らを視線で軽く制止しながら、ミミの背中を何度も撫でた。
「ミミ……あなた、どうしてここに?」
「ワシ、本当に、リュシアンが好きで、なのに、なのに」
「……リュシアンって、それって」
「あいつ、ワシが嫌いじゃったんじゃ、ワシはバカで、気づかなくて、それで」
不必要に近寄って、甘えて見せたりして。
本当にバカな猫だった。
元が猫だから、人間のことなんてわかったようで、わかっていなかったのだろう。自分が傷ついたなどとは思えない、思わない。むしろ、リュシアンの方が傷ついたに違いないのだ。
せっかくのパーティを台無しにして、さらに嫌われてしまって。
「ミミ」
なのに浅ましい自分は、彼の声の幻に襲われる。
優しい声で、名前を呼ばれた錯覚をする。
「ミミ、聞いてほしい」
振り返ったら、なんと幻覚まで見えていた。
先ほど広間で見かけた、着飾ったリュシアンがすぐそこに立っている。一人だ。城の外にいるというのに一人。護衛の兵士も、騎士も、エリクさえ、彼の傍にはいない。
王子ともあろう者が、無用心すぎる。
「俺は、ミミを愛している」
「リュシアン……」
「子供の頃から、ミミが好きだった。呪いのことを気にしている罪悪感に、付け込んでやろうと思うぐらいに好きだった。帰ってきてから想いは、もっと強くなった。ミミは昔と同じようにくっついてくるし、これでも大変だったんだ。無理やり、手に入れようとさえ思うほど」
「で、も」
「俺は好きでもない相手に、キスなどしない。ドレスだって贈らない。愛しているから触れたくなった。ずっと傍にいてほしいと願った。守りたいと、願った。ミミを愛しているんだ」
リュシアンの言葉にミミは、戸惑う。
信じたいけど、やっぱり怖かった。
醒めてしまいそうで、怖かったけれど。
「ミミ、今が正念場よ」
「女将殿……」
「正直になりなさい、わがままになってもいいのよ」
背中を押され、ミミは一歩、リュシアンに近づいてしまった。
彼は跪いたまま、ミミに向かってその手を伸ばす。
「俺――私、リュシアンは、ミミを生涯にわたって愛することを誓う。だから、あなたのこれからをどうか私に委ねてほしい。あなたがずっと笑顔でいられるように、守り抜いてみせる」
息を、呑んだ。
その手は、ミミを待っている。ミミは、その手を握りたい。みんな、反対するだろうけれど握ってしまいたい。わがままになってもいいのだろうか。素直に、彼と生きてもいいのか。
「リュシアン……ワシ、わがまま、じゃから」
きっと、ちょっとしたことで怒ったり、すねたりするだろう。
リュシアンを感情のまま、振り回したりするかもしれない。
「それでもいいなら、そのあの、ワシを、嫁に貰ってください」
ミミは、伸ばされた手を――そっと、握り返した。
立ち上がった彼に、ぎゅっと抱きしめられる。あぁ、この腕の中が好きだ。ずっと、この暖かさの中でまどろんでいたいと、ミミはリュシアンの背に腕を回し、抱きしめ返して思う。
誰がなんと言おうと、ミミという名前の化け猫姫は、彼だけを愛している。
その腕に抱かれたまま、彼に身を委ねていると。
「よし、城に戻ろう」
「え?」
嬉しそうな言葉と共に、ミミは掬い上げるように横抱きにされていた。そのまま、ようやく追いついてきたらしい兵士に囲まれて、リュシアンは涼しい顔で城に向かって歩き出す。
ミミは、彼に抱かれたまま身を小さくしていた。
そう、ここは往来のど真ん中。
周囲には食堂の常連や、顔馴染みの客がいる。
「いやぁ、噂どおりなんだなぁ……」
「まさかミミちゃんが、あの噂の化け猫姫だとは思わなかった」
そんな風に、互いに顔を見合ってニヤニヤしていた。
彼らの前でプロポーズされてしまったと、今更彼女は思い知っていた。彼らの暖かい視線に見守られながら、ミミはリュシアンに抱かれて、城まで運ばれていったのだった。