【九話】 届かない、釣り合わない
その日、ミミが作っていたものが完成した。
真っ先に見せたのは、食堂のナタリー。時々泣き言を口にしたミミを、根気よく叱咤激励してくれた彼女は、まるで我が事のように喜んで泣き出した。
開店中の出来事だったものだから、お客様を巻き込んでの大騒ぎ。
その日をもって食堂の看板娘を退職したミミを、みんなが暖かく見送ってくれた。何かあったら逃げ込んで来い、という励ましと共に。ナタリーは、終始ずっと泣き続けていた。
ミミは、彼女らのためにもがんばろうと決意する。
ヴェール部分は後回しに、まずはリュシアンに見てもらおうと思った。
見て、ほしかった。
ところが、まるで完成したことがきっかけだったかのように、リュシアンとの接点がぷっつりと途絶えてしまったのだ。朝も見かけないし、昼も、夕方や食事の時間だって。
けれど、城の中にいないわけではなかった。
かなーり遠くに、それらしい姿を見かけることができたから。だけど、ミミ的には、いっそ見れなければよかったと思う光景で、最近は探そうともしなくなっている。
「お兄様ったら、何を考えているのかしら」
シャルロットの苛立ちは日ごと強くなる。
ある人物が、いつの間にか城に泊まるようになっていたからだ。
無論、彼女がそこまで毛嫌いする相手など、アドリーヌ以外には存在しない。もう一人いないわけではないのだが、さすがに城に『滞在』できるほどの権力は持っていなかった。
アドリーヌは数日前に城に来てから、ずっと客室の一つに取り巻きの侍女と共に滞在中だったのだ。そして、ヒマさえあれば国王や王妃と言葉を交わし、リュシアンについて回る。
その姿は、紛れも無い彼の婚約者。
ミミが久しぶりにリュシアンを見つけた時も、アドリーヌは傍にいた。彼に何か、甘い言葉を囁いているようだった。いつもなら気にせず乱入できるのに、ミミの足は動かない。
そのうち、アドリーヌはリュシアンにもたれかかる。
そうしていいのは自分だけ、という思いが、口から飛び出しそうだった。何も無ければ絶対に飛び出していただろうし、それは身体ごとだっただろう。二人の間に割り込んだだろう。
そうさせなかったのは、リュシアンの表情だ。
――笑っていた。
リュシアンが彼女に、アドリーヌに笑っていたのだ。
家族にすらめったに笑みを向けない彼が、彼女に笑みを向ける理由。誰が見ても、そこにあるのは彼女への愛情に違いないと思うだろう。いや、それ以外に可能性があるというのか。
ミミは、音を立てないように、その場を立ち去った。
遠くに離れてから、足を止めてしゃがみこむ。
「全部、わかっておったはず、なのになぁ」
ずっとわかっている、と言い聞かせていたのに何という姿だ。自分はずっと、何もかもわかっているフリをしていただけだと、ミミは知った。本当は、何もわかってなどいなかった。
心のどこかにあった、見ることもできないほど小さいはずの希望。
それはいつしか、こんなにも大きく育っていた。
現実を直視できないほどに、思い違いをするほどに大きくなって、消えなくなって。
だけどたった今、ミミは現実を叩きつけられた。
いや、現実に叩きつけられた。
夢から醒めるように、彼女は現実を知る。そうだ、自分にすら、彼はほとんど笑ってはくれなかった。笑みらしいものは見せてはくれたが、あんな満面の笑顔ではなかった。
それがすべての『答え』だった。
「……これは、もう、必要はないようじゃな」
手の中に残る紐飾りを見て、ミミは小さくつぶやく。
リュシアンは、呪いなど気にもしない相手を、やっと見つけられた。そんなの、自分ぐらいしかいないと思っていたけれど、どうからとんでもない勘違いだったようだ。
だけど、まだある。
ミミにしかできないことが。
一緒に生きられないなら、最期に一つ贈り物を残そう。
決意を胸に、ミミはゆがんでいく視界で、腹がたつほど晴れた空を見上げた。
■ □ ■
深夜の城内は、びっくりするほど静かだとミミは思う。
するり、とその部屋に忍び込んだ彼女は、静かに寝息を立てる彼に近づいた。
起こさないように馬乗りになって、彼の首――喉に触れる。リュシアンは少しだけ身じろぐが目は覚まさない。これなら、気づかれないままに、すべてを終わらせられるだろう。
かつて、魔女は言った。
ミミをヒトにする魔法は、ある種の奇跡なのだと。
もしミミが願うなら、その魔法が持つ力で叶う範囲ならば何だって叶う。さすがに命を作ることはできないけど、そう……例えば、ちょっとした呪いを消すぐらいなら容易い。
あれは、いずれ生まれる呪われた子を救え、という意味ではなかったと思う。
しかしミミに残された魔法は、リュシアンを救える。
一緒にいることもできない。魔女のように、騎士のように、戦うこともできない。王妃などもっての他だ。性格に難があるように思えるけれど、それはアドリーヌの役目なのだろう。
ならば、ミミにできることは一つだけ。
魔女に教わった通りに、意識を集中させていく。自分の身体が変わっていく感覚。同時にリュシアンの中から、黒いもやのようなものがにじむように這い出した。
猫のそれになった手で、爪で、もやを引っかく、切り裂く。空中に霧散し、もやは跡形も無く消え去った。これで彼の呪いは解かれ、声もちゃんと出るようになっただろう。
その代償となれるのならば、ノラネコになるのも悪くは無い。
ミミは最後に、リュシアンの頬にキスをする。どうせなら、ヒトの姿であるうちに、一度ぐらいはしておいても良かったと思いながら。しばらくして、ミミは彼から離れた。
――さよならじゃ。
にゃあん、と一声鳴いて、ミミは窓からするりと外へ出る。
木を上り塀を伝い、白い姿は町へと消えていった。彼女がわき目も振らずに、町中を疾走している頃、彼女がいなくなったリュシアンの部屋にうめき声が生まれる。
「……ミミ?」
呪われて、声を失った王子が最初に発したのは。
彼に声を返した、一匹の猫の名前だった。