或る夜
夏の夜。『おやすみタイマー』をかけ忘れたクーラーが静かな音を立てて、部屋の中を冷却している。
ダブルベッドの上。薄い布団を気持ち程度に体に掛け、僕は天井を見上げている。クーラーの効いた部屋は涼しく、とても快適だ。窓の外からは時折、国道を走るトラックの音が聞こえてくる。それが子守歌のように僕の眠気を誘って、とても心地が良い。
「う、ううん……」
僕の隣で眠っているトウカが寝苦しそうに寝返りを打って、僕に背を向ける。僕は横目でそれを見てから、再び天井を見上げる。
夜はいい。昼間のような喧噪はなく、静かだ。多分、何処へ行っても静かなままだろう。いや、繁華街の方へ行けば、喧しい所もあるのだろうけど、僕の見える範囲での夜は静かだ。
僕は静かな世界が好きだ。
だからといって、音の無い世界が好きなわけではない。
喧しいと感じる音が無い世界が好きなのだ。
しかし、静かなら明るくてもいいというわけでもない。
明るくて静かな世界は逆に不安を感じる。
それはどうしてだろうか。
静かな世界が好きなら昼間だろうと夜であろうと関係無いはずだ。
なのに、僕は静かな昼間を恐れている。
なら、夜が好きなのかというと、喧しい夜が嫌いなので始末が悪い。
結局、静かな夜という限定されたものが好きなのだ。
では、何故静かな夜が好きなのだろうか。
人が好きという感情を持つには、何かしらの理由が必ず存在している。
僕が静かな夜が好きな理由は何だろうか、と考えている時に、微かに鼻をすする音が聞こえた。最初は、自分のものかと思って、ジッと息を殺してみたが、やはり微かに聞こえる。それは隣で寝ているトウカのものだった。まぁ、誰だって鼻くらいすするさ、と考えていたら、次はすんすんとすすり泣く声が聞こえてきて、僕はビックリして隣で寝ているトウカに顔を向ける。
「トウカ?」
僕の静かな声は闇に溶ける。トウカはピクリと体を動かしたが、僕には背を向けたままであった。
「ごめんね。起こしちゃった?」
声が震えていた。やはり、トウカは泣いていたのだ。
「いや、起きてたから……。それより、何処か痛むのか?」
トウカの体を気遣うような台詞を言ってみたが、身体的苦痛からくる『泣き』ではないと分かっていた。でも、それが勘違いで、本当はお腹とか痛くて僕に助けを求めていたら困るので、とりあえず僕は言ってみたのだ。
「ううん。痛くない」
やはり。なら、トウカは何故泣いているのだろうか。
「ちょっと……悲しいの」
トウカは静かに言った。
「悲しい?」
今日はトウカとずっと一緒にいた。
朝食を食べて、皿を一緒に洗って、昼間は外へ出て散歩をした。
昼食は少しお洒落なお店で食べた。
夕方は部屋でのんびりとくつろいでいた。
中々、面白いテレビがやっていて僕とトウカは楽しくをそれを見た。そして、夕飯は少しだけ豪華な料理だった。笑顔を絶やさずに喋って、それを平らげた。そして、お風呂だって二人で入って、楽しく会話をした。寝る前はアイスを二人で食べた。で、訪れた静かな夜。僕にすればとても幸福な一日だったと思う。トウカにしたってそうだったと思う。
でも、トウカは悲しいと言った。何故だろうか。
「どうして?嫌な夢でも見た?」
僕の問いに
「違うよ」
と言って、首を振る。
「ならどうして?」
。
「静かな夜だから……」
静かな夜だとトウカは悲しくなるらしい。僕は好きだけど。でも、好き嫌いなんて人それぞれだし、恋人の僕が
「静かな夜が好き」
と言ったからといって、トウカも静かな夜を好きになるわけではない。それが別れの原因になるはずもない。
「僕は好きだよ」
トウカに言う。僕はもうトウカの背中は見ていなかった。再び、天井を見ていた。
「私は……嫌い」
震える声。これ以上話せば、確実にトウカは涙をボロボロと零すだろう。そして、癇癪を起こした子供のように大声で泣くだろう。静かな夜が喧しい夜に一変するだろう。ごめんだ。
「そう。明日は仕事だから、もう寝よう」
僕はそう言って、会話を打ち切る。でも、と僕は思う。
僕が静かな夜が好きなのには確かに理由が存在する。
それがどういう理由なのかは、僕には分からない。
でも、理由はあるのだ。
なら、トウカが静かな夜が嫌いな理由だって必ずあるのだ。それを知れば、もしかしたらトウカは静かな夜を克服出来るのかもしれない。嫌いだけど、泣かなくて済むのかもしれない。そうなったら、僕は嬉しい。やはり、恋人が泣く姿なんて見たくはないし、僕が好きなものをトウカが認めてくれたら、僕は喜ぶ。
「……トウカ?」
「……うん?」
もうトウカの声は震えていない。僕と話して、気が紛れたのかもしれない。それなら、もう泣く事はないだろう。
「何で……嫌いなの?」
トウカは一瞬、ビクッと体を震わせたが、肩で大きく息をして、静かに話し始めた。
「……静かなの嫌なの。理由はあるんだろうけど、よく分からない。でも、静かだと不安に感じるの」
「それは昼間でもかい?」
「ううん。昼間は大丈夫。むしろ、好きなくらい」
僕とは正反対だ。僕は静かな昼間を恐れている。トウカが嫌がる静かな夜を好いている。
「好きか。僕は違うな。静かな昼間だなんて気味が悪い」
少しだけ饒舌になってきて、普段は口にしないような好みまで喋ってしまう。
「そっか。私とは正反対だね」
寂しそうな声を出すトウカ。心なしか湿っぽい声だった気がする。僕は少し慌てる。
「いや、でも好みなんて人それぞれだしさ。全部一緒だったら不気味だよ」
「……うん、そうだね」
その言葉を最後にトウカは黙ってしまう。しばらく待つと、穏やかな寝息を立て始めたので、僕は胸を撫で下ろした。
そうして、静かな夜が再びやって来た。
遠くで車の走る音が聞こえ、遠ざかる。木々が風に揺れて、ざわめく。誰もが日常で耳にし、気にも留めなかった音が、今はこんなにも恋しい。次の音を、と僕は求める。
次の音……僕は音を求めている。静かな夜が好きなくせして、音を求めている。そこに矛盾があるのではないだろうか。音も集まりすぎれば、騒音になる。騒がしい夜は僕の嫌いな夜だ。トウカは好むのかもしれないけど。でも、僕は嫌いだ。なのに、僕は音を求めている。何故だろうか。
いや、何故の答えなんてない……いや、あるんだろうけど、多分、僕の預かり知れない所にあるんだと思う。現に、僕はトウカの事を好きである理由を語る事は出来ない。あるのに、語れないという事は、僕が意識して取り出せる場所には無いという事だ。何かの拍子で見つかるような場所にあるのかもしれない。それこそ、無意識の中にあるのかもしれない。
そうこう考えていると、次の音がやって来る。次の音は酔っぱらいの歌声だった。
「まちか〜ど〜の紙くずのうえ〜イエスとノ〜をかさねた〜」
それもやがて遠ざかる。そして、僕は次の音を求める。
音を求める事にどんな意味がるのだろうか。音なんて所詮、物体の振動が空気の振動として伝わって起きるものだ。そんなものに、意味なんてない。でも、僕は意味のないものを求めている。意味がないって分かっているのに、求めている。僕は音を聞いて、何を思うのだろうか。
次の音も車の音だった。その音を聞いて僕は……心地よいと感じた。多分、それが僕が音を求める理由。静かな夜に、静かな音を求める理由。
音を求める理由は分かった。でも、静かな夜が好きな理由が分からない。心地良いと感じるのが答えなのかと思ったが、それはどうも違うような気がしてならない。
僕が静かな夜が好きな理由。トウカが静かな夜を嫌う理由。
多分、それは一緒のものだと思う。ただ、結果が違うだけなんだ。
そう考えていると、次の音。それが遠ざかると、また次の音。一定のリズムで繰り返される音の波。やはり、僕にとっては心地良く感じる子守歌のようであった。その子守歌を聴きながら、僕は心地良い睡眠に入ったのだった。
朝になり、僕はまだ眠たい目を擦ってベッドから起きあがると、エプロン姿のトウカが立っていた。
「おはよう。朝ご飯もうすぐ出来るよ」
僕が
「おはよう。よく眠れた?」
と返すと、柔らかく笑って頷いた。
「さぁ、今日も一日頑張ってね。チュッ」
トウカが僕の頬にキスをする。
「うん。この時が一番好きだな、私」
と言って、台所へと戻っていくトウカ。僕はそれを見送りながら
「そう。良かった」
と呟く。
静かな夜が好きな理由はちゃんとある。理由は、トウカが僕にキスをする時が一番好きなのと同じなのかもしれない。理由なんて大差ないのだ。なら、僕は今夜あたりにでも理由を見つけるだろう。だって、僕はトウカにキスをされる時も、静かな夜と同じくらい好きなのだから。
朝食の目玉焼きに醤油を掛ける。トウカはソース。僕は笑いながら、夜の訪れを楽しみにしている。