めいちゃんは、何も知らない。
「今度こそ、ぜったい、ぜっったい心霊映像を撮るわよ。」
私は緊張した面持ちでそう宣言し、撮影用のスタンドに固定したスマートフォンの録画ボタンを押した。画面の隅で赤い点が灯り、暗闇の中に私の少し引きつった顔と、その背後に広がる雑木林が映り込む。
秋も深まった森は木々の葉が随分色づいており、昼間であればそれなりに風景を楽しめたのかもしれないが、今は夜の冷たい風に煽られた葉がかさかさと乾いた音を立てるたび、ライトの届かない暗がりで何かが動いているようにしか見えなかった。
腰のポシェットには懐中電灯、予備の電池、塩、数珠、ウェットティッシュ、それから虫除けスプレーまで入っている。
御守りだけは最後まで持ってくるか迷ったものの、それで出るものまで出なくなっては困るという、我ながらよく分からない理由で置いてきた。
「めいちゃん、俺、明日一限からだから、出来れば早めに終わってもらえると嬉しいな。」
一歳下の幼馴染、というか、もはや二十年近い腐れ縁である須藤隼斗が、いつもの感情の薄い顔で言った。
昔から口数が少なく、表情にもあまり感情を出さない男だったが、背ばかりは随分伸びて、今では私より三十センチ近く高い。
薄暗い駐車場に懐中電灯を片手に立っていても特に怯えた様子はなく、その姿だけ見れば心霊スポットへ来たというより、夜中にコンビニへ付き合わされた人にしか見えなかった。
「大丈夫大丈夫。今回はちゃんと情報あるから。先週Xに上がってた投稿見たし。夜中に二階の窓から女の人が見えるって。」
「それ、この前も言ってなかった?」
「前回の神社はYouTubeで見たやつ。」
「その前のトンネルは?」
「掲示板。」
「その前は?」
「……友達の友達のお兄さん。」
「今回大丈夫な理由が分からないんだけど。」
「うるさいな。」
私は深く息を吸い、胸の奥まで冷たい夜気を入れると、「よし」と気合を入れて目の前の廃墟へ歩き出した。隼斗は小さく息を吐いたものの、いつものように何も言わず後ろからついてくる。
そこは山中に造られ、三十年ほど前に閉鎖されたゴルフ場の管理棟だった。駐車場だった場所には腰ほどまで雑草が伸び、アスファルトは地中の根に押し上げられて何本もひび割れている。
建物自体は二階建てで、白かったはずの外壁は雨垂れと苔で灰色に汚れ、割れた窓の黒い穴が、夜の中からこちらを見下ろしているように見えた。
遠くでは秋の虫が涼しげに鳴き、時折、梟らしき低い声が森の奥から聞こえてくる。
私は怖い。毎回毎回、本当に怖い。
なぜこんなことにわざわざ執念を燃やしているのか、自分でも時々分からなくなるくらいには怖いのだが、それでもやめる気だけはなかった。
入り口のガラス扉は片方が割れ、もう片方は蝶番から外れて壁に立て掛けられていた。その隙間を通った瞬間、靴の底が細かなガラス片を踏んで、じゃり、と乾いた音を立てる。
思わず肩を竦めながらライトを向けると、埃っぽい受付カウンターの奥に、色褪せたゴルフ場の案内図がまだ残っているのが見えた。
「……なんか、急に静かじゃない?」
「そう?」
隼斗が淡々と答える。
さっきまであれほど聞こえていた虫の声が、建物へ入った途端、妙に遠くなった気がした。
完全に消えたわけではないのだが、厚いガラスを何枚も隔てた向こう側から聞こえるように輪郭がぼやけ、代わりに自分たちの靴音や衣擦れの音だけが妙に近く感じられる。
「……建物の中だからかな。」
「じゃない?」
「もっと怖そうにしてよ。私だけビビってるの馬鹿みたいじゃん!」
「怖がった振りすればいいの?」
「……いや、それはそれでやっぱ嫌。」
そんなことを言いながらスマートフォンを構えると、画面が一瞬ぼやけた。
オートフォーカスが私の顔から外れ、頭の少し上辺りへ勝手に合い、何もない薄汚れた天井だけが妙に鮮明になったかと思うと、すぐにまた私の顔へ戻ってくる。
「なんかまたピントおかしいな。さすがにそろそろ買い替えるべきか……。」
ぼやきながら進もうとした時、隣で隼斗が小さく声を上げた。
「あ。」
「ななななななに!?」
私は危うくスマホを落としかけた。隼斗はすぐには答えず、私の頭の少し上をじっと見ていた。
その目だけが一瞬妙に鋭くなった気がして、心臓が強く脈打つ。私がつられて視線の先を追おうと顔を上げるより早く、隼斗の手がこちらの頭上をさっと払った。
「蜘蛛の巣。」
「ひぃっ……!」
「もう取れたよ。」
「急に声出さないでよ! 私が怖がるの分かってやってるでしょ!」
「……そんなに怖いなら、こういうことするのもうやめろよ。」
あまりにも正論だったので、私は口を噤んだ。そのまま不満を示すべく早足で歩き出すと、すぐ後ろから足音が追ってくる。
「ごめん、怒った?」
「怒ってない。」
「怒ってるだろ。」
「いや、感謝してますよ。こんな夜更けに車まで出してもらって、薄気味悪い廃墟まで付き合わせて。すみませんね、こんなイカレ女がお隣さんで。」
言っているうちに本当に悲しくなってきて、自嘲気味に笑った。ただでさえ怖くて顔が強張っていたせいで、ずいぶん情けない笑いになったと思う。
「いや。俺も、たまにはこういうの気分転換になって楽しい時あるから。」
「ほんと?」
「うん。だから気にしなくていいよ。」
「……ほいほい。」
「これからも誘ってね。」
「……うむ。」
「絶対、一人で行くなよ。」
「はいはい。」
半分聞き流しながら頷くと、隼斗は少し困ったような顔をしてから、私の頭をぽんぽんと二度叩いた。しかし三度目は来ず、途中で手を止めると、そのまま私の肩越しのどこかへ視線を向けた。
「何?」
「いや。なんでもない。」
その時、受付奥の割れた窓に残っていた薄汚れたカーテンが、ふわりと室内側へ膨らんだ。
風は感じなかったが、窓が割れているのだから、どこかから入り込んだのだろう。
受付の先には事務所らしき部屋があり、机や椅子が乱雑に倒れていた。
床には空き缶や菓子袋、誰かが持ち込んだらしい漫画雑誌まで散乱し、壁一面にはスプレーで意味の分からない文字が書かれ、その上を黒い黴が這っている。雨漏りでもしているのか、部屋の奥には湿った土と古い雑巾を混ぜたような臭いが籠もっていた。
「……なんか、すごい嫌な感じ。」
「それ毎回言ってない?」
「みんなよくこんなとこ来るよね。」
「……それ、めいちゃんが一番言っちゃいけない台詞だよね?」
「お化けもこんな陰気なところ、本当は嫌なんじゃない?」
「……そうかもね。」
事務所の奥には、従業員用と思われる控室があった。
壁際に古びたスチールロッカーが十数個並び、中央には茶色いビニール張りの長椅子が二つ置かれている。いくつかのロッカーは蹴られたのか扉が大きく歪み、錆びた金属の腹を晒していた。
「ここ、噂では従業員が一人亡くなってるらしいよ。」
「事件? 事故?」
「調べたけどよく分かんなかった。あと、大昔にはこの辺りに村があったけど、飢饉でほとんど人がいなくなったとか。」
「……へえ。」
「まあ、Xの投稿の受け売りなんですが……。」
言いながらライトをロッカーへ向けると、ほとんどの名札は剥がれている中、一つだけ黄ばんだ紙が残っていた。
「ここだけ名前ある。……皆川?」
スマートフォンを近付けて撮影し、少し浮いている扉の隙間へ指を掛けた瞬間、耳元でばん、と大きな音がした。
「ぎゃっ!」
隼斗の手が、ロッカーの扉を押さえつけるように叩いていた。
「な、なに!? 何!?」
「なんかいた。」
「何が!? おばけ!?」
「いや、虫。隙間から茶色い虫が見えた気がした。」
「虫!?」
幽霊も怖いが虫も怖い。
廃墟や神社などの古い家屋には付き物とはいえ、あまりにも頻繁に出くわすので、慣れるどころか私にとっては幽霊と同程度の忌避対象になっていた。またいつものように服や髪に引っ付かれては堪らない。
「何虫!?」
「分かんない。結構でかかった。」
「やばっ! 開けないでおこう!?」
「その方がいいと思う。」
私はロッカーから即座に三歩離れた。その時、扉の奥から、金属同士を何か柔らかなもので擦っているような、きゅ、きゅ、という微かな音が続けて聞こえ、思わず身体を固くする。
「……な、何?」
「結構でかい虫だったから。」
隼斗は妙に早口だった。
相当でかい、もしかしたら茶色の油っぽいあいつかもしれない。想像しただけで自分の顔が強張るのが分かった。
ライトの明かりをロッカーから外し、ぎこちなく別の場所へ身体の向きを変える。
長椅子の横には掌の半分ほどの破れた小袋と、丸まった薄いビニールのようなものが落ちていた。何だろうとしゃがみ込むと、隼斗が素早く私の肩を掴んだ。
「それ触っちゃダメ。」
「何これ?」
「めいちゃんは知らなくていい。」
「え、何?」
「ほら、二階もあるんだろ。」
珍しく眉を顰めた隼斗に妙にきっぱり言われ、そのまま半ば追い立てられるように控室を出た。
二階へ続く階段はコンクリート製で、足を置くたびに乾いた音が建物の奥まで響いた。
一段上がるごとに、先ほどから感じていた耳の詰まるような感覚が強くなり、二階へ着く頃には、自分の呼吸音ばかりが耳の内側で反響している。
階段横の壁には褪せたフロア図が残されていた。二階には休憩用の和室、簡易シャワー室、トイレがあるらしい。
一階ほど荒らされてはいなかったが、廊下の壁紙は剥がれかけ、床にはほとんど物が落ちていない。その静けさのせいか、かえって人の生活だけが直前まで残っていたような妙な生々しさがあり、今にも廊下の向こうから従業員が歩いてきそうだった。
「なんか……静かすぎない?」
「そう?」
「虫の声、全然聞こえない。」
「二階だからかな。」
「廊下の窓全部開いてるのに?」
「じゃあもう帰る?」
いや、せめて全部屋は回らなければならない。確かXに投稿されていた女が目撃されたのも二階だった筈だ。
私は答えず、懐中電灯を前へ構えてまずは和室へ向かった。隼斗もそれ以上何も言わず、少し後ろをついてくる。
そっと暗い和室の中に明かりを差し入れた。輪郭のぼやけた丸い光がゆっくりと滑っていく。
襖は片方が外れ、壁へ倒れ掛かっていた。畳はところどころ腐り、奥の方だけが不自然に黒く変色している。
「うわっ!」
「何?」
「……あれ、人型に見えない?」
染みの上をライトの光が動いていく。丸い頭を思わせる黒ずみに長い染みが続き、丁度大人一人分くらいの大きさだった。例えば、人が布に巻かれたまま長く置かれていたら、あんな染みになるのだろうか。
「……気のせいだって。」
「でもほら、ここ……頭っぽくない?」
もっとよく見ようと一歩近付いた時、まず背筋を冷たいものが走り、次いで、今まで嗅いでいた黴や湿った土とはまったく違う臭いが鼻の奥へ入り込んだ。腐った生ゴミとも違う。夏場に肉のパックを外へ放置して、膨れ上がったフィルムを恐る恐る剥がした時に出てきそうな、生温かく甘い臭いだった。
「なに、この臭い……。」
「めいちゃん、虫付いてる。」
「ひぃぃぃぃっ!?」
背中を勢いよく払われ、私は文字通り飛び上がり前へ逃げた。心臓まで一緒に跳ね上がった気がする。
「何!? 何が付いてた!? ちょっ、何虫!?」
「……蛾みたいなの。もう飛んでったから大丈夫。」
「大きい!? 大きかった!?」
「まあ……ちょっと。」
最悪だ。幽霊でなくて良かったけれど、また虫である。
私は何度も自分の背中を手で払い、首筋まで確認した。何もいなかったが、首の後ろに一箇所だけ、何か湿ったものが触れたような冷たい感触が残っている。
「……なんか、濡れてる。」
「汗じゃない?」
「こんな寒いのに?」
「冷や汗とか。」
「……そう、かな。」
もう一度指で触れてみたものの、すでに乾いているようだった。やはり気のせいなのかもしれない。
「ありがとう……ほんと、こういうところ来ると毎回絶対虫付くよね。」
「……そうだね。」
「私ばっかり。もしかして背の低い方に虫って寄ってくるのかな。」
「そうかもね。」
蚊は二酸化炭素や汗で寄り付き方が違うというし、もしや他の虫にも似た性質があるのだろうか。そうだとしたら本当に嫌すぎる。考えただけで若干涙目になりかける私を尻目に、隼斗は和室の出口へ向かって歩き出した。
「行こう。」
「え? まだちゃんと撮ってないんだけど。」
「ここ、床腐ってるし危ないから。」
少し強い口調だったので、私は素直に引き下がった。
シャワー室には特に何もなかった。壁のタイルは一部剥がれ、排水溝には乾いた葉や泥が詰まっている。
赤いスプレーで書かれた意味不明な落書きが少し怖かったくらいで、ひとしきりカメラに収めて部屋を出た。
最後にトイレへ入った。
個室は三つあり、一番奥だけ扉が少し開いている。私はライトを向けながら、恐る恐る中を覗き込んだ。
「……だ、誰も、いません、ね……?」
「当たり前だろ。」
「こういうところって、扉開けたら人が立ってたり……しない?」
「もし立ってたらどうするの。」
「……死ぬ。」
便器も床も乾き切っており、特に変わったところはなかった。
少し安心して振り返った、その瞬間、隼斗が隣の個室の下辺りを強く蹴り、鈍い音がトイレ中へ響いた。
「なっ、何!?」
「扉が。」
「扉!? 扉が!?」
「立て付け悪くて開いてきたから。」
「蹴る必要あった!?」
「手で触るの嫌だったし。」
確かに廃墟のトイレの扉など触りたくない。その説明に納得しかけた時、個室の奥から、ぬちゃ、と何か湿ったものをゆっくり剥がすような音がした。
「……今、何か音、した?」
「いや? 何も聞こえなかったけど。」
「いやいや……絶対なんか聞こえたって。」
「そう?」
じっと耳を澄ませる。暗いトイレの床に二つ分の懐中電灯の光が静かに落ち、その光の輪から少し外れた場所で、今度は床へ濡れた掌でも押し付けるように、ぺた、ぺた、と間を置いて湿った音が続いた。
「……この音、なに。」
「なんか聞こえたの?」
「い、いや、なんか、足音みたいなの。」
「俺は聞こえなかったけど。怖がり過ぎて幻聴が聞こえたんじゃない?」
そうなのだろうか。確かに、さっきから怖すぎて自分の心臓の音まで身体の中へ響いているような感覚がしていた。
隼斗に聞こえなかったのなら、やはり私の気のせいなのかもしれない。
「もう十分撮れた?」
「……う、うん。たぶん。」
「じゃあ戻ろ。」
隼斗に背を押されながらトイレを出て、途中から僅かに早足になりながら階段を下り、一階を抜けて外へ出た。建物から一歩踏み出した瞬間、それまで耳を塞いでいた膜が破れたように秋の虫の声が戻ってきて、私はようやく大きく息を吐いた。
「……い、生きてる。」
「そんなに怖かった?」
「いや、怖いでしょ!? 何も出なかったけど!」
「よかったじゃん。」
「よくないよ! 今回も成果ゼロじゃん!」
車へ戻り、助手席で録画を確認した。受付も、ロッカーも、和室も、トイレも、画面にはただ私と隼斗が映っているだけで、ノイズらしきものすら残っていない。
「あー、結局今回も駄目かぁ。」
シートへ沈み込んで嘆くと、運転席でハンドルを握っていた隼斗が横目でちらりとこちらを見て、ふっと笑った。
「見えなくてもさ、めいちゃんのお母さんはちゃんと見守ってると思うよ。」
またそれだ。
「みんなそう言うよね。『きっと見守ってるよ』とか、『心の中にいるよ』とか。いやっ、私だって子供っぽいと思うよ!? でもさ、やっぱり確証が欲しいじゃん!」
「確証……ね。」
「そう。幽霊という存在がちゃんといるって、分かるだけでいいの。」
母は、私が二歳の時に癌で亡くなった。記憶はほとんどなく、写真と、父や親戚から聞いた話と、母が残してくれた手紙だけが、私の中にある母の形だった。
その手紙の最後には、『めいちゃんが寂しい時はお母さんのことを思い出してね。おばけになってもずっとそばにいるからね。ちゃんと見守っているから、寂しくないからね』と書かれていた。
父は仕事が忙しく、土日も家にいないことが多かった。
隣の隼斗の家は裕福で、ご両親も兄姉も皆優しく、私は自分の家と隣家を半々に行き来するような幼少期を過ごした。
隼斗の両親も兄姉も本当に私のことを可愛がってくれたが、それでもどうにもならない寂しさが胸の奥には残っていた。
そんな私を支えてくれたのが母の手紙だった。
小学校の作文に書けば先生は泣いた。一方、同級生には、おばけなんているわけない、そんな非科学的なものを信じるなんて、と笑われた。
その言葉が悔しくて、自分で証明してやろうと思ったのが、そもそもの始まりだった。
小学生の頃から、一歳下の隼斗の手を引いて夕暮れの神社や山の中、噂のある池、廃トンネル、廃屋へ行った。
隼斗は昔から大人しく、上の兄や姉と違ってほとんど喋らない子供だったので、怖い場所へ一人で行けない私はこれ幸いと連れ回し、中学生になっても、高校生になっても、大学へ入っても、それは続いた。
そして残念ながら、これという成果は今のところ一つもない。
「いや、でも、ここまで来たらもう意地だな。絶対いつか撮る。幽霊がいるって証拠。」
「……そう。」
「もう、いっそのこと県跨ぐ? 四国とか、京都とか、泊まりで。」
「一人で?」
隼斗の言葉に思わず口を噤む。一人で、暗い夜、しかも虫も多い、そしてもしかしたら本物の幽霊が出るかもしれないような場所へ行く。果たして私にできるだろうか。
「……いや、その、隼斗がもし暇なら。」
「暇じゃなくても行くから、誘って。観光とかも楽しそうだし。」
「え? いいの?」
「うん。絶対一人で行くなよ。」
隼斗は前を向いたまま、今までより少しだけ低い声でそう言った。
「……分かった?」
「う、うん。」
「本当に? 絶対約束だからね。」
「分かったってば。……いつもありがとうございやす。」
照れ混じりに返すと、やっと納得したのか、隼斗は小さく息を吐いた。
私は何も考えず、窓の外を流れていく夜の山を眺めた。
◇
芽依の部屋の灯りが消えたのを確認してから、須藤隼斗は二階の自室のカーテンの隙間へ指を掛けた。
時刻は午前一時を少し回っており、入浴を済ませた短い黒髪にはまだ僅かに湿り気が残っている。
明日は一限から講義があることを考えれば、もう眠っていたい時間だったが、そういうわけにもいかなかった。
隣家の玄関前に、赤い作業着を着た女が立っている。
異様に背が高いというより、人間の身体を一度柔らかくして、骨も筋もまとめて縦方向へ無理に引き延ばしたような体つきをしており、肩から先だけが不自然に長く、垂れた両腕の指先は地面を擦っていた。爪はすべて剥がれているらしく、指先には赤黒い爪床だけが露出し、腰まで垂れた濡れたような髪の隙間からは顔がまったく見えない。胸元には汚れた白い名札のようなものが付いていたが、ここから文字までは読めなかった。
ただ、隼斗には何となく分かっていた。
「……まだいるか。」
女は芽依の家の玄関扉へ額を押しつけ、一定の間隔で頭を前後へ揺らしていた。
額が扉へ当たるたび、最初は乾いた小さな音だけがしていたが、少し前から表皮が剥けたのか音に湿り気が混じり、頭を離すたび黒ずんだ皮膚の一部が扉へ張りつき、細い糸を引きながら剥がれるようになっている。
それでも女は止めず、今では額の皮膚が大きく裂け、その奥から骨の白さが覗き始めている。にもかかわらず、女は何事もないように同じ動作を続けていた。
これまでにも芽依が何かを連れて帰ったことはある。
敷地を離れれば消えるものもいれば、しばらく人間についてきて、何の反応も得られなければそのうち興味をなくすものもいたため、今夜も少し様子を見ていた。
しかし女は消えるどころか、時間が経つほど家の中にいる芽依へ執着を強めているようだった。
仕方なく部屋の隅に立てかけていた袋から高校時代に使っていた弓を取り出すと、それまで規則正しく扉へ額を打ちつけていた女の動きがぴたりと止まった。
身体は玄関を向いたままである。
それでも見られているのが分かった。
こちらに向けられた感覚と意識のようなものが、夜の闇も距離も超えて真っ直ぐ隼斗へ向けられている。
カーテンを引いて窓を開けると、冷たい秋の夜気が一気に室内へ流れ込んだ。
それを合図にしたように女の頭だけがゆっくりと回り始め、首は本来なら曲がらない角度を越えて捩れ、皮膚の内側で骨同士が擦れ合う鈍い音を立てながら、やがて身体とは正反対の向きへ顔を向けた。
動きに耐えきれず首筋の皮膚が裂けると、その隙間から濡れた筋肉が何本も露出し、切れた繊維が細く伸びていく。
長い髪が左右へ滑り落ち、その下から現れた顔は、長期間水に浸されていた死体のように白く膨れ、表皮がところどころ半透明に浮いていた。
鼻は途中から潰れ、めくれた唇の内側では歯茎が暗赤色に腫れ、左眼はすでになく、空いた眼窩の奥では腐った肉の表面を小さな白いものが蠢いている。それでも右眼だけは異様なほど大きく開かれ、眼球のほとんどを占める濁った瞳で、まっすぐこちらを見ていた。
女が笑った。
口角が上がるという程度ではない。ふやけた皮膚が耐えきれず裂け、唇の端から頬までがゆっくり割れて、その奥から黄色く変色した歯が剥き出しになる。
さらに歯と歯の隙間を押し広げるように、細い人間の指が一本、口の内側から現れた。
次の瞬間、女の頭部が膨らみ始めた。玄関前に身体を残したまま、頭だけが異常な速度で大きくなり、額も頬も水を含ませすぎた肉のように張り詰めながら二階の窓へ迫ってくる。
長い髪が夜空いっぱいへ広がり、黒い液体が涙のように眼窩から零れ落ちるうち、やがて巨大な顔が窓一面を塞いだ。
皮膚は膨張に耐えきれず細かく裂れ、その裂け目から粘ついた赤黒い液体が滲み、顎へ向かって太い糸を引いている。
巨大化した鼻孔の奥には、先ほどの指と同じものが何本も蠢き、そのさらに奥には、歯のない小さな口がいくつも並び、呼吸でもするように開閉していた。
やがて本来の口もゆっくり開き始める。顎は途中で止まらず、関節を外して深く垂れ下がり、口腔の奥に詰め込まれていたものが露わになった。
そこには、舌の代わりに人間の腕があった。
肘から先だけの腕が何本も狭い喉の中へ無理に折り畳まれ、皮膚同士をぬめりながら擦り合わせている。
そのうち一本が口の外へ這い出し、続いて二本、三本と現れた手には、爪ではなく乳歯ほどの小さな歯がびっしりと生えていた。それらが窓枠へ触れると、飢えたものが食事を前にしたように一斉に開閉し、かちかちと小さな音を鳴らす。
隼斗は眉を顰めた。
芽依は飢饉がどうとか言っていたが、目の前にいるこれは、どう見ても一人ではない。大分、取り込まれてしまっているようだった。
名札が皆川であったとしても、もうその中から覗いているものは皆川だけではないだろう。
「……消してやった方が楽かもな。」
矢は番えない。左手で弓を構え、右手で弦だけをぐっと限界まで引き絞る。
その間にも、女の口から伸びた腕の一本が窓枠を越え、手の平いっぱいに生えた歯を震わせながら隼斗の眼前へ迫ってきた。
指を離した。
鋭い弦音が夜を裂いた瞬間、女の巨大な頭部が内側から何かに掴まれたように激しく痙攣し、唯一残っていた右眼が眼窩から押し出され、頬の上へ垂れ下がった。
直後に額が大きく陥没し、鼻が顔面の奥へめり込み、左右の顎が互い違いの方向へ折れていく。口から伸びていた腕はすべて硬直し、手の平に並んだ歯を激しく鳴らしながら反り返った。
そこから上がった悲鳴は、女一人のものではなかった。
開いた口の奥、鼻孔、潰れた眼窩、首や頬の裂け目のそれぞれから、男、女、老人、子供、赤ん坊の声が同時に漏れ出し、何十もの喉をまとめて絞り潰しているような不快な響きとなって夜気を震わせる。
その声とともに頭部は濡れた布を捩るように中心へ向かって縮まり、肉と皮膚の間から細かな骨片や歯を落としながら崩れていった。
最後に残ったのは、髪の付いた頭皮だけだった。
薄く剥がれた皮膚が宙へ浮かび、その裏側には眼球ではなく、皮膚そのものに埋め込まれた無数の目が開いている。
何百もの瞳孔が一斉に隼斗へ向き、同時に一度だけ瞬きをした後、頭皮も髪も黒い靄のようにほどけ、夜へ溶けて消えた。
隼斗はしばらく弓を下ろさず、気配が完全になくなったことを確認してから、ようやくゆっくり息を吐いた。
額に僅かに浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、先ほどまで女が立っていた場所を見る。
「……なんでこんなのに好かれるかな。」
芽依は何も知らない。
今日もそうだった。
廃墟へ入った直後、芽依が蜘蛛の巣だと思ったものは、蜘蛛の巣などではなかった。
彼女の頭の真上には、首から下のない男の頭部だけが逆さまに浮かんでおり、その口から舌の代わりに大量の黒髪が生え、何束にも分かれて芽依へ向かって垂れ下がっていた。
数本はすでに彼女の髪へ触れかけていたため、隼斗がすぐに手で払い除けると、男の姿は灰でも舞うように薄れて消えた。
ロッカーも同じだった。
芽依が「皆川」と書かれた扉へ指を掛けた時、隙間の向こうから伸びていたのは茶色い虫ではなく、何日も水へ漬けたように皮膚が白くふやけ、爪の剥がれた人間の手だった。
五本の指が狭い隙間から押し出され、芽依の指へ重なろうとしていたので、咄嗟に扉を叩きつけた。
その後も内側から聞こえていた、きゅ、きゅ、という高い音は、恐らく、柔らかくなった指の腹を鉄板へ何度も擦りつける音だった。
和室の黒い染みもただの腐食跡ではなかった。芽依が近付いた途端、畳の目の間から黒い液体が滲み、その下から顔の中央を大きく潰された男がゆっくり浮き上がってきた。
砕けた鼻や頬の代わりに残された歪な口の中には、歯ではなく湿った畳の藁が喉の奥まで詰まり、呼吸するように出入りしていた。
ただ、あの時最も芽依へ近かったのは、それではない。
芽依に蛾と説明したものが、背中へ取り付いていた。
掌ほどの大きさの人間の顔に、昆虫のように節のある六本の脚と半透明の羽が生えている。
顔には老人のような深い皺が刻まれているのに、皮膚だけは赤ん坊のように薄く、その下を走る青い血管が透けていた。
瞼のない眼球は乾くことがないよう絶えず透明な粘液を滲ませ、六本の脚の先端には鉤爪ではなく一本ずつ人間の指が付いている。
その指で芽依の服を器用につまみ、少しずつ首筋へ這い上がっていた。
半透明の羽には細かな血管が走り、動くたび、その内部を赤黒い液体が流れていた。
顔の下半分に開いた小さな口には、子供の乳歯のような白い歯が二列に並び、その間から細長い白い舌が伸びている。
舌の表面には細かな棘が密生し、それが芽依の首筋へ何度も触れるたび、人面のものは歯を擦り合わせながら、途切れ途切れの声で同じことを繰り返していた。
――このこ、あかるい。
――あたたかい。
――たすけて。
――つれてって。
芽依が「なんか濡れてる」と言ったのは、その舌に首筋を舐められていたからだった。
隼斗がそれを払い落とすと、人面のものは床へ落ち、柔らかな果実を踏み潰したように顔を平たく潰した。
それでもすぐに形を戻し、六本の脚を忙しなく動かして逃げていったが、羽を震わせた際に響いたのは虫の羽音ではなく、喉を潰した赤ん坊が泣いているような細い声だった。
そしてトイレ。
芽依が背を向けた時、閉じた個室の下から、まず一本の指が出てきた。それに続いて二本、三本と増え、いつの間にか何十本もの指が床を這い、関節を本来とは逆の方向へ折り曲げながら、すべて芽依の足元へ向かっていた。
最も早かった一本が靴紐へ爪を掛けたため、隼斗は個室の扉を蹴り上げた。
その瞬間、扉の向こうで何か大きなものが動いた。
隼斗にも、それが何なのかまでは分からなかった。
ただ、人間の大きさ程の袋状の何かが、扉の裏へぬるりと押しつけられていた。同時に、男とも女とも、子供とも老人ともつかない声が幾重にも重なり、言葉を紡ぐ。
――このこ、あたたかい。
――きっとたすけてくれる。
――つれてって。
――ここから、つれてって。
芽依には聞こえていなかった。
姿も見えていない。
理由は隼斗にも分からない。
ただ、死んだものたちには芽依が、他の人間とは少し違って見えるらしい。遠くからでも見つけ、暗いところから寄ってきて、触れようとする。
あたたかい。
あかるい。
たすけて。
そう言いながら。
小学生の頃から、ずっとそうだった。
夕暮れの古井戸では首のない子供が芽依の肩へ跨がろうとしており、中学生の頃に入った廃病院では壁の中から顔を半分だけ出した女が、芽依の影を長い舌で舐めていた。高校生の頃、夜の河川敷では、皮膚のほとんど剥がれた男が肘と足首だけを使って四つん這いになり、二人の後ろをどこまでも追ってきた。
もう十年以上になる。
芽依はその間、一度も心霊映像を撮影出来ていない。
当たり前だった。
彼女の近くまで来たものは、その姿を結びきる前に大抵隼斗が引き剥がし、追い払い、時には消している。
芽依が「何も出なかった」と笑って帰った夜のほとんどで、実際には何かが彼女の髪に触れ、服へ掴まり、背中へ乗り、足元を這っていた。
芽依は何も知らない。
自分が昔から妙に怪異を引き寄せやすいことも、これまで数え切れないほど触れられていることも、つい数時間前には正体の分からないものに首筋を舐められていたことも、隣で退屈そうな顔をしている一歳下の幼馴染が、実際には毎回かなり忙しく彼女を守っていることも。
隼斗は弓を壁へ立て掛け、窓を閉めようとして、ふと隣家から向けられる視線に気付いた。
二階の芽依の部屋、カーテンへ僅かに重なるように、白いブラウスを着た女性が立っている。
彼女は今夜も最初からついてきており、芽依へ何かが近付くたびに青ざめ、隼斗がそれを追い払うたびに何度も頭を下げていた。
今も胸の前で両手を合わせ、申し訳なさそうにこちらを見ている。
「大丈夫ですよ。いつものことなんで。」
隼斗が小さく頷くと、彼女は安心したように笑い、芽依の部屋の奥へ消えた。
芽依が十年以上探し続けている幽霊は、昔からずっと彼女のそばにいる。
そして、その存在は隼斗にとって別の意味でも少々厄介だった。
隼斗は芽依が好きだった。
いつからなのかは、もう覚えていない。ただ本人へ何か言おうとすると、かなりの確率でその背後に彼女の母親がいる。
二人で遊びに行く時も、食事へ行く時も、芽依が酔って肩にもたれて眠った時にもいた。
別に怒っているわけではない。ただ穏やかにこちらを見ている。
それが、非常に気まずい。
芽依へ告白していいのか、それとも先に母親へ一言断るべきなのか。
いっそ正式に結婚を申し込めば話は早いのだろうかと思ったことさえあるが、まだ付き合ってすらいないので、それはさすがに順番がおかしい。
巨大な顔が窓一面を塞いでも平然としていられるのに、この問題だけは何年考えても答えが出なかった。
隼斗は小さく息を吐き、袋へ弓を収め部屋の隅に立てかけると、もう一度だけ隣の家を見た。
今頃芽依は、今日も何も映らなかったと残念がりながら眠っているのだろう。
そして、明日になればまた、幽霊なんて本当にいるのかな、お母さんは本当に見守ってくれているのかな、と言いながら新しい心霊スポットを探し始めるに違いない。
自分が今夜も無事に怪異へ接触していたことも。
探し続けている母親が、最初からずっとそばにいることも。
その母親の目を気にして、隼斗が未だに告白一つ出来ずにいることも。
当然のことながら。
めいちゃんは、何も知らない。




