死に戻り復讐劇の一周目に転生しましたが、殺される前に幸せになります
「殺されてから時間を遡って復讐……って、普通に痛いし面倒くさいんだけど」
豪奢だがどこか冷たい自室の鏡を見つめながら、一人の少女がひどく遠い目をして、ぽつりと呟いた。
彼女の名前は、カリーナ・ステラフォン。
この国でも格式高い公爵家に生まれ、現在はカルイア国第一王子エリックの婚約者である。
本来なら栄華の絶頂にいるはずの彼女だが、現在はとてつもない理不尽さに頭を抱え、深いため息をついていた。
なぜなら彼女は今、唐突に前世というものを思い出したからだ。
しかもどうやら、前世で愛読していた大人気WEB小説『血塗られた令嬢の二周目~私を嵌めた人間すべてに復讐を誓う~』の主人公に転生してしまったようなのである。
ストーリーはこうだ。
一周目のカリーナは、婚約者である第一王子エリックと、親友である侯爵令嬢のカンナに裏切られる。
血筋も能力も申し分ないカリーナは理想的な婚約者だったが、エリックはやがて親友のカンナに惹かれ、カンナもまた密かに彼と想い合うようになる。
とはいえ、何の落ち度もないカリーナを一方的に捨てれば、非難されるのは二人の方だ。
そこでエリックは、自らが行っていた王宮予算の横領や政敵を陥れるための謀略を、すべてカリーナの仕業に見せかけることにした。
そして建国記念パーティーの日。
大勢の貴族たちの前で婚約破棄とともに断罪され、偽造された証拠と買収された証言者によって罪を着せられたカリーナは、声を奪う毒まで盛られた末、断頭台で処刑される。
ところが、首を刎ねられた直後、奇跡の力によって、カリーナの時間は数年前――『王子と婚約する直前』まで巻き戻る。
二周目では冷酷な復讐鬼となったカリーナが、同じくエリックに恨みを持つ元伯爵家の子息ルシウスと手を組み、かつて自分を陥れた者たちを一人ずつ破滅させていく――という、ドロドロの痛快復讐劇である。
読者として外から見ている分には、それはもう最高にスカッとする名作だった。
だが、当事者になってみると話は全く別である。
「そもそも、なんで一度殺されなきゃいけないの? 最終的に生き返るとはいえ、断頭台の刃が落ちる痛みを味わってから数年前に戻って、さらに膨大な時間をかけて陰謀を巡らせて復讐……? 考えただけでストレスで胃に穴が空きそう」
ここでカリーナはふぅ、と深く息を吐き出すと、己の運命を自らの手でへし折ることを決意した。
原作の進行によれば、明日、王家主催の建国記念パーティーで、エリックから婚約破棄を宣告され、罠に嵌められることになっている。
そのまま王宮の地下牢に幽閉され、例の毒を飲まされて声を奪われ、凄惨な尋問の末に処刑される予定だ。
だが、今のカリーナは原作の展開を知っている。
そんな面倒な舞台に、わざわざ立ってやる必要がどこにあるのだろう。
「よし、予定変更。殺される予定はキャンセルして、今すぐ幸せになろう!」
◇
善は急げと、カリーナはさっそく行動を開始した。
なにせ時間がない。
まずは逃亡資金の確保である。
カリーナは自室の隠し金庫を開け、個人資産である金貨をありったけ鞄に詰め込んだ。
さらに、手持ちの装飾品の中から、換金しやすく、かつ足のつきにくそうな小ぶりな宝石や貴金属だけを厳選する。
かさばる豪奢なドレスなどはすべてクローゼットに放置だ。
この窮地にあっても、両親に相談する気は毛頭なかった。
ステラフォン公爵夫妻にとって、カリーナは、王家と縁を結ぶための極めて優秀な駒でしかない。
それに、彼らから愛情というものは一度も感じたことはない。
原作の一周目でも、両親は最後までカリーナを庇わず、娘の無実より、公爵家の保身を選んだ人たちだ。
ならば、こちらも遠慮する必要はないはずだ。
カリーナは便箋を取り出し、短くこう書き記した。
『お父様、お母様。
私には、第一王子殿下の婚約者という重責は荷が重すぎると悟りました。
私は遠方で静かに暮らします。
どうか探さないでください。カリーナより』
何も残さず消えれば、誘拐や事故を疑われ、すぐに王家や騎士団が動くかもしれない。
けれど、自分の意思で家を出たと分かる手紙があれば、両親は大々的に騒げない。
まして王子の婚約者が重圧に耐えきれず逃げ出したなど、公爵家にとっては大醜聞だ。
きっとまずは内々に処理しようとする。
この国からの逃亡の時間さえ稼げれば十分だった。
続けてもう一枚、カリーナは便箋を取り出す。
宛先は、王宮騎士の『レイ・アルト』。
――いや、彼の本当の名はルシウス・ヴァレンという。
原作小説の二周目において、復讐鬼となったカリーナの唯一の相棒となるはずの青年である。
かつて、彼の両親であるヴァレン伯爵夫妻は、エリックの不正にいち早く気づき、それを告発しようとして逆に罪を着せられ、一族もろとも処刑された。
だが、処刑を執行した騎士が不憫に思い、密かに息子のルシウスだけを救い出し、自らの養子として育てたのだ。
現在、彼はレイ・アルトという偽名で王宮騎士に紛れ込み、両親の仇を討つ機会を虎視眈々と窺っている。
彼の両親の死は、カリーナが時間を巻き戻す前の出来事であるため、今からどうあがいても救うことはできない。
けれど、代わりにできることくらいはしてあげたい。
カリーナは前世の知識――原作で二人が復讐の過程で見つけ出した、エリックや彼を支援する貴族たちがヴァレン家を陥れた決定的な証拠の在り処を思い出し、彼への手紙をしたためた。
『突然の手紙をお許しください。
ヴァレン伯爵家が無実の罪を着せられ、処刑されたことを私は知っています。
裁判で伯爵家に不利な偽証をした元従僕は、今『バレル』と名を変え、王都東区の娼館街の裏手に身を隠しています。
また、ヴァレン伯爵家が陥れられたことを示す決定的な証拠が、エリック殿下の執務室に隠されています。
黒檀の机の一番下の引き出しを抜き取ってください。そのさらに奥に、隠し収納があります。
どうか、あなたが長く探していた答えに辿り着けますように』
あえて宛名も差出人も残さなかった。
手紙を丁寧に折りたたむと、カリーナはその日の夜中、全ての準備を整えてこっそりと公爵邸を抜け出した。
目立たない地味な外套を羽織り、姿を隠すように頭から深くフードを被る。
向かった先は、王都の下町にある大衆酒場だった。
非番の騎士たちがよく集まって安酒を飲んでいる、騒がしく熱気にあふれた店だ。
紫煙と酒の匂いが充満する喧騒の中、カリーナが客の一人に尋ねると、すぐに分かった。
部屋の隅の席で、一人静かにグラスを傾けている、どこか陰のある黒髪の青年。
下を向いているため顔はよく見えないが、彼こそがレイ・アルトらしい。
原作には挿絵がなく、黒髪の若い騎士という程度の描写しかなかったため、カリーナは彼の顔を知らない。
だが、この酒場のこの席をよく使うことは原作で知っていた。
おそらく間違いないだろう。
給仕にお金を握らせて渡してもらうこともできたが、確実に彼の手元に届けたかった。
もちろん、自分の正体を明かすわけにはいかない。
カリーナは少し考えた後、酔客たちの波に紛れながら、ルシウスのテーブルの背後へと近づいた。
そして、彼の真横を通り過ぎる一瞬――。
「――あなたが探している答えです」
彼にだけ届くような声でそう囁き、テーブルの上に、折りたたんだ手紙をすっと滑り込ませた。
「なっ……!?」
背後で椅子が大きく引かれる音がした。
公にはとうに断絶したはずのヴァレン家だ。
その名を、偽名で生きる彼の耳元で突然囁いたのだ。
反応したところからして、やはり彼がルシウスなのは間違いない。
追いかけてこようとするのは当然だろう。
だが、そこまで折り込み済みである。
次の瞬間。
「おいコラ! 俺の酒に何ぶつかってんだ!!」
「あぁ!? てめえが勝手によろけたんだろうが!!」
ルシウスのすぐ隣のテーブルで、屈強な傭兵風の男たちが突如として殴り合いの大乱闘を始めたのだ。
怒号とともに椅子が倒れ、ジョッキが宙を飛ぶ。
瞬く間に周囲の酔客まで巻き込まれ、ルシウスとカリーナの間には人の壁ができあがった。
実はカリーナは、彼に近づく直前、柄の悪そうな男たちに金貨を数枚握らせ、
「あの席の男に酒をぶっかけて喧嘩を売ってちょうだい」
と頼んでおいたのだ。
もちろん、本気で怪我をさせる必要はない。
ただ少しの間、足止めしてくれればそれでいい。
「待て!」
騒ぎの向こうからルシウスの声が飛んできたが、カリーナは振り返らなかった。
酔客たちの間をすり抜け、そのまま裏口から酒場を抜け出す。
そこから細い路地を二度曲がり、人通りの多い大通りへ紛れ込んだところで、ようやくフードの下から小さく息を吐いた。
これなら、すぐには追いつかれないだろう。
とにかく無事に手紙さえ彼の手に渡ったのなら、それで十分だ。
これで、彼女がこの国でやるべきことはすべて終わった。
復讐?
ざまぁ?
そんなことに自分の貴重な時間を費やすなんて、人生の無駄遣いにもほどがある。
ドロドロの愛憎劇に付き合って陰謀を巡らせる暇があるなら、見知らぬ土地でもっと楽しいことをして笑って生きたい。
あと、どうせなら、前世で叶えられなかった夢も叶えてみたい。
せっかくもう一度人生を生きるのなら、誰かを憎むことではなく、そういう楽しいことに時間を使いたい。
これは逃亡ではない。
彼女自身の輝かしい未来のための、意味のある撤退なのだから。
そして、翌日の早朝。
王都の空が白み始めた頃、カリーナは港から出港する、東の大陸行きの大型客船の甲板に立っていた。
「あー、すっきりした! やっぱりこの口調が一番しっくりくるわー」
海風に吹かれながら、カリーナは大きく伸びをする。
腰まであった丁寧に手入れされた金髪は、出港前に自分で肩の高さまでバッサリと切り落とし、目立ちにくいようくすんだ茶色に染めている。
服装も、動きやすい町娘風の質素なものに着替えた。
顔立ちも前髪と丸眼鏡で上手くごまかしている。
これなら、あの完璧な公爵令嬢カリーナだとは誰も思わないだろう。
前世の記憶が戻ったことで、息苦しいお嬢様言葉もすっぱりと捨てた。
素の自分の言葉で喋れるというだけで、驚くほど気分が軽い。
カリーナが目指している東の大陸は、小説の設定――というより、前世の知識からすると、かつての日本に酷似した文化を持つ地域だった。
つまり、あそこに行けばお米がある。
お醤油がある。
しかもお味噌汁が飲めるのだ。
今日、あのパーティーでエリックたちが彼女の不在に気づけば、激怒して国家反逆罪をでっち上げ、指名手配犯として追手を放つかもしれない。
だが、東の大陸はこの王国とは海を隔てて遠く離れており、法律も全く異なる特殊な独立圏だ。
王国の権威も捜査の手も、あの大陸には容易には届かない。
逃亡先としてはこれ以上ない場所だった。
「さようなら、クソみたいな断罪イベント。私は東の国で、美味しいお米とお魚を食べてのんびり幸せに生きていくから!」
朝日に輝く海に向かって、カリーナは晴れやかな笑顔でそう宣言する。
船はゆっくりと波をかき分け、彼女の新しい、そして自由な人生へと向かって進んでいくのだった。
◇
カリーナを乗せた船が順調に大海原を進んでいた頃、王家主催の建国記念パーティーが開かれている大広間では、華やかな雰囲気とは裏腹に、異様な緊張が漂っていた。
「……遅い。まだ到着しないのか」
第一王子エリックは、一人で壁際に立ち、手にしたシャンパングラスを苛立たしげに揺らした。
今日この場で、彼は婚約者であるカリーナを、数々の不正に手を染めた稀代の悪女として断罪する手はずだった。
証拠も証言者も、すでにすべて揃っている。
だが、パーティーが始まって一時間が経過しても、肝心のカリーナは姿を現さなかった。
やがて、血相を変えた近衛騎士がエリックの元へやってくる。
「殿下、ステラフォン公爵が、別室で至急お話をしたいと……」
舌打ちを隠し、エリックが急いで控え室へ向かうと、そこには青ざめた公爵夫婦と、事情を聞いて駆けつけたらしいカンナの姿があった。
「どういうことです、公爵。カリーナが欠席とは」
「実は、今朝これが部屋に残されておりまして……」
手渡されたのは、カリーナが自ら婚約者の立場を捨て、遠方へ去ったことを告げる手紙だった。
エリックの胸に、一瞬だけ嫌な予感が走る。
――計画に気づかれたか。
だが、すぐに考えを切り替えた。
逃げたのなら、むしろ都合がいい。
罪が暴かれる直前に逃亡したことにしてしまえばいいのだから。
「公爵。……残念ですが、真実をお伝えせねばなりません」
エリックは重々しい顔を作り、あらかじめ用意していた、カリーナの犯罪の証拠書類をドンッとテーブルに置いた。
「カリーナが数々の不正に関わっていたことを示す証拠です。すでに証言してくれる者も複数おります」
公爵夫妻が息を呑む。
「そんな……カリーナが……?」
その時だった。
それまで黙っていたカンナが、ためらうように声を上げた。
「あの……私、実は……少し前に、カリーナのお部屋で見慣れない書類を見たことがあるんです」
ここでエリックは、驚いたような顔を作ると彼女を見つめる。
「書類?」
「はい。でも、勝手に見てはいけないと思って、その時は何も言えなくて……。内容も、まさかと思うようなものでしたから。私も信じたくなかったんです。カリーナは大切な親友ですもの……」
そう言いながら、カンナは痛ましげに目を伏せた。
「殿下。もしかしたら、まだお部屋に何か残っているのでは……?」
エリックは一瞬考え込むふりをした後、すぐさま近衛騎士へ命じた。
「今すぐステラフォン公爵邸へ向かい、カリーナの私室を調べろ。公爵、よろしいですね?」
公爵は青ざめたまま、重く頷くしかなかった。
そしてしばらくして戻ってきた騎士たちは、封を施した書類の束を抱えていた。
「殿下。カリーナ嬢の私室より、こちらを発見いたしました」
それは、不正な金の流れを示す帳簿や、政敵を陥れるための指示書だった。
もちろん、そのすべてが偽物である。
親友としてカリーナの私室へ出入りできたカンナが、あらかじめ忍ばせておいたものだった。
「そんな……」
公爵夫人の顔から血の気が引く。
「私……最後まで、カリーナを信じたかったのに……」
ここで、カンナはとうとう涙を零し、役者顔負けの演技を見せる。
まさに親友を案じる可憐な令嬢そのものだ。
だが、罪を裏付けるかのように私室から見つかった証拠によって、カリーナの突然の失踪は、もはや『罪を悟って逃げた』としか見えなくなった。
エリックは直ちに国中にカリーナの手配書を回し、国家反逆罪の容疑者として大々的な捜索を開始した。
主犯である彼女を極悪人として世間に公表し、すべての罪を被せたのだ。
ステラフォン公爵夫妻が娘の無実を訴えることはなかった。
それどころか、公爵家への疑いが向くや否や、カリーナを即座に勘当し、「娘がこのような罪に手を染めていたとは知らなかった」と早々に切り捨てたのである。
家から犯罪者を出した責任を問われ、公爵自身も王宮での役職の一部を失ったが、それでも家そのものは守られた。
そして――エリックは予定通り、悪しき親友の所業に最後まで心を痛め続けた可憐な侯爵令嬢であるカンナと正式に婚約を発表した。
カリーナの行方は一向に掴めなかったが、二人の関係に影を落とすことはなかった。
世間では、逃亡したカリーナこそが己の罪を認めたのだという見方が強まり、エリックとカンナには同情さえ集まった。
数カ月後、国中の民衆から祝福される中、エリックとカンナは盛大で、最高に幸せな結婚式を挙げたのである。
◇
東の大陸の海沿いにある活気あふれる港町で、カリーナは最高に充実した日々を送っていた。
「はい、お待たせ! サバの塩焼き定食、ご飯大盛りね!」
「おう、アンジーちゃん! いつもすまねえな!」
湯気を立てる白いふっくらとしたお米に、出汁の効いたお味噌汁、そして脂の乗った焼き魚。
念願だった日本食に似たご飯に感動したカリーナは、持ち前のコミュニケーション能力――というより、前世で培った営業スマイルとコミュ力まで総動員し、あっという間に町の人々と打ち解けた。
今では、アンジーという偽名で、港の近くにある大衆食堂『海猫亭』の看板娘として、毎日楽しく働いている。
もっとも、店主だけはカリーナの本当の名前も、海の向こうの国で指名手配されていることも知っていた。
――三年前、この街へ流れ着いて住み込みの働き口を探していた時、何も知らない相手を巻き込むのはさすがに気が引けて、カリーナ自身が事情を打ち明けたのだ。
それでも店主は、しばらく彼女の顔を見つめたあと、
「海の向こうで何者だったかなんて知らねえよ。うちで真面目に働くなら、それでいい」
と豪快に笑って雇ってくれた。
それ以来、カリーナは接客だけでなく、仕入れや帳簿、厨房を手伝ったり、新しい定食を考えたりと、少しずつ店の仕事を任されるようになった。
気づけば売り上げも客足も以前より伸び、最近では店主から、いずれはお前にこの店を継いでもらいたいとまで言われている。
実はカリーナも、それを密かに楽しみにしていた。
前世では料理が得意であり、いつか自分の店を持ちたいと思いながら、結局叶えることができなかった。
だが、まさか転生した先で、その夢が現実になりそうだとは思ってもみなかった。
三年前まで身につけていた公爵令嬢らしい窮屈なドレスもコルセットとも、今ではすっかり無縁の、自由で美味しい毎日だ。
そんな平和な食堂に、ここ一カ月ほど、毎日通い詰めている常連客がいた。
それが今、カウンターの隅で姿勢良くお茶を飲んでいる黒髪の青年である。
彫りの深い端正な顔立ちをしているが、どこか近寄りがたい雰囲気があり、世間話どころか、いまだに名前すら聞けていない。
どうやら最近、この大陸へやってきた旅人らしい。
「お客さん、今日もいつもの定食でいい? あ、そうだ、新鮮なお刺身もあるんだけど追加でどう?」
「それもつけてくれ」
「はいはい。毎度ありー」
カリーナが笑いながら湯呑みに茶を注ぎ足すと、青年はそれを一口飲んだ後、唐突に口を開いた。
「……君は、確かカルイア国の出身と言っていたな」
「うん、そうだけど?」
カリーナがカルイアから来たこと自体は、常連客なら誰でも知っている。
だが、海の向こうで指名手配されている公爵令嬢の話など、この遠い港町まで届くことはほとんどない。
アンジーと名乗る食堂娘が、その本人だと疑う者などいるはずもなかった。
だからカリーナも、彼が単に故郷の話でも振ってきたのだろうと、特に警戒はしなかったのだが。
「なら、第一王子エリックとその妻カンナが、投獄されたことは知っているか?」
「うぇっ!?」
カリーナの口から思わず素っ頓狂な声が飛び出す。
それから彼が語り出したのは、カリーナが全てを放置して逃げ出したあの国での、エリックとカンナの、その後の顛末だった。
「あの二人は、結婚してしばらくは幸せの絶頂だったらしい。だが、現在は大混乱に陥っている。二人は近く、正式な裁きを受けることになっている」
一体何がどうなってそんなことになったのか。
ピークタイムを過ぎて他にお客もいないため、カリーナは厨房に向かって「少し休憩もらいますね!」と声をかけた。
そして完全に聞くモードになったカリーナは男の隣の席に腰かけ、真剣な眼差しで続きを促した。
「事のはじまりは、三年前。ヴァレン伯爵家の冤罪を示す情報が、とある王宮騎士のところへ届いたことだ」
身に覚えがありすぎたカリーナは悲鳴を上げそうになったが、何とかこらえておとなしく続きを聞く。
「男は、以前処刑されたと思われていたヴァレン伯爵家の生き残りだった。そこには偽証した元従僕の居場所と、証拠の在り処が書いてあった。調べると、両方とも本物だった」
「それで、その人は?」
「その騎士が捕まえた。元従僕は最初は黙ってたが、このままだとすべての罪を被せられると分かった途端、全部喋ったんだ」
そして、伯爵家生き残りの男は、その証言を確保したうえで、自身の正体を明かすとともに、ヴァレン家の再調査を王宮へ求めたという。
それをもとに正式な捜査が始まり、やがてエリックの執務室から、ヴァレン伯爵家を陥れた証拠だけでなく、王宮予算の横領や政敵を失脚させるための謀略に関する記録まで次々と見つかったという。
そう、つまり。
「当然、三年前のお前――いや、カリーナ・ステラフォンの事件も調べ直された」
カリーナの眉がぴくりと動く。
だが青年は気にした様子もなく、手元の湯呑みを見つめたまま淡々と続けた。
「当時の証人には金が流れていた。お前の部屋から出たという証拠も偽物だった。カンナが親友という立場を利用して、あらかじめ忍ばせていたことも分かった」
三年越しに改めて聞いてみても、やはり最低である。
「一人捕まれば、あとは早かった。皆、自分だけ助かろうとして喋った。それだけじゃない。捜査がエリックとカンナ本人にまで及んだ途端、今度はあの二人が互いに罪を押しつけ始めた」
「え?」
「カンナは『殿下に命じられただけ』、エリックは『あの女が勝手にやった』とな。自分だけ助かろうとして、相手しか知らないはずの不正まで次々と喋ったらしい」
「うわぁ……」
「おかげで、捜査側がまだ把握していなかった罪まで芋づる式に出てきた。今では別々の牢から、減刑してもらおうと互いの罪を証明する証言書を出し続けているそうだ」
「……最後まで仲がいいんだね。悪い意味で」
「そういうことになるな」
ルシウスは淡々と頷いた。
自分を破滅させるために手を組んだ二人が、最後には自分だけ助かろうとして互いを破滅させているとは、ずいぶん皮肉な結末だ。
もっとも、原作の二周目では、カリーナとルシウスが自ら手を汚し、二人をもっと凄惨な破滅へ追い込んでいた。
それに比べれば、今回はずいぶんあっさりしたものだ。
カリーナがしたのは、三年前に一通の手紙を残して逃げたことだけ。
あとは彼らが、自ら積み重ねた罪で勝手に転がり落ちていった。
この先には相応の裁きも待っているだろう。
だが今のカリーナには、そんな二人の末路よりもよほど気になることがあった。
「あの…………もしかして、私が誰か、気づいてる?」
「ああ」
あっさりと頷かれ、背筋がひやりとする。
――まさか、この男は自分を連れ戻すために王国から来た追手なのではないか。
思わず厨房の裏口へ視線を走らせるが、青年はすぐにカリーナの不安を悟ったのか、首を横に振った。
「違う。俺はお前を捕まえに来たわけじゃない。それに安心しろ。カリーナ・ステラフォンの無実も証明された。お前はもうお尋ね者じゃない」
「……じゃあ、あなたはどうして私のことを?」
青年は答える代わりに、懐から一枚の古びた紙を取り出し、カウンターへ置いた。
カリーナはそれを見た瞬間、目を見開く。
「これって……」
間違いない。
三年前、王都を出る直前に自分が書いた手紙だった。
ヴァレン伯爵家の冤罪を晴らすための情報を記し、王宮騎士レイ・アルトへ託したものだ。
それを彼が持っているということは――。
「もしかしてあなた、レイ・アルト!?」
あの夜、酒場の隅で一人グラスを傾けていた黒髪の騎士の顔は見えなかったので、今の今まで分からなかった。
カリーナは改めて、目の前の男をまじまじと見つめる。
原作の二周目で、自分と手を組み、血塗られた復讐を繰り広げるはずだった男。
その本人が、なぜか今、海を越えた食堂に毎日定食を食べにきている。
「……世間って狭すぎない?」
「海は越えたけどな」
「そういう意味じゃないから」
深い深いため息をつくカリーナに、青年は少しだけ口元を緩めた。
「さて、俺の本当の名は、ルシウス・ヴァレンだ。……もっとも、三年前のお前は、俺がヴァレン家の人間だと知っていたようだが」
カリーナの体がびくりと跳ねる。
前世で読んだ原作を知っていたから――などと、説明できるはずがない。
だが、ルシウスはそれ以上追及せず、小さく息を吐いた。
「まあいい。事情は聞かない」
「え?」
「ただ俺はお前のおかげで両親の無実を証明できた。もしも会うことがあるなら、その礼を言いたかっただけだ」
「ルシウス……」
目の前にいる彼はどこか憑き物が落ちたような、穏やかな顔をしている。
それを見てカリーナは、全てが終わったのだと悟った。
「あの、エリックたちが自滅して、ヴァレン家の無罪は完全に認められたんだよね? じゃあ、ルシウスさんは伯爵様になるの?」
「いや」
カリーナの問いかけに、ルシウスは静かに首を横に振った。
「その話を王家からもされたが、俺は爵位を継ぐ気はない。だから断った」
「えっ、どうして? せっかくお家が再興できるのに」
「俺が欲しかったのは爵位じゃない。両親の無念を晴らすことだけを考えて生きてきたんだ。だから――」
ルシウスは手元の湯呑みを見つめ、ぽつりと呟いた。
「終わったら、何もなくなった」
「何も?」
「仇を討つことしか考えてなかったからな。その先を考えてなかった」
ルシウスは湯呑みを置くと続ける。
「だから騎士を辞めて、国を出たんだ。旅にでも出ようかと思ってな」
「そうだったんだね……。でも、なんでこんな東の大陸まで? ……まさかまさか、私を探してここまで来たなんてことはないよね」
自惚れかもしれないと思いつつ尋ねると、ルシウスはあっさりと否定した。
「お前を追って海を越えたわけじゃない。この大陸に来たのは、本当に旅の途中だ。ただ、この店に入ったのは完全な偶然でもない」
港で、西の大陸から来た若い女がこの店で働いている、という話を耳にしたルシウスは、少し気になって、店を覗いてみたらしい。
「そしてこの食堂で……お前の声を聞いた」
ルシウスはまっすぐカリーナを見つめた。
「あの日、酒場で俺に手紙を押し付けて逃げた、あの時の声を覚えていたから、もしやと思って観察していた」
「ええっ、声だけでそこまで分かったの!?」
「確信していたわけではない。酒場でも顔はよく見えなかった。おまけにお前はアンジーと名乗っていた」
「ちょっと待って。じゃあ、私がカリーナかもしれないって疑いながら、一カ月も毎日通い詰めてたってこと? もっと早く聞いてくれればよかったのに」
「お前がカリーナだと確信を持てたら礼を言おうと機会を伺っていたんだ。途中でお前が探し人だと確信はしたんだが」
ルシウスは気まずそうに視線を逸らし、耳の端を少し赤くした。
「ここの飯が、すごく美味かったんだ」
「ああ、それは分かる」
冗談抜きにこの街の、いや、この食堂のご飯は美味しいとカリーナは思っている。
ルシウスが虜になるのももっともだと、うんうんと頷くカリーナ。
「それに、お前が毎日楽しそうに笑って働いてるのを見てたら、過去の話を持ち出して邪魔をするのもどうかと思ってな」
そして、人の目がある時間帯はまずいだろうしと様子を見ているうちに、すっかりここの常連になってしまったそうだ。
そんなルシウスに、カリーナは呆れながらも笑ってしまった。
ルシウスも小さく笑い、やがて真剣な顔つきに戻る。
「カリーナ。ちなみにお前の両親は、勘当した娘の無実が証明されたからとお前を探している。戻れば、公爵令嬢としての地位も名誉も取り戻せるが……戻りたいか?」
「戻るわけないでしょう。絶対に」
一秒の迷いもなく即答したカリーナだが、ルシウスはその答えを予想していたらしく特に驚かなかった。
「だって、今さらあんな面倒くさい貴族の生活に戻るメリットもないし。どうせ都合のいいところに嫁がせられるだけだから。それに明日は、沖に出ていた漁船が戻ってくるし。しかも、運が良ければ、大物のマグロが入る予定で!」
「マグロ……?」
ルシウスが眉根をひそめる。
彼が知らないのも無理はない。
マグロはこの世界でも非常に希少で、この港町以外では、ほとんどお目にかかれない代物なのである。
カリーナはルシウスに、マグロについて熱弁をふるった後、うっとりとした心地で宙を見る。
「ああ、マグロ、早く食べたい……。赤身に中トロ、大トロの刺身、ネギトロやマグロカツにしてもいいし、煮つけもそそられるし。あ、それに、そのうちここを継ぎたいなぁと思っているんで、私、今おやっさんに色々と教えてもらってる最中なんだぁ。だから戻らないよ。うん、もう何があっても戻るつもりはないから!」
腰に手を当てて胸を張るカリーナを見て、ルシウスはしばらく呆けたように固まり――やがて、肩を震わせて堪えきれないように吹き出した。
「……王国での地位より、マグロとこの食堂か」
「笑わないでよね! それに私、ずっと自分のお店を持つのが夢だったんだよね。それが叶いそうなのに、今さら息苦しい生活なんてごめんだって」
「確かにそれはそうだな」
ルシウスは深く同意するように頷いた。
そして、店内をぐるりと見渡す。
「……俺も、この街が気に入った。だからここに腰を落ち着けようかと思ってる」
「旅はもういいの?」
「ああ。空っぽになってた俺だが……お前を見てたら、俺も少し、自分の好きに生きてみたくなったんだ」
そして、ルシウスはカリーナを真っ直ぐに見た。
「だから、俺もこの店で雇ってもらえないか、店主に頼んでみようと思うんだが」
「えっ、元騎士様が定食屋で働くの!?」
「剣しか能がないが、力仕事ならできる。皿洗いでも何でもやる」
すると、厨房の奥から「おう、そいつは助かるぜ!」と野太い声が響いた。
「おやっさん!」
暖簾をくぐって顔を出したのは、頭に手ぬぐいを巻いた恰幅のいい店主だった。
手にはルシウスの頼んだ定食と、カリーナ用のまかない料理が乗ったお盆が握られている。
「盗み聞きするつもりはなかったんだが、最後の方だけ会話が聞こえきてな。ちょうど店が繁盛してきて人手が足りねえと思ってたとこだ。あんちゃん、本当にうちで働いてくれるのか?」
「ああ。迷惑でなければ」
「迷惑なもんかい! むしろ俺は大歓迎だよ」
ルシウスが迷いなく頭を下げると、おやっさんは豪快に笑い、皿をドンッとカウンターに置く。
「じゃあまず、明日の朝五時に港に集合な。港町の朝は早いからな。マグロの解体も、きっちり手伝ってもらうぜ?」
試すように目を細めたおやっさんに、ルシウスはわずかに目を丸くした。
だが、すぐに頼もしい笑みを浮かべて頷く。
「騎士団の朝練と変わらないな。望むところだ」
「ひゅー、頼もしいねえ! アンジー、お前さんいい男を連れてきてくれたじゃねえか」
「ちょっ、おやっさん、変な勘違いしないでよ!」
からかってくる店主に、カリーナは慌てて抗議する。
そんな二人をよそに、ルシウスは自分の前に置かれた定食の箸を割りながら、至極真面目な顔で告げた。
「これからは剣の代わりに、包丁の素振りを日課にしよう」
「それ絶対に近所の人から不審者扱いされるやつ!」
「いい心がけじゃねぇか! ますます気に入ったぞ」
冗談とも本気ともつかないルシウスの言葉に、カリーナと店主の明るい笑い声が店内に響き渡る。
目の前には、湯気を立てる美味しいご飯。
気のいい店主。
そして、思わぬ形で再会した新しい同僚。
この温かい空間にはもう、王国のしがらみも、過去の暗い影もどこにもない。
かつて血塗られた復讐の相棒になるはずだった男は、今では剣ではなく包丁を握ろうとしている。
そんなルシウスと笑い合いながら、カリーナは今日も平和な東の大陸で、世界一美味しい幸せを噛み締めている。




