第4話 沈黙する宰相
最初の悲鳴が上がったのは、宴が再開されてから十分も経たない頃だった。
「殿下、少々よろしいでしょうか」
声を潜めて近づいてきた侍従は、明らかに顔色が悪かった。
アルトレインはわずかに眉をひそめる。
「何だ。今は――」
「東棟の来客室にて、席順の不備が発生しております。重複が……三件」
「三件?」
周囲の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
些細なことだ。
本来ならば、取り立てて問題にするほどではない。
だが、宴の中心にいる者たちにとって、“不備”は目立つ。
「担当は何をしている」
「確認中とのことですが……原因が特定できておりません」
「馬鹿な。席順は事前に確定しているはずだ」
その通りだ。
確定している。
ただし、“維持されていれば”の話だ。
「申し訳ございません。すぐに修正いたします」
侍従は深く頭を下げ、足早に去っていく。
アルトレインは小さく息を吐いた。
「些細な不手際だ。騒ぐほどのことではない」
自分に言い聞かせるように、そう口にする。
「ええ、殿下」
柔らかな声が返る。
セレナだった。
「このような場で多少の混乱はつきものですわ。それに――」
彼女は一瞬だけ、扉の方へ視線を向ける。
すでに閉ざされた、大広間の出口。
「余計な干渉がなくなれば、いずれ整います」
周囲の貴族たちが頷く。
「まったくその通りだ」
「今までが異常だったのだ」
「殿下のご判断は正しい」
称賛の声が重なる。
アルトレインはそれを受け止め、わずかに胸を張った。
正しい判断をした。
そうでなければならない。
「……宰相」
呼びかけられて、グレン・ヴァルドールはゆっくりと視線を上げた。
「何でしょう」
「今の件、問題はないな」
問いというより、確認だ。
答えは決まっているはずのもの。
グレンは一瞬だけ沈黙した。
ほんのわずか。
だが、それはこの場では異様に長く感じられる沈黙だった。
「……現時点では」
ようやく返された言葉は、曖昧だった。
アルトレインの眉がわずかに動く。
「歯切れが悪いな」
「事実を述べただけです」
「席順の不備など、すぐに修正できるだろう」
「通常であれば」
グレンは淡々と続ける。
「通常であれば?」
「ええ」
それ以上は言わない。
説明も、補足も。
ただ、事実だけを置く。
その態度が、かえって不快だった。
「……要領を得ないな」
アルトレインは視線を外す。
宰相の言い方は、いつもこうだ。
必要以上に語らない。
だが今は、その沈黙が妙に引っかかる。
「殿下」
別の声が割り込んだ。
近衛騎士団長だ。
「厨房でも混乱が起きているようです。仕入れの帳簿が合わず、供給が遅れているとのこと」
「またか」
さすがに、空気が変わる。
二件。
しかも同時。
「連携が取れていないだけだろう。すぐに収まる」
アルトレインは言い切る。
そうでなければ困る。
「はい、現在調整中とのことですが……」
騎士団長はそこで言葉を切った。
「何だ」
「……原因が、特定できていないようです」
その一言で、場がわずかに冷えた。
原因がわからない不備。
それは、最も厄介な種類の問題だ。
「そんなはずはない」
アルトレインは強く言う。
「すべて記録されている。誰が、どこで、何を担当しているか」
「ええ」
グレンが静かに応じる。
「記録はございます」
「ならば問題はない」
「問題は」
グレンはわずかに視線を動かす。
「その記録を、誰も全体として見ていないことです」
沈黙。
今度は、明確な違和感を伴う沈黙だった。
「……どういう意味だ」
「各部署は、それぞれの職務を果たしております。帳簿は帳簿係が、席順は侍従が、来客は外務が」
「それがどうした」
「それらが、互いに影響を及ぼす場合」
グレンは淡々と続ける。
「どこで調整が行われるのか、という問題です」
アルトレインは答えない。
いや、答えられない。
その役割は、明文化されていない。
だが確かに、存在していたはずのものだ。
「……宰相」
セレナが口を開く。
「それは、各部署の責任ではありませんか?」
「理想としては」
グレンは頷く。
「しかし実際には、利害が衝突いたします」
「それをまとめるのが上位の役目でしょう」
「ええ」
グレンの視線が、ゆっくりとアルトレインへ向く。
「本来は」
その言葉に、わずかな重みが乗る。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言え」
アルトレインは不機嫌を隠さない。
「では」
グレンは一歩だけ前に出る。
「殿下は、本日、どなたにその役割をお任せになりますか」
直球だった。
逃げ道のない問い。
「……それは」
言葉が止まる。
当然だ。
考えていなかったのだから。
「必要ありませんわ」
セレナがすぐに割って入る。
「そのような特別な役割に頼らずとも、皆で協力すれば解決できます」
周囲が頷く。
「そうだ、今までが過剰だったのだ」
「一人に権限が集中しすぎていた」
「健全な形に戻るだけだ」
正しい。
理屈としては。
だが。
「……」
グレンは何も言わない。
否定も、肯定も。
ただ、静かに見ている。
その態度が、アルトレインにはひどく苛立たしかった。
「問題はない」
改めて言う。
「すべては調整可能だ」
「承知いたしました」
グレンはあっさりと引いた。
それ以上、何も言わない。
だが。
その沈黙は、先ほどとは違う意味を持っていた。
――見ている。
結果を。
そのまま。
「殿下!」
再び、声が飛び込んでくる。
今度は若い侍従だ。
明らかに取り乱している。
「何だ!」
「東棟だけでなく、西棟でも来客の衝突が発生しております! さらに、南棟では食材の不足が――」
「同時に?」
「はい! 対応が追いつかず――」
ざわめきが広がる。
三件。
いや、四件。
同時多発。
「落ち着け!」
アルトレインが声を張る。
「順番に処理すればいい!」
「しかし、その順番が……決められません」
侍従の声が震える。
「どこから手をつけるべきか、判断が……」
まただ。
判断。
誰がするのか。
その問いが、じわりと広がる。
「……」
アルトレインは無意識に、ある人物を探した。
そこにいるはずのない人物を。
すぐに気づく。
もう、いない。
「……宰相」
低く呼ぶ。
「お前が指示を出せ」
「可能ではあります」
グレンは即答する。
「ですが」
「だが?」
「全体を把握するには、時間が必要です」
「どれくらいだ」
「半日」
長い。
致命的に。
「……それでは遅い」
「ええ」
グレンは頷く。
「遅いでしょう」
あっさりと。
まるで、それが当然であるかのように。
その瞬間。
アルトレインの中で、何かが引っかかった。
ほんの小さな違和感。
だが、確かにそこにある。
なぜ今まで、そんな時間は必要なかったのか。
なぜ、すぐに判断できていたのか。
なぜ――
「……殿下?」
セレナの声で、思考が途切れる。
「ご安心ください。すぐに整いますわ」
その笑顔は、変わらず優しい。
だが。
アルトレインは初めて、その言葉にわずかな疑問を覚えた。
本当に?
整うのか?
何も変わらずに?
その疑問は、すぐには形にならない。
ただ、胸の奥に残る。
小さな棘のように。
そして。
その棘は、確実に大きくなる。
少しずつ「おかしさ」が表に出てきました。
まだ誰も答えには辿り着いていませんが、確実に“何かが足りない”と感じ始めています。
その正体に最初に気づくのは誰なのか。
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