第3話 承知いたしました
王宮の灯りが遠ざかるにつれて、音も消えていく。
だが、完全な静寂は訪れない。
あの場所は今、音を増やしているはずだからだ。
「……」
馬車の揺れは一定だった。
だが、思考だけが静かにずれていく。
帳簿。
席順。
人事。
すべては、ほんの少しの“調整”で保たれていた。
ほんの少し。
だから、誰もそれを“仕事”とは認識していなかった。
「リディア様」
御者の声が、控えめに届く。
「このまま邸にお戻りでよろしいでしょうか」
「ええ」
短く答える。
それ以外の選択肢はない。
今はまだ。
馬車は石畳を滑るように進む。
夜の王都は、思ったよりも静かだ。
――まだ、何も起きていない。
いや、正確には。
起きているが、認識されていない。
それだけの違いだ。
「止めてください」
私はふと、言った。
御者がすぐに手綱を引く。
馬車はゆっくりと速度を落とし、やがて止まった。
「何かございましたか」
「少し、外を」
扉を開けると、夜気が流れ込む。
冷たい。
だが、嫌いではない。
石畳に降り立ち、周囲を見渡す。
ここは王宮から少し離れた通り。
貴族街に入る手前の、比較的静かな場所だ。
それでも、人の気配はある。
「……あれ?」
不意に、小さな声が聞こえた。
振り向くと、街灯の下に見覚えのある姿があった。
「リディア様……?」
エルナだった。
先ほど王宮へ戻ったはずの侍女が、なぜここにいるのか。
「あなた、戻ったのでは」
「戻りました……ですが、その、すぐに外へ出るようにと命じられて……」
息が上がっている。
走ってきたのだろう。
「厨房の混乱が広がって、それから来客の対応も重なって……とても手が足りない状態で……」
早い。
予想より、少しだけ。
「それで、なぜここに?」
「応援の人員を呼びに出たのですが……その途中で、リディア様の馬車が見えて……」
迷ったのだろう。
戻るべきか、声をかけるべきか。
「……なるほど」
私は頷く。
「それで、状況は?」
エルナは一瞬戸惑い、それから言葉を選ぶように口を開いた。
「その……おかしいのです」
「具体的には」
「すべてが少しずつ、噛み合っていなくて……」
彼女は手をぎゅっと握りしめた。
「帳簿の数字が合わないだけでなく、誰に何を任せたかの記録もずれていて……」
「来客の席も、重複や空席が同時に発生していて……」
「それから、侍女の配置も……なぜか同じ場所に集中してしまっていて……」
言葉が早くなる。
焦っている。
だが、その内容はすべて予測通りだ。
「原因はわかりますか」
私が問うと、エルナは首を振った。
「いえ……ですが、皆が同じことを言っています」
「何と」
彼女は一度だけ深く息を吸った。
「“なぜ今まで問題がなかったのか、わからない”と」
少しだけ、間が空く。
そして。
「……そうですか」
私は静かに言った。
それが答えだ。
問題は、今起きたのではない。
今まで“起きなかった”だけだ。
「リディア様」
エルナが一歩踏み出す。
「これは……偶然ではありませんよね」
いいところまで来ている。
だが、まだ足りない。
「偶然ではありません」
私ははっきりと言う。
「では……」
彼女の目が揺れる。
期待と、不安と。
そして、ほんの少しの恐れ。
「……誰が」
そこまで言って、言葉が止まる。
理解しかけている。
だからこそ、言えない。
私は答えない。
代わりに、問いを返す。
「あなたは、何を見ましたか」
「……え?」
「現象ではなく、行動を」
エルナは戸惑いながらも、思い返す。
「行動……」
しばらくの沈黙。
そして、ゆっくりと。
「……誰も、全体を見ていませんでした」
正解だ。
「それがすべてです」
私は言う。
「王宮は、個々の判断で動いています。帳簿は帳簿係、席順は侍従、来客は外務。すべて分業です」
「はい……」
「では、それらが衝突しないようにするのは、誰の役目ですか」
エルナは答えない。
いや、答えられない。
その役目は、公式には存在しないからだ。
「……」
沈黙が、理解に変わる。
ほんの少しずつ。
「……リディア様が」
小さな声だった。
だが、確かに言った。
「……その役目を」
「ええ」
私は頷く。
「していました」
エルナの顔から血の気が引く。
当然だ。
今まで見ていた世界が、形を変える瞬間なのだから。
「ですが」
私は続ける。
「もういません」
それだけの話だ。
単純で、明確で、どうしようもない。
「……戻って、ください」
エルナが言った。
ほとんど反射だった。
「このままでは……王宮が」
「崩れますね」
私はあっさりと肯定する。
彼女は息を呑んだ。
「……止められませんか」
「止める必要はありません」
「ですが!」
声が上ずる。
初めてだ。
感情が表に出た。
「多くの人が困ります! 混乱します! それは……間違っています!」
いい。
その反応は、とても良い。
「では、どうすればよいと?」
私は静かに問う。
「元に戻すべきです! リディア様がいらした状態に!」
「なぜ」
「なぜって……!」
言葉に詰まる。
理由が、まだ曖昧だからだ。
私は少しだけ、声を柔らかくした。
「エルナ」
「……はい」
「あなたは、先ほど“わからない”と言いましたね」
「……はい」
「その状態で、戻すべきだと判断するのは」
一拍。
「危険です」
彼女の目が揺れる。
理解と、反発と。
その両方がせめぎ合う。
「……では、どうすれば」
ようやく出てきた言葉は、正しい問いだった。
「見なさい」
私は言う。
「何が起きているのか。誰が何をしているのか。そして、どこで噛み合わなくなっているのか」
「……」
「それがわかれば、あなたは自分で判断できます」
私はそれ以上は言わない。
導くことはできる。
だが、選ばせるしかない。
それが、この役割の限界だ。
「……はい」
エルナは小さく頷いた。
まだ完全には理解していない。
だが、進み始めている。
「行きなさい」
「……はい!」
今度は迷わなかった。
振り返ることもなく、王宮の方へ走っていく。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
「……早いですね」
御者が呟く。
「何がですか」
「崩れるのが、です」
私は少しだけ考え、それから答えた。
「いいえ」
「え?」
「遅いくらいです」
それが、本音だった。
これほど長く持ったことの方が、むしろ異常なのだから。
馬車に戻り、再び腰を下ろす。
今度こそ、止める理由はない。
「邸へ」
「かしこまりました」
馬車が動き出す。
王宮の灯りが、さらに遠くなる。
その中で。
ひとつ、確実なことがある。
今夜、誰かが気づく。
そして、問いを口にする。
――あの女は、何をしていたのか。
それが、この物語の始まりになる。
少しずつ「ズレ」が形になってきました。
まだ誰も全体を理解していませんが、確実に何かがおかしいと気づき始めています。
そして、その“おかしさ”に最初に踏み込むのは誰なのか。
続きを気になっていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです。




