第10話 崩壊の始点
――すべてです。
その言葉が、頭から離れない。
「……殿下」
誰かの声で、意識が引き戻される。
気づけば、広間は再び動き出していた。
「帳簿の再配分、完了しております。供給の偏りも解消済みです」
「来客の誘導も終了しました。大きな混乱はありません」
報告は整っている。
流れもある。
表面上は、完全に“収束”していた。
「……そうか」
アルトレインは頷く。
だが、その声には、先ほどまでの確信はなかった。
収まった。
確かに。
だが――
「……」
違う。
何かが違う。
「殿下」
グレンが静かに言う。
「本日の対応は、これで一区切りとなります」
「……ああ」
「残りは、明日以降の調整となります」
「……そうだな」
“明日”。
その言葉が、妙に重く感じられる。
「……」
アルトレインは視線を動かす。
広間の隅。
誰も見ていない場所。
そこに、小さなズレがある。
「……」
床に置かれたままの箱。
本来は運ばれるはずの食材。
誰も気づいていない。
いや。
気づいているが、優先されていない。
「……あれは」
思わず呟く。
「はい?」
エルナが振り向く。
「……いえ」
アルトレインは首を振る。
今は、問題ではない。
そう判断した。
――今は。
「殿下」
ミレイユが近づく。
「来客の中に、すでに帰還を希望する者が出ています」
「……当然だな」
この混乱だ。
無理もない。
「対応は?」
「順次、馬車を手配しています。ただ――」
「何だ」
「一部で、配車の重複が発生しています」
まただ。
別の場所で、同じ現象が起きる。
「……帳簿は直したはずだ」
「はい」
「ならば、なぜ」
「……連動していません」
短い答えだった。
だが、核心を突いている。
「帳簿は修正されましたが、配車側の情報が更新されていない」
「……」
アルトレインは言葉を失う。
理解はできる。
だが。
そのズレを埋める手段がない。
「……」
再び、あの言葉が浮かぶ。
――すべてです。
「……」
ゆっくりと、息を吐く。
「エルナ」
「はい」
「配車と帳簿の照合を行え」
「……」
エルナは一瞬だけ止まり、そして答えた。
「承知いたしました」
動き出す。
だが。
その背中に、迷いがある。
当然だ。
一人でやる作業ではない。
「……」
アルトレインは気づいている。
今の指示は、“その場しのぎ”だ。
根本的な解決ではない。
「……宰相」
「はい」
「この状態、維持できるか」
「……」
グレンは一瞬だけ考え。
「短時間であれば」
そう答えた。
「……長時間は」
「崩れます」
即答だった。
容赦がない。
「……」
アルトレインは、ゆっくりと目を閉じる。
理解している。
今の状態は、“仮の均衡”だ。
いつでも崩れる。
少しのきっかけで。
「……」
その時だった。
「殿下!」
また、報告が飛び込む。
「何だ」
「西棟にて、来客の再配置が完了したはずの席で、再度衝突が発生しました!」
「……なぜだ」
「……わかりません」
わからない。
その言葉が、重なる。
「同じ席に、再び二組が配置されています!」
「帳簿は修正したはずだろう!」
「はい! ですが――」
侍従の声が震える。
「別経路の指示が残っていたようで……」
「……」
アルトレインは、ゆっくりと目を開く。
見えている。
構造が。
はっきりと。
「……複数の指示が、同時に存在しているのか」
「……はい」
「古い指示と、新しい指示が混在しています」
それが原因だ。
帳簿を直しても。
席順を直しても。
過去の指示が残っている限り。
ズレは消えない。
「……」
アルトレインは、静かに呟く。
「……消えていないのか」
「何がですか」
エルナが振り返る。
「……過去の調整だ」
言葉にした瞬間。
すべてが繋がる。
「……」
グレンが、わずかに目を細める。
「……」
「……そういうことか」
アルトレインは、一歩前に出る。
理解した。
ようやく。
「……あの女は」
低く、言う。
「“その場の問題”だけを消していたのではない」
誰も口を挟まない。
「……」
「過去の歪みも、同時に処理していたのか」
沈黙。
それが答えだった。
「……」
アルトレインは、ゆっくりと息を吐く。
重い。
想像以上に。
「……」
だから、今。
歪みが噴き出している。
過去の分まで。
「……」
その時。
また一つ、音がした。
今度は小さくない。
グラスが割れる音。
誰かの悲鳴。
「殿下!」
「南棟で再び衝突が!」
「配膳が完全に止まりました!」
止まらない。
終わらない。
どこを直しても、別の場所が崩れる。
「……」
アルトレインは、動かない。
いや。
動けない。
すべてを理解したからこそ。
「……宰相」
「はい」
「これは」
一拍。
「どこから手をつければいい」
初めてだった。
完全に、わからないと認めたのは。
グレンは、静かに答える。
「……一つずつでは、間に合いません」
「……」
「すべてを同時に整える必要があります」
「……それは」
無理だ。
今の自分には。
「……」
グレンは、わずかに視線を逸らす。
そして。
低く言った。
「本来であれば」
その先は、言わない。
だが。
誰もが理解している。
その先の言葉を。
「……」
アルトレインは、何も言わない。
ただ。
静かに。
その“空白”を見つめていた。
ここで「調整」の本質が一段深く見えてきました。
単に整えていたのではなく、過去と現在を同時に扱っていた。
だからこそ、いなくなった瞬間に“積み残し”が噴き出す。
この先、さらに一段崩れます。
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