第1話 公開断罪
ざまぁ系ですが、「なぜ崩れたのか」まで描きます。
ただの逆転ではなく、“構造ごとひっくり返す話”です。
「リディア・ヴァルシュタイン。お前との婚約を、ここで破棄する」
その瞬間、夜会の空気は一度だけ止まり、それから、ひどく軽くなった。
まるで誰かが、長く閉ざされていた窓を開けたかのように。
――そう見えたのだろう。
王都中の貴族が集まる春季披露宴。
金糸の幕、磨き上げられた大理石、宝石よりも高価な笑顔。
その中央で、第一王子アルトレイン殿下は、私をまっすぐ見下ろしていた。
「諸君も知っての通り、リディアは長く王宮に害をなしてきた。傲慢で、冷酷で、己の都合しか考えない。私はこれ以上、そのような女を未来の王妃として認めることはできない」
よく通る声だった。
正義を宣言する声というのは、いつでもよく響く。
広間のあちこちで、安堵の吐息が漏れる。
あからさまに扇で口元を隠して笑う令嬢もいた。
「ついに、ですわね」
「殿下は本当にお優しい」
「これで王宮も少しはまともになるわ」
ずいぶんな言われようだと思う。
けれど、訂正するつもりはなかった。
私はグラスを給仕に返し、静かに殿下へ向き直る。
「理由を伺っても?」
「今さら白を切るのか」
殿下の隣に立つ少女が、きつく私を睨んだ。
薄桃色の髪。春の花びらのようにやわらかな微笑みで知られる侯爵令嬢、セレナ・アルカディアだ。
今はその微笑みも、私へ向けるには十分に鋭い。
「あなたは何人もの侍女を辞めさせ、下級貴族の嘆願を握り潰し、反対する方々を宴の席から遠ざけてきました。殿下がどれだけ心を痛めてこられたか、あなたにはわからないのでしょうね」
会場に小さなどよめきが走る。
ああ、そういう筋書きなのだと理解した。
侍女を辞めさせた。事実だ。
嘆願を止めた。事実だ。
宴の席から遠ざけた者がいる。これも事実。
ただし、その事実が意味するものは、彼女たちの想像とは少し違う。
「何か申し開きはあるか、リディア」
殿下が言う。
「今ならまだ、自らの非を認める機会を与えよう」
機会。
なんと慈悲深い言葉だろう。
私は一度だけ広間を見回した。
視線が合った者が、気まずそうに目を逸らす。
逆に、勝ち誇ったように顎を上げる者もいる。
宰相グレン・ヴァルドール卿は、壁際から一歩も動かない。
灰色の目だけが、こちらを見ていた。
助ける気はないらしい。
正確には、助けられないと知っている顔だった。
「……リディア?」
殿下がわずかに眉をひそめる。
私が黙っているのが、少しだけ予想外だったのだろう。
そういえば昔、この方は言っていた。
物事は正しくあれば、必ず正しく伝わるのだと。
羨ましい考え方だ。
若さとも言う。
「ヴァルシュタイン公爵令嬢」
近衛騎士団長まで口を開いた。
「殿下の御前である。答えよ」
「ええ」
私は頷く。
そして、なるべく場を乱さぬよう、普段通りの声で言った。
「承知いたしました」
一瞬。
本当に一瞬だけ、空気が止まった。
たぶん彼らは、言い訳か、涙か、怒声を期待していた。
悪役令嬢は最後まで醜く足掻くものだと、そう思っていたのだろう。
「……何?」
思わずといったふうに、殿下が聞き返す。
「婚約破棄の件、承知いたしました」
私は言葉を重ねた。
「王家のご判断に従います」
ざわ、と広間が鳴る。
「ずいぶんあっさりしておりますのね」
セレナ嬢が言った。
「少しは反省なさったのかしら」
「いいえ」
私がそう返すと、今度こそ彼女は言葉を失った。
「反省はしておりません。必要なことをしただけですので」
あちこちで息を呑む音がした。
実に耳に心地いい。
ここまで見事に期待通りの悪役を演じられると、少しばかり誇らしくもある。
「やはり……!」
セレナ嬢が頬を紅潮させる。
「殿下、ご覧になって? この方は最後まで――」
「最後まで、何だ」
低い声で遮ったのは、意外にも殿下だった。
怒っているのか、戸惑っているのか、判別がつかない。
「リディア。お前は、自分が何を失うのかわかっているのか」
王太子妃の座。
公爵家との結びつき。
王宮での発言権。
表向きには、ずいぶんなものを失う。
けれど。
「理解しております」
私は目を伏せた。
「ですので、権限移譲に必要な書類はすでに整えてあります」
広間の空気が、さっきとは別の意味で揺れた。
「……書類?」
「はい。私が管理していた予算配分表、侍女名簿、夜会招待基準、地方貴族からの陳情記録、王宮内の人事に関する進言書。すべて本日中にお返しいたします」
殿下の顔から、はっきりと色が消える。
セレナ嬢は意味がわからないという顔をした。
周囲の貴族たちも同じだ。
当然だろう。彼らの多くは、私がただ意地悪でそれらを握っていたと思っている。
「……そのようなもの、なくても王宮は回る」
殿下は、少しだけ早口で言った。
その台詞を待っていた。
「そうですか」
私は微笑む。
たぶん今日初めて、まともに。
「それでしたら、何よりです」
今度こそ、グレン卿が目を細めた。
ごくわずかに。
あれは、ため息を呑み込んだ顔だ。
「皆さまもお喜びでしょう」
私は広間全体に向けて一礼した。
「ようやく、邪魔者が退きます。これで王宮も、ずいぶん息がしやすくなるはずです」
何人かが、気まずそうに視線を逸らした。
少し遅い。
「待て」
殿下が一歩前へ出る。
「話はまだ終わっていない。お前の処遇について――」
「ええ、存じております」
私はその言葉を、柔らかく切った。
「謹慎でも、幽閉でも、ご随意に。ただ、先に申し上げておきます」
広間の熱が、すっと下がる。
「人を切り離す時は、その人が何を繋いでいたのかを確かめてからになさってください」
しん、と静まり返った。
さすがに露骨だったかもしれない。
けれど、これ以上親切にする義理もない。
殿下は怒りに眉を吊り上げたが、その奥にわずかな迷いが見えた。
良い傾向だ。
ほんの少し遅いが。
「脅しか」
「まさか」
私は首を振る。
「忠告です」
そして、最後の礼を取る。
「では、私は退きます」
悪役令嬢らしく、未練も見せずに。
誰よりも穏やかに。
誰よりも、この先を知っている者の顔で。
踵を返した瞬間、背後でざわめきが爆ぜた。
引き止める声はない。
安堵と興奮と、少しばかりの不安が混じった、愚かしい音だけが追ってくる。
大広間の扉は重い。
けれど今夜は、驚くほど軽く開いた。
廊下へ出ると、春の夜気が頬を撫でる。
ようやく静かだ。
「お見事でしたな」
柱の陰から現れたのは、やはりグレン卿だった。
最初からそこにいたくせに、今さら何を言うのか。
「見事なのは殿下の方でしょう。あれほど綺麗に切り離してくださるとは」
「皮肉が弱い。いつもより機嫌が悪いと見える」
「失礼な。私は常に同じです」
彼は肩をすくめた。
年齢不詳の男である。真顔が標準装備なのに、たまに人を小馬鹿にしたような顔をするから質が悪い。
「止める気はありませんの?」
「止めてどうなる」
「少なくとも、三日ほどは先延ばしにできたかもしれません」
「三日で足りると?」
足りない。
だから私は答えない。
グレン卿も、それ以上は聞かなかった。
代わりに、低く言う。
「今夜のうちに王宮を出られよ。明日の朝には、あちこちで小さな悲鳴が上がる」
「控えめですね」
「最初は、という意味だ」
私は少しだけ目を閉じた。
悲鳴。
そうだろう。
帳簿の数字はすぐに泣き出すし、侍女頭は半日で倒れる。地方からの使者は三組ぶつかる。夜会の席次を決めた者は、来週には失踪したくなるはずだ。
全部、取るに足らない小事で。
だからこそ、誰も止められない。
「……あなたは、どちらにつくおつもりで?」
私が問うと、グレン卿は珍しく即答した。
「国に」
ずるい答えだ。
けれど、嫌いではない。
「でしたら」
私は歩き出しながら言った。
「明後日にはお忙しくなりますよ、宰相閣下」
「明日ではなく?」
「明日は皆さま、まだ楽観していらっしゃるでしょうから」
彼の後ろで、閉じたばかりの扉の向こうから、甲高い笑い声が漏れた。
お祝いは今のうちにしておくといい。
私はもう振り返らない。
長く息を吸う。
胸の奥が、妙に空いていた。
失ったからではない。
最初から、そこには何もなかったのかもしれない。
理解も、期待も、たぶん少しの執着すらも。
とうに置いてきたものだ。
それでも、ほんのわずかだけ。
――もし一度くらい、誰かが「なぜ」と聞いてくれていたら。
そんなことを考えた自分に、少し驚く。
馬車寄せへ向かう途中、夜番の侍女が慌てて駆けていくのが見えた。
顔色が悪い。
「どうしたの」
「あ……り、リディア様」
侍女は立ち止まり、迷ってから、それでも答えた。
「厨房の仕入れ帳が合わなくて、それから、東棟の来客室で席順の入れ替えが――いえ、申し訳ありません、もうリディア様には関係のないことで」
「そう」
私は頷く。
「ええ。関係ありません」
侍女はひどく困った顔をした。
その表情だけで、今夜は十分だった。
王宮の均衡は、案外、静かな音を立てて崩れ始める。
そして明日には、誰かが気づくだろう。
――あの悪役令嬢は、いったい何をしていたのだ、と。
こまでお読みいただき、ありがとうございます。
きらびやかな断罪の場で、ひとりだけ温度の違う令嬢を書きたくて、第1話はできるだけ「静かな違和感」を残す形にしました。
追い出されたはずなのに、なぜか彼女のほうが先を知っている。
そんな始まりです。
次話からは、彼女が退いたあとの王宮で、少しずつ「空白」の正体が見え始めます。
祝宴の続きが、たぶん一番短い夜になります。




