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第37話 幸福の機会

       -37-


 なまじ勝ち負けを意識するから結果を恐れてしまうのだ。


 相手を打ち負かすことだけが闘いではない。


 完勝しなくてもいい。


 たとえ相手が聞く耳を持たぬとしても、人としての筋だけは通させてもらう。


 私は彼女を諭すことを強く決意していた。


「あなたの行いは全て間違っているわ」


 俯いたまま意思表明をするも、反論や動きはなかった。


 場は沈黙していた。


 呻くような声だけが敵意として伝わってくる。


 顔を上げたその瞬間だった、視界に黒いものが向かってきた。


 その黒い影が私の首元に飛んできたと思うや否や、身体が起こされるように後方へ――。


 私は池上葵に蹴り飛ばされていた。


 一時、激しい痛みと衝撃に呼吸を失う。


 見ると頭上に鬼気を纏った池上葵の顔があった。


 息を荒くしながら目を吊り上げる女。


 その手には、ナイフが握られていた。


 負けるものか、そのような脅しには屈しない。


 私は痛みを堪え、彼女の怒りに狂う眼を正面から見返した。


 すると、私に反抗を見た池上葵が更に激高する。


 目は血走り、唇と手は震えていた。


 凶器を持つ手が僅かに後ろに下がると、彼女は半身から滑り出すように前へ出た。


「危ない! 菜月、動け!」


 危機を躱せと浅田さんが叫ぶ。


 肌が殺意を感じ取ると、ドクンっと心臓がはねた。


 不味いと思うが、蹴られた痛みとショックで力が入らない。


 とにかく動かなければならないと考えたが、身体が言うことを聞いてくれなかった。


 私は、近付いてくる狂気をスロー再生される映像のように見ていた。


 鈍い光がこちらに迫ってくる。私は、もう間に合わないと覚悟をした……。


 ――ガシャリ!


 身体がふわりと浮いた。直後に大きな音が響く。


 想像していた痛みが、息苦しさに変わっていた。


 ――何が? どうして? 


 混乱していると、わが身を抱きしめる強い力から解放される。


 その後、目の前に立つ何者かの背中を不思議に思いながら見つめた。


 振り返った男性はおもむろに屈み込むと、私の肩を支えながら怪我の具合を確かめた。


 それはほんの一瞬の出来事で、何が起きたのか分からなかった。


「大丈夫ですか菜月さん」


 無事を尋ねる男性の声を耳の直ぐ近くで聞いていた。


 ……数秒後の状況の理解――、


 間一髪の時に、その男性がサッと駆け寄り、私を守りつつ狂気を躱したのだと理解したのだが。


「え、ええ……」


「すみません、遅くなってしまいました。怖い思いをさせてしまった。必ず守ると約束したのに本当に申し訳ありませんでした」


 ――サラサラサラと頬を撫でる柔らかな風を受けながらその声色を聞く。


 それは、この場にはいないはずの彼のもの。確かにあの人の声だ。


 でも、なんで……、訝しみながら声の方へ顔を向けると……。


 私は目を見開いた。


 目の前に健太君の優しい瞳があった。


「お、お前、高木健太! なんで、なんでだ!」


 池上葵の驚きの声が飛んだ。


「やれやれ、僕も舐められたものだ」


「はぁ? 何だよお前、何言ってんだよ! 逮捕だろ! 捕まったんじゃねえのか、おい!」


「ご理解いただけませんか? 僕は舐めてるのか、と言っていますが」


 池上葵は怒りの形相で健太君を睨みつけた。


 憤る彼女の視線を、健太君は涼しい顔で受け止めてなお見返す。


「あなたが僕を狙ってくることなど、とっくに予想出来ていました。後はどういうふうにその手を掴むかということだけだった。――それにしても、痴漢の冤罪を仕組んでくるとはね。浅はかにも程がありますよ。幼稚だ。そんなものにむざむざと嵌まるほど僕は愚か者ではありませんよ」


 健太君が軽口を話すように言ってのけると、池上葵は眉をつり上げ肩を怒らせたまま身体を硬直させた。


 そんな戸惑いを見せる女に向かって、彼は「これでも一応専門家なものでね」と話してニコリと笑う。


「――くっ!」


 池上葵の顔が不快を見せてゆがむ。


「池上葵、もうこれ以上、菜月さんに手出しはさせない!」


 健太君はきっぱりと言い放った。


「……あは、あはははは、何言ってんのコイツ、馬鹿じゃないの? お前にそんなこと――」


「出来ますよ、というかもう出来ました」


「はぁ? お前、自分の立場が分かってんのか?」


「あなたこそ、自分の置かれている状況が見えていないようだ」


「はあ? いいよ、潰してやるよ。この会社も、お前も、佐藤菜月に関わる全てを壊してやるよ」


「出来ますか、あなたに?」


「出来るに決まってんだろ、ボケが!」


「堀内さんの不当解雇、村山さんの父親の会社や、この会社に対しての業務妨害、菜月さんの不正のでっち上げ、そして僕に対する痴漢の冤罪を画策してきたようにですか? それがことごとく徒労に終わったというのに?」


 挑発するような口ぶりで彼女の罪状を並べ立てる。


 颯爽とした振る舞いで立ち上がると、健太君は私を背中に庇う様にして池上葵と対峙した。


「フン! お前こそ舐めるなよ。これまでのことは遊びみたいなものだよ。高木健太、これから更に地獄を見せてやるよ!」


 眉を怒らせる。池上葵は凄い剣幕で吐き捨てた。


 気が気でない。


 挑発するにも度が過ぎている。


 しかも相手はまだ凶器を手放していないのに。


 ――ダメよ、健太君!


 ところが、健太君は、敵意を受けながらも飄々として微動だにせず。


 それどころか微笑を浮かべながら、まるで相手にならない、と首を振る始末。


「なんだよ! 何がおかしいんだよ!」


 相手の余裕の態度を訝しんだ池上葵が問うた。


 すると彼は、得意げな顔をして、おもむろに上着のポケットからICレコーダーを取り出した。


「今の言質は、全て記録させて頂きました」


 これでどうですか、と様子を窺う健太君。


 瞬間、ハッとして眉根を寄せる池上葵。それでも彼女は、苦々しく表情を歪めつつ素早く動いた。


 それは、あっという間の出来事だった。


 彼女は健太君の手からICレコーダーを取り上げると、相手を小馬鹿にするように笑む。


 ――せっかくの証拠の品なのに。


 私はハラハラしながら様子を見ていた。


「まったく、今更ですよ。それを取り上げたところでどうにもならないでしょう。事実は、今この場にいる皆に聞かれてしまっているのですよ」


 健太君はまるで動じることなく余裕を見せていた。


「そんなものは、証拠にならないわ」


「そうですか、そこまで言うなら仕方ないですね。――堀内さん、村山さん」


 健太君に名を呼ばれた陸君と奈々実さんがニヤリと笑った。


 次の瞬間、二人が揃って懐からICレコーダーを取り出した。


「さあ、これで終わりです」


 池上葵は、歯ぎしりをしながら健太君を睨みつけた。


「許さない、絶対に許さないわ。こんなことして、ただでは済まさないわ」


「あれ? 聞こえていなかったのですか? 僕はもう終わりだと言ったのですが。分かりますか? あなたにはもう力など無い。僕達に害をなすだけの力を、あなたはもう持ち得ていないんです」


「ふふふ、何を馬鹿な事を――」


「どうしても聞き分けては頂けないようですね。ならば教えて差し上げます。僕は浅田竜也さんのひき逃げ事件を追っていた。そして、真実に辿り着いた」


 ひき逃げ事件、と聞いた途端に口を引き結ぶ。彼女は僅かに後退った。


福地ふくち幸司こうじさんをご存じですね」


 名を告げられると、彼女の眉がピクリと動いた。


「あなたが閑職に追いやり、弱みを握って利用していた方ですよ」


 核心を告げられ頬を引きつらせる。彼女は黙したまま眉根を寄せた。


「先程、その福地幸司さんが自首しました」


「……そ、その福地とかいう人間が自首したからといって、それが私に何の関係があるというの?」


 池上葵が動揺を見せ始める。


「ここまで話してもまだしらを切りますか。僕はあなたにも自首を勧めているのですよ」


「な、なんで私が。私とその人に関係などないわ」


「福地さんは後悔し、反省しています。随分と良心の呵責にも苛まれて苦しんでいたようだ」


「し、知らないわよ。そんな事――」


「あなたには直に逮捕状が下りることになっています。あのひき逃げ事件の犯人は福地さんだった。そして、その傷害事件を指示していたのはあなただ、池上葵」


 池上葵は小刻みに身体を震わせた。


「真実を知った後、僕は彼の説得を続けていました。しかし、なかなか首を縦に振ってはいただけなかった。罪は認めていたんですけどね。彼は、よほどあなたを恐れていたのでしょう」


「だから知らないと言っているでしょう。なんだっていうの!」


 顔から色を失う。彼女は明らかに狼狽えていた。


「――みなまで言わせますか。証拠がなければ逮捕状なんて出ませんよ。傷害罪の教唆きょうさが十分に立証されるからこその逮捕です。既にあなたの言質は録音されています。福地さんのご協力によってね。少し前のことです。覚えがあるでしょ?」


 池上葵の肩から力が抜ける。手に握りしめられていたナイフがポトリと床に落ちた。


「……可哀想な人」


「な、何よ」


 池上葵の瞳が恨めしそうに私を見た。


「こんなことになって……。あなたは、ご主人のことを本当に愛しているのかしら?」


「なによ、今更負け惜しみ?」


「あなたはご主人を愛しているのでしょう? その気持ちに自信が持てないの? それとも私がご主人を奪い返しに来るとでも思ったの? あなた、ご主人を守りたいの? それとも自分を守りたいの?」


「な、何が言いたいのかしら」


 池上葵は半歩、後ずさった。


「私は今、全てを知った。あなたは、あらゆる手を尽くして私と多くの人を貶めた。そこまでやって、あなたは何を手に入れたかったのかしら? あなたの欲しかったものは何?」


「わ、私の欲しかったもの?」


頬を引きつらせながらの空笑い。


「私を破滅させたところで、あなたに何の利益があるというの? あなたは今、自らの行いにより、全てを失おうとしている。あなたは身勝手極まりない理由で、つまらない自己満足を得るために他人に不利益を与えた。そのことが、逆に自らの幸福を手放すことに繋がるということに、なぜ気が付かないの?」


「……」


「あなたはやり過ぎた。こんな事さえしなければ、何も失わなかったのに」


「…………」


「結局、あなたは何がやりたかったのかしら?」


「……わ、私は」


「私は、婚約を破棄され、失業した。それでも私は、何も失っていなかった。それに、私が婚約者と仕事を失ったのは、あなたのせいなんかじゃない。それは全部、自分のせい」


「――何を、何を言っているのよ!」


「私は、あなたとは違う。誰かを犠牲にしてまで利益を得ようとは思わない。誰かに不利益を与えて利益を得ることなどしない。だから決めた。いま決めた。私は訴訟なんて起こさないわ。それに今回のことも騒ぎにはしない」


「あ、あなた、それで私に貸しを作ったつもり? そ、そんなもので――」


「違うわ、私は、あなたにも幸せになって欲しいだけ」


「そ、そんなこと……」


「あなたの恋は本物よ。あなたは池上を愛した。池上もあなたを愛した。それが結末で、それが事実よ」


 そうだ。私の想いは私だけのものだ。愛は、誰かに与えられるものでもなく、誰かに奪われるものでもない。運命は決められているものじゃない。そんなのじゃダメなのよ。私はそんなものは要らない。


「自分の想いに、もっと胸を張りなさい」


 池上葵は言い返してはこなかった。


 彼女の瞳はすでに光を失い、揺れるばかり。


 ただポカリと口を半開きにしたまま私を見ていた。


「あなたは、これから罪を償わなければならない。でも大丈夫。身に起こるのは不幸ばかりではないわ。神様は、その先にちゃんと幸せの機会を用意してくださっている。それにね、幸せは与えられるものではないのよ。奪うものでもない。与えるものよ。道を外さずに正しい選択をすれば、きっと幸せになれる。人は誰でも皆、幸せになれるのよ」


 池上葵は膝から崩れ落ちた。


残り時間 5日と23時間57分53秒



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