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第36話 狂気の裏側

       -36-


 このとき私は、彼女の歪んだ笑みの底にある真意を汲み取った――これは、追い込むどころの話ではない、池上葵は、とどめを刺す為にここに来たのだ。


 時の進みが早く感じられた。


 一刻も早く健太君を助けなくてはならない。


 皆を池上葵の呪縛から解放しなくてはならない。


 だが、彼女を睨みつける事しか出来ない。


 どうしたらいいのか、私は池上葵の悪事を止めるための手段を持ち得ていない。


 考えあぐねていると、勝ち誇った女が、嘲笑を浮かべながら踵を返した。


 対抗する術もなく焦燥だけを募らせていく。


「――ま、待って!」


「ん? 待て、ですって? それが人にものを頼むときの態度なの? 嫌ねぇ、礼儀も知らないの? あなたが下品な女だということは知っていたけど、ここまで不躾だとは思わなかったわ。流石は場末の町工場の娘よね。ドブで育てば泥まみれ。その品性のなんと醜いこと」


 身に降り注ぐ憎悪に耐え唇を噛む。


 私はゆっくりと離れていく女の背中を目で追った。


 既に詰んでいる。


 この状況下では、訴訟だの悪事を暴くなどと悠長な事は言っていられない。


 今この時にも健太君は厳しい責めにあっている。


「お、お待ちください。池上さん」


 言い直すと、池上葵が僅かに振り向いた。


 その肩口から覗く悦楽の目が私の背筋を凍り付かせる。


「何かしら?」


「どうか、助けては頂けませんでしょうか」


「ほう、そうですか、私の助けが必要だと言うのですね、佐藤菜月」


「――はい」


「そうねぇ、あなたのお願い、聞いてあげても良いわよ。でもね、さっきも言ったでしょう。そ・れ・が、人に頼み事をする態度なのかと」


 池上葵は更なる喜色を顔に浮かべていた。


「わ、私は、何をすれば良いのでしょうか。どうすれば助けて頂けるのでしょうか」


 今は逆らうことが出来ない。私は無念さを押し殺して尋ねた。


 すると、窮する私を見て悪女が笑う。


 そうねぇ、と声を弾ませたあと、彼女は、跪け、媚びろと命じた。


「土下座して私の靴を舐めなさい。泣きつけばいい。そうしてハッキリとした声で言いなさい。池上葵様どうかお助け下さいと」


 品性の欠片も無い物言いに愕然とする。


 言われて奥歯にキッと力が籠もる。


 私は、こんな女に負けたのか。


「どうしたの? 出来ないの?」


 静まりかえる事務所。場の空気が重々しく張り詰める。


 私は目を閉じた。


 葛藤する心。 


 頭一つ下げるくらい何でも無いが、相手は悪辣な女。ここで膝を折り屈したところで全て解決するとは思えない。ならば私は勝たねばならない。しかし……。


 思考が停滞する。


 どうする、どうすればこんな女と闘えるの?


「出来ないの? 私はどちらでもいいのよ、助けてやる義理などないもの。あなたも同じように考えたんでしょ? だから逃げた。会社を辞め、引っ越すのでしょう?」


「そ、それは――」


「全て放って逃げようとしてたじゃない。でも、それでいいの? 見えなくなればそれでいいの? 周囲の者を路頭に迷わせた事実は何も変わらないわよ。あなたのせいで皆が不幸になる。あなた、確か、実家には父母が健在で、弟夫婦が工場を継いでいるのよね、子供は二人だったかな?」


 それは圧倒的な悪意だった。


 聞いた途端に脱力する。


 膝がガクリと折れた。


「無様ね」と悪女が嘲る。下劣な眼に見下され萎縮していく心。


 ――もう勝ち目は無い。


 私は床に正座し両手をついた。


「やめろ菜月! そんなことをする必要はない!」


 浅田さんが声高に制止する。


「煩いわね! 外野は黙って見ていなさい!」


 ヒステリックな池上葵の言葉が浅田さんに向かった。


「止めなさい、菜月ちゃん、私達の為にそんなことしなくていいのよ!」


 また大きな声が掛かった。谷本さんが池上葵に負けじと向き合い言い放っていた。


 私は、二人に感謝しながら池上葵に向かって首を垂れた。


「佐藤君、馬鹿な真似はやめなさい!」


 事務所の扉が開くと同時に飛び込んできた社長の声。


「なっちゃん! 僕なら大丈夫だから! 顔を上げて!」


「菜月さん! 私も大丈夫よ! だから負けないで!」


 続けて陸君と奈々実さんの声が聞こえてきたことに少し驚いた。


 二人は息を切らせているようだった。


 ――奈々実さん? 彼は、健太君はどうなりましたか? 大丈夫でしたか? あ、そうか、私がここで頭を下げれば助かるんだった。


「菜月さん、もういい! もういいから立って! 立ち上がって!」


 ――詩織さん、あなたも、こんな私のために声を上げてくれるのね。


 胸が熱くなった。


 ありがとう、みんなありがとう。


 私は、心に勇気を抱いた。臆する気持ちなどもう無い。


 一時でも彼女の溜飲を下ろせるならば上々である。


 この様なことはお安い御用。


 簡単なことだ。私は、愛する人達がこれ以上不幸になることを看過できない。


 それに思えば、たとえ恥辱に塗れながらこの場を去ったとしても、私は何も失わない。


 友人も家族も健やかならばそれでいい。


 私は何も欲しない。


 だから、何だって出来る。


 清々しながらぬかずいたときだった。


「どうして……」


 池上葵が声を震わせながら呟いた。


 束の間の沈黙の後、頭上で狂ったような叫び声があがる。


「何! なんだっていうのよ! こんな! なんで!」


 池上葵の怒りの意味が分からなかった。


 今のこの状況は彼女の思い通りの事で、これは彼女の完全勝利なのではないのか、なのに何故そんなに取り乱しているのか。


 まるで理解が出来ない。


「どうして? どうしてなの? なんで佐藤菜月なのよ、なぜこの女だけがこんなに愛されるのよ!」


 地団駄を踏む池上葵の発狂は続く。


 彼女の痛みを帯びた狂乱の声が事務所に木霊する。


 私は、混乱する彼女を無視して床に額を近付けた。


 すると――、


「お、お前、なんでそんなもんを持ってんだ!」


 浅田さんの焦る声が耳に飛び込んできた。


「止めろ! そんなことして何になるっていうんだ!」


 陸君が浅田さんに続く。彼も狼狽えていた。


 いったい何が起きたというのか。


 何か大変な事態が起こっているということは察知できたが、俯く私には状況が見えない。


「動かないで! う、動くと佐藤菜月を殺すわよ!」


 聞こえてきた池上葵の声に、一瞬だけ耳を疑った。


 ――殺す?


「あ、あなた、そんな危ないものは離しなさい。もう菜月ちゃんは十分に頭を下げているじゃない。これ以上何が望みなの。止めなさい」


「煩い! 煩い、煩い、煩い、煩い! 何なのよ! 佐藤菜月が何だって言うのよ! 池上優斗は最初から私の伴侶になるべき人だったのよ! それをなに? 酷いだの、略奪だのと!」


 あなた、何を言って……。


 彼女の悲痛な訴えを受け取り推し量る。


 私は、今まで、まるで見えてこなかった彼女の動機の一端を垣間見た気がしていた。


「佐藤菜月のどこがいいのよ!!」


 彼女は、怒りを爆発させた。 


「みんな、みんな……。佐藤菜月なんて、こんな何の能力もない凡人。なのに人気だけはある。人たらしの忌々しい奴。こんな女のどこがいいのよ! 会社で成功してきたのは私の力よ! 全部、全部、私が頑張ったからじゃない! それなのに、それなのに何でみんな佐藤菜月ばかり慕うのよ! 馬鹿げているわ、こんな下らない女、生きてちゃいけないのよ!」

 

 強い憎しみを言葉に乗せ、一息にまくし立てる。彼女は錯乱してるようだった。


 ――そうか、そういうことだったのか。


 このとき初めて、知らず知らずのうちに彼女を傷つけていた事に気が付いた。


 私のせいで彼女は不利益を被って不満を募らせていたのだ。


 憎悪の理由、それは……、


 ふと、あの日、あの雨の中で教えられたことを思い出した。


 なるほど、妖精が言ったように、誰かの利益が、別の誰かの不利益になることが、この世界にはあるようだ。


 理解はできた。でも、それは現実的に起こる事象であり、度しがたいことだ。


「無いわ、こんなクズが、あり得ないのよ」


 荒い息づかい、池上葵の声は震えていた。


 あなた……動揺しているの? 


 意のままに全てを手に入れた。しかしながら彼女は、一見して幸福に満ちているように見えていたが、実はそうではなかった。


 思うままにならず、欲しいものは得られず。


 察すれば申し訳ない気持ちにもなる。同情できなくもない。


 それでも、己が抱く不満を解消するために他者を虐げても良いという考えには賛同しかねる。


 彼女はあまりに独善的であり、同時にその行いはとても寂しい事のようにも思えた。


 私は、池上葵を――いや、彼女のそんな生き方を許すことはできない。


 決着をつけよう。ここで終わりにする。


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