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第28話 過行く幸せ

       -28-


十二月二十二日


 池上葵と闘わねばならない。


 あの日、健太君に言われたことを、私はいまだ実感できずにいた。


 私の日常は池上葵と交差することなく平穏に過ぎている。


 やはり、彼の危惧は取り越し苦労だろう。


 年の暮れ、クリスマスに年越しの準備と、巷の人々はどこか気ぜわしさを身に纏っている。


 下半期に突如として起きた受注不振は相変わらず謎のまま続いていたが、会社は新規の開拓と培ってきた地力で急場を凌いだ。


 私は閑散とした事務所に、一人残って細々とした残務を片付けていた。


 ふと、パソコンのキーを叩く手が止まる。


 不意に現れた日付の表示を見て肩を落とす。……そのあと恨めしく右斜め上に目を向けた。


「何とかならないかなぁ、もう」


 今も急かすように頭上に表示されている残り時間。


 恋愛ミッションの期限が残り百日に近付いた頃から、残り時間の表示が度々現れるようになっていた。


 これには、ほとほと嫌気が差していたのだが、残酷なミッションは、私の事情に構うことなどなかった。


「早く恋せよ、と言われてもね……」


 呟きながらデスクに肘をつき頭を抱える。


 恋愛の完全喪失という人生における一大事を告げられているにも拘らず、私の腰は重い。気分が萎えてしまった。


 ――ダメよ! ダメ、切り替えよう、もう直にクリスマスイブだ。


 もちろん、聖夜に浮かれることはない。


 楽しげな事を思い浮かべて気を紛らわせようとしただけだった。


 そもそも恋人達の祭典は、既に恋愛関係になっている者達が愛を深める為のイベントである。


 何かが起こる予兆も無いならば、聖夜など、恋人がいない私には無関係のイベントである。


 そういうことで警告は無視。


 デスクを片付け、パソコンの電源を落とし書類をファイルに綴じる。


 私は、タイムカードを手にして、逃げるようにして事務所の出入り口へと向かった。


「おお、菜月、今帰りか?」


 元気な声が私を呼び止めた。


 この日は珍しく、浅田さんと帰宅時に鉢合わせした。


「ええ、なんとか今片付いたわ。浅田さんは? 今日は早いのね」


「まぁな、年の瀬ってのはラインを止めるメーカーも多いからな。俺達だけやってもしょうがないってところがあって正直やることがない。後は忘年会を残すのみだ」


「年の瀬だね、飲み会で今年も一区切りか」


「だな。それで年内の行事ごとは全て終わりだ」


 目と目で語り、この一年の労をねぎらう。私は、浅田さんに向かってお疲れさまでしたとお辞儀した。


「さてと、今日も頑張ったぞって思ったら急にお腹が空いてきちゃったわ。今日は何にしようかな……」


「違うだろう菜月、明日はもう休みだから浴びるほど飲みたい、だろ」


 ジョッキを持つ手を真似ながら、浅田さんが悪い顔をして私を揶揄する。


 ちょっぴり悔しかったので睨んでやった。


 それでも浅田さんは笑って視線を受け流す。


「菜月、どこか寄ってくか?」


「いいわね、喜んでお供させて頂きましょう」


 二人で事務所を出る。外はすっかり暗くなっていた。


 見上げれば空は晴れていたが冬の風は冷たかった。


 風が時折り強く吹いてコートの隙間から体温を奪う。


 それでも私と浅田さんの足取りは軽かった。


 ――私、浮かれてる?


 これは年の瀬の雰囲気のせいか、それとも浅田さんとの会食のせいか。


 浅田さんと並んで馴染みの赤提灯へと向かった。


 向かう先は勿論あの店だ。


 と思えばあの狸親父の悪い笑顔が思い浮かんできた。


 店に到着し、暖簾をくぐり入り口から顔を覗かせると、思った通り狸が満面の笑みで大きな声を掛けてきた。


「いらっしゃい! お、菜っちゃん、いま帰りかい? で、今日は竜也も一緒か」


「ども、毎度です、親っさん。俺、とりあえず生。で、こいつは酎ハイ、レモンで。後は適当になんか出してよ、あったかいもんがいいな」


 浅田さんがテキパキと注文すれば、狸が「おう」と短く応じる。


 呆れた。


 ちょっと待て浅田竜也、なんで私の分まで勝手に注文をするんだ。


 とはいえ、異存もないのだけれど……。


 早速、カウンターに飲み物が運ばれる。


 浅田さんはお決まりのように、お疲れ様、といってジョッキを合わせた。


 柑橘の香と冷えたジョッキ。


 口に近付けた時点でもう頭の中に冷たい喉越しと爽快感を思い浮かべていた。


 どれだけ飲むのが好きなんだ、私は。


 ジョッキを傾けゴクリと飲んで感嘆を漏らす。至福を感じていたその時だった。


 背中に視線を感じた。振り向くとそこには――。


「ん? どうした、菜月」


 浅田さんが、意図せず静止した私を見る。


 彼も倣うように椅子を回し私の視線の先を向いた。


 そこには陸君と奈々実さんに加えて健太君がいた。


 この三人の集まりには、どこか既視感があった。でも、あの時とは雰囲気が少々……何かあったのか?


「こんばんは、みなさん」


 会釈を交え努めて明るく挨拶をした。


 この時、浅田さんと二人で飲みに来たことを、やましいところは何もないと、誰にともなく言いわけしていた。


 何の気なしに健太君へと視線が向かう。


 ――ん? 


 見ている先、三人が作る空気がなにか重苦しい。


 皆が揃って、こちらなど構ってはいられないという雰囲気を醸し出していた。


 私は、拍子抜けしながら再び冷たいジョッキに口を付けた。


 炭酸がシュワっと喉からお腹へと流れ込んだ。


「なんだ? あいつら何かあったのか?」


「そうね……」


 浅田さんも三人の異常に気が付いたようだ。


 私と浅田さんは三人へ向けた視線を戻すことも叶わず、その気まずさのまま、間を持たせるように揃ってもう一口を喉の奥へと流し込んだ。


 僅かな間を置いて陸君が声を掛けてきた。


 それを横にいた奈々実さんが戸惑いながらやんわりと制す。健太君は押し黙ったままであった。


 三人の小声でのやり取りに耳を傾ける。


「何かあってからでは」


「でも考え過ぎじゃないの?」


「いや、やはり」


 などと、ひそひそ声が聞こえてきた。そこには困惑が見て取れた。


 何のことだろう。何かあったのだろうかと思い首を傾げる。


 横を向くと浅田さんも、いったいどういうことだと訝しんで三人を見ていた。


 そうして、黙ったまましばらく様子を見ていると最後に健太君が口を開いた。


「やはり、話すべきでしょう」


 その健太君の一言に眉根を寄せた奈々実さんは、その後少し考えてから同意するように頷いた。


 こうして私と浅田さんは訳も分からないまま三人と同席することになってしまった。


 店の一番奥のテーブルに向かう。


 片側に陸君と奈々実さんが並んで座り、健太君は彼らの対面に一人で座っていた。


 テーブルに着くと、浅田さんが健太君の隣にスッと座った。


 そのせいで私は、向かい合う彼らを見渡す位置に座らされてしまった。


 なんか、この席、微妙なポジションだわ。


「それで、これは何の話し合いなんだ?」


 浅田さんがジョッキを片手に朗らかな顔で尋ねた。


 そのムードに乗っかるように陸君も持ち前の陽気な口調で受け応える。


「話し合い……うーん。それはその何だ。何から話せばいいのかなぁ」


 珍しく陸君が口ごもる。


 そうして、逡巡を見せた後に笑顔で続けた。


「実は、僕、病院をクビになっちゃって、ってところから話せばいいのかな?」


 思わず二度聞きをしてしまいそうになった。


 陸君は、失業という一大事に落ち込む様子も見せず、他人事でも話すようにサバサバとしながら語った。


 それにしても、なぜこのようなことになったのか。


 彼に落ち度などあろうはずもない。理解に苦しむところだ。それに話があまりに急であった。


 戸惑いながらジョッキに口を付ける。両サイドの四人を眺めながら耳を傾けた。


 陸君の話が終わると、続いて奈々実さんが自身の事情を話し始めた。


 彼女の話を聞いて驚いた。不幸な事態は陸君の失業の話だけでは済まなかった。


 これは、何か、嫌なことが起こり始めたのではないか、私は不穏を感じ取った。


 淡々と進んでいく話。健太君の眼差しと態度、目配せは語っていた。


 徐々に、抱いた嫌な予感が実感へと変貌し始める。血の気が引いていく。


 奈々実さんが話を終える頃には、胸騒ぎが止められなくなってしまっていた。


 皆まで言われずとも分かった。


 私はこの時、一月ほど前に健太君から受けた警告を思い出していた。


 ――よもや。


 彼女のことを思い浮かべていた。


 池上葵の嘲笑する顔が脳裏をよぎる。


 ――でもまさか、そんなことがあるはずないではないか。


 否定しながら首を振るが……どうやら逃げられそうもないようだ。


 奈々実さんが話し終えると、満を持したように健太君が厳しい顔つきになった。


「これは、今は僕達の話ではあります。だが――」


 冷えた声を聞いて、おのずと肩に力が入った。


 呼吸が速くなっていく。


 私は、だが、だが、だが、と健太君の言葉を頭の中で繰り返した。


 確信めいた予感。聞きたくない、これ以上はやめて、と健太君を見る。


 それは願いだった。そうであって欲しくないという願いだった。


 それでも、健太君の目つきと場の雰囲気で何となく悟ってしまっている。



 ……いま、胸に抱いているこの悪い推測はきっと当たる。


「このことは、きっと僕達のことだけでは済まない」


 やはりそうか。


 一気に重さを増した場の空気に押しつぶされそうになる。


「君たちのことだけでは済まないって、何がだ? それは、いったいどういうことなんだ」


 浅田さんが、僅かばかりの沈黙を朗々とした声で破る。


 健太君は、問いをしっかりと受け止めてから浅田さんの顔を見た。


「二人とも、最近、身の回りでおかしなことは起こりませんでしたか?」


 健太君が答えをはぐらかせたまま私達に聞き返す。


 来た、やっぱり来た。しかしどうして、何でこんなことになるのだ――。


 考えたが、思いついたことを口にすることなどできない。私は推測を肯定したくなかった。


「おかしなこと? 俺に関しては、特に何もないけど」


「わ、私も、これといって何もないんだけど……」


 思い当たる節はないと言って浅田さんは首を傾げるが、私は緊張していた。


「そうですか、お二人ともプライベートは無事ですか。良かった」


 健太君がホッとした様子を見せる。


 陸君と奈々実さんは顔の強張りを少しだけ解いた。


 だが私は、彼の言い回しに引っ掛かりを覚えていた。


 プライベートでは確かに何もなかった。


 しかしそれ以外でならば思い当たる節がないわけではない。


 私が頭に浮かべていた禍、それは、突然起きた理由のない受注不振のこと。


 ――嫌だ。こんなことは間違いであって欲しい。


「健太君、えらくナーバスになっているが、いったい何を危惧してるんだ? 君たちのことが、俺達にどう関係すると言うんだ」


 鼓動が速い。抱く不安が、私の身を強張らせていた。


 浅田さんは全く合点がいかないといった感じだったが、私は、ほとんど確信してしまっていた。


 悪いことは起きている。





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