第18話 音なしの恋歌
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夜になり健太は待ち合わせの場所へと向かった。
「いらっしゃいっ! あれ? 今夜は菜っちゃんと一緒じゃねぇのかい?」
「あ、い、いえ」
大将の矢継ぎ早のリズムについて行けず口ごもる。
「高木先輩、こっち、こっち」
しどろもどろになったところで奈々実から救いの手が差し伸べられる。
健太は呼ばれた声に乗りかかるようにして、よろよろと奥のテーブル席へ向かった。
「堀内さん、こんばんは、早かったんですね」
「陸でいいよ、健太君は生ビールでいいよね? 大将ぉ、こっち生一つ!」
堀内陸も大将に負けじと、マイペースぶりを見せた。
「先輩、先ずはこれを」
着席すると直ぐに、奈々実が脇に置いていた大きな鞄から一冊の分厚いファイルを取り出す。
「いいのかい? そんなものを持ち出せば守秘義務違反になるんじゃないのかい」
「ファイルの中身はあの会社の概要。公のもので秘密でも何でもありません」
「ありがとう、村山さん」
「それで、まずは先輩の言った通りであったことを報告します」
「言った通り?」
「先輩、前に言っていたじゃないですか、あの会社には佐藤取締役を慕う人間がたくさんいるって」
「ああ、そのことか」
「そりゃもう、出るわ出るわで」
奈々実の様子を隣に座る陸が嬉しそうに見つめていた。
それからしばらくの間、奈々実は菜月の人望と活躍ぶりをあれやこれやと饒舌に語った。
そんな奈々実の溌剌とした声を耳にしながら次々と書類に目を通していく。
内容は、確かに彼女の言う通り公表されている事柄ばかりであった。
ただしこれらの資料を外部の者が一から集めようとすれば骨折りである。
渡されたファイルは健太の労力を大幅に軽減させるほど充実し、なおかつ理路整然と整理された資料だった。
「村山さん、これは僕に協力してくれるってことでいいのかい?」
奈々実は無言で頷きを返しながら、更に二枚の紙を取り出し手渡した。
さっと目を通しただけで気付く。
健太は、これは、と上目遣いに目配せした。
「その二枚は現在の当社とは既に縁が切れているもので、さして重要なものではありません」
「いいのかい?」
「その資料に菜月さんと関わりのある内容のものは一つもありません。まぁ、見る者が見ればどうかは分かりませんが……」
奈々実が確認するように見てくる。健太は頷きで応じた。
「わたしだって弁護士です。おいそれと顧客に不利益をもたらせるような協力はできかねます」
「おいおい、奈々実、やってることと言ってることがまるで真逆だよ。それを詭弁っていうのじゃないのかい?」
陸が揶揄すると、奈々実はフンといって横を向いた。
「それでいい。君の立場は十分に承知しているよ。それに、元々協力してもらうつもりもなかったんだ」
「頼まないって、おいおい、それじゃ」
何が何だか分からないといった様子で陸は口をとがらせた。
奈々実がそんな陸をなだめるようにニコリと笑い事情を説明する。
「高木先輩なら、私をスパイとして利用せず、全ての状況を踏まえて仕事をやってのける。当然、そう言うと思ってましたよ」
奈々実は実に嬉しそうだった。
「買い被りすぎだよ、村山さん」
言いながら健太は鞄から茶色い皮の手帳を出した。
「古風だねぇ、今どき紙の手帳を使うのかい健太君」
「勝手がいいんですよ、この方が」
さらりと受ける。そんなものか、と興味深そうに手帳を眺める陸を横目にしながら本題に入った。
健太は、手帳に挟んでいた名刺を一枚取り出して奈々実に差し出した。
「福地幸司?」
「今は閑職に追いやられている池上葵の元部下だった人間だよ」
「その福地さんが、何か役に立つのかい?」
「協力者とまでは言えないが、使える、と僕は踏んでいる。接触があり少しは事情も聞けた」
「それで、先輩、私は何をすればいいのでしょうか?」
「おいおい、奈々実……」
陸はビールジョッキを持ち上げたまま固まった。
開いた口が塞がらないといった感じだ。
健太は、少し躊躇ったが、奈々実の真っ直ぐな目を見て気持ちを受け取ることにした。
「ならば村山さん、お願いしようかな」
「はい、なんでも言ってください」
「では、務めている法律事務所を使って、菜月さんが弁護士と接触していることを匂わせてほしい」
「おいおい、いきなり宣戦布告しちゃうのかい」
陸が丸くなった目をさらに広げて驚く。
健太は、まあまあ、と取りなしてからゆっくりと段取りを話し始めた。
まずは訴訟を匂わすこと、それから内々に福地と接触しながら葵の身辺調査を継続し、訴訟の準備を進める。
「そうか! そうやって敵を牽制しながら、菜っちゃんを救う為の材料を集めるのか!」
「違うわよ陸、そんな安直な事を先輩はしない。そうでしょ? 先輩」
「え?」
陸の持つジョッキがトンとテーブルに降りた。
健太は微笑む。そうして少し間を置いて回答した。
「情報収集は目的ではない。あと、福地さんの件も情報収集も僕が自身で行う」
村山奈々実には、決して表に出るなと念を押した。
「先輩、一人で矢面に立って何をするつもりなのですか? 目的は訴訟ではないのですか?」
「どうだろう、それは状況次第といったところだろうか」
「え?」
陸の視線が健太と奈々実の顔を行ったり来たりと落ち着かない。
「健太君は何を見ているんだい? それにさぁ、いいのかな、当人の知らないところで勝手に。菜っちゃんはさ、あんまり名誉回復とか興味なさそうだしなぁ……」
「元より承知よ、陸。どっちでもいいのよ」
「え?」
「先輩は最初から無理に訴訟を起こそうなんて考えていないわ。菜月さんの意思が最も大切な事なのだと、そんなことは始めから分かっているのよ」
「はぁ……」
「私にだって、先輩の考えている事の全ては分からない。勘ぐることは出来ても正解かどうかは……」
奈々実は、どうせ答えるつもりはないのだろうと呟きながらこちらを見た。
「分かるような……分からないような。いくら健太君が稀代の策士だからといって、そう簡単にこちらの思い通りに上手く事が運ぶのかな……」
「彼女は動くよ、絶対に動く。少しでも耳に入れば我慢できないはずさ」
「彼女? 先輩、彼女って?」
「社長夫人の池上葵だ」
「池上葵……先輩、彼女が本命なのですか?」
目を細める奈々実に健太は頷きを返した。
「池上葵は、菜月さんの前で口を滑らせてしまったことを悔いているはず。なので察知すれば必ず動く」
続けて健太は、考察の根拠を語った。
「なるほどね……」
「あの執着は、異常だよ。彼女は菜月さんから最愛の人を奪った。だけどまだ満足していない」
「なんで? 好きな人を手に入れて、幸せを手に入れて、赤ちゃんまで」
陸が唸る。勝者がなぜ、と戸惑っていた。
「彼女は執拗に拘っている。自宅から遠く離れたこの街の病院に入院してきたことがその証拠だよ」
「菜っちゃんに、見せつけるためにあの病院に現れた……マジかぁ」
呆れる陸。
健太は強く肯定しながら頷いた。
「似てるんだ。あの時の感じに凄く。あの時は、よもやと見過ごしてしまった。あれほど悪意が増長するとは」
過去の事件の事を察したのだろう。陸と奈々実は押し黙った。
「嫌な予感がする。僕は二度過ちを犯すことは出来ない。だから、先手を打つ」
「先手? 健太君、君はいったい何を」
「池上葵は、あの時、僕に敵意を抱いたはずだ」
「敵意? 先輩に対してですか?」
「うんそうだよ、色々と挑発してやったからね」
「おいおい、健太君」
「目は向けさせた。池上葵はきっと僕の事を調べる。そうして思う、取るに足りないと。弁護士試験に落ち続けている無能な男が、父親に泣きついたと。僕が菜月さんに好意を抱いていると考えてくれれば尚良い。彼女の好奇心は僕を手頃な玩具と考えてくれる」
「ほほう」
陸が今の言葉には合点がいったというようにニヤリと笑った。
そんな陸の視線にバツが悪くなったが健太は咳を一つ挟んで話を続ける。
「菜月さんが動いたと知ればかならず池上葵は動く。動けばそこからが僕のスタートとなる。今回の件、最重要人物は池上葵だと認識しておいてほしい」
健太の言葉に陸と奈々実は緊張を見せた。
「お願いがあるんだ。今後、二人には深入りして欲しくないんだ。僕は今夜限りで二人と顔を合わせないし、二人とも僕との距離を取り知らぬ顔をして欲しい。これは必ず守って欲しい」
「健太君、君は全てを一人で引き受けるつもりなのか? それに、僕らまで遠ざけるって、これはそれ程のことなの?」
「彼女は一筋縄ではいかない」
「先輩、いったい何をやろうとしているのですか?」
「今は、言えない」
奈々実は健太の目を見て口を引き結んだ。そうして、やれやれと溢したあと、溜め息を了承の返事とした。
「それにしてもさぁ、それが君の仕事とはいえ、まるで普段とは別人じゃないか健太君。たとえ火の中水の中ってか」
「え?」
したり顔で話す陸の言葉に奈々実は意表を突かれたようだ。
彼は水を得た魚のようになり満更でもない顔を奈々実に向けた。
健太は陸の視線から逃げるようにして書類に目を落とした。
「陸、なんのこと?」
「いやなに、もう一人ね、いるんだよ。救いを求めている人が」
「もう一人? ……って先輩のこと?」
奈々実は、目を丸くしたまま振り向いた。
「翅を失って鳴けなくなっていても、ちゃんと恋は出来るんだよってことさ」
「え? 恋? 先輩の? えええええ!」
健太のことを意外そうに見つめて奈々実は固まる。
それにしても、あのコオロギの翅によく気付いたものだ。
しかも同じように――いや違うな、同じ秋虫を見ても捉え方が随分と違う。
鳴けないコオロギの音無しの恋歌。
健太は音を諦め、歌を諦める。
陸は音は無くとも歌は歌だという。
健太はジョッキに残る温くなったビールを一気に飲み干した。
余計な事を考えるな。
いまは菜月の名誉の回復だけに集中すれば良い。
負けるわけにはいかない。
負ければ、きっと大変なことが起こるだろうから。
池上葵の瞳の中に蠢く毒心。
――あれを僕は、以前にも見ている。あの目はダメだ。嫌な者の目だった……。
池上葵について思うところに確証はない、だが確信はあった。
傷つく人はもう見たくはない。
出し惜しみなどしない。後悔するような無様は見せない。全力で戦う。
自分は専門家であり、これは最も得手とする分野である。
なればこそ弱きを守る。守るべき者が誰であるかなど関係ない。




