第17話 翅無しの虫
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九月十五日
病院の中庭で一人、大樹を見上げる。九月も半ばというのに、木陰の色はいまだ色濃く葉は緑を留めていた。
健太は、泰然と見下ろしてくる大樹に背を預け、ぼんやりと空を見上げた。
まるで取り巻く世界から一切の彩りが失われたように感じる。
望んでいたわけではない。失ったわけでもない。規定事項は粛々と進められている。
なのに何故、こんなにも虚無感に苦しむのだろう。
そっと、抜けるような青空へ手を伸ばした。
届かぬ先へもっと遠くへと――。
あさましい高望み、己の卑屈さを十分知りながら、それでも足掻く。
そのうちに、腕は伸びきって力尽きる。掌は空を掴みそこねて落下する。
諦めにまみれた青空を臨むと一本の飛行機雲が視界を裁断していった。
「飛行機雲は、雨の前触れ、か……」
弱く声を漏らしながら、秋の雨を心待ちにする。
再び芽生えたこの熱を、誰か、消し去ってくれないだろうか。
健太は拳を強く胸に押し付けた。
不意に頭上で枝葉がさざめく。
大樹は、偽る健太のことを見透かして嘆いていた。
元々ここは憩いの場所に過ぎなかった。
けれど、彼女と並んで緑の天井を見上げたあの時から特別な場所となった。
あの日、健太の心は完全に当時の想いを再燃させてしまう。
なればこそ今、胸が締め付けられる。
あの花火大会の夜のことをまだ引きずっている。
――僕だって、と考えてはいけないことを考えてしまう。
健太は迷いを打ち消そうとして強く首を振った。
「不当な仕打ちを受けた人を助けたい。ただそれだけのことだ」
形ばかりの台詞に暗示をかけ、抱く想いを仕事という文字に変換する。
いま、彼女の幸せのために出来る唯一のことは支え守ること。
許されていることは、以前も以後も変わらない。
社会正義を実現する、ただそれだけだ。
再び葉擦れの音が健太を包んだ。
大樹は問うた「それでいいのか」と。
それでいい、それで十分満足だと健太は答えた。
風が止む。
ふと、緑の中に変わる季節の兆しを見つける。
そのごくわずかな変化は、十分に秋の到来を予見させた。
そこで健太は呟く。何をどう足掻こうとも、お構いなしに四季は自動的に巡り過ぎていくものだ、と。
軽く息をつき何とはなしに下を向くと、足元に翅のないオスのコオロギが飛び出てきた。
ペットの餌用コオロギの中には翅が切られているものがあるとどこかで聞いたことがあった。
「お前、逃げてきたのか」
苦笑は弱々しかった。
それでも健太は翅なしコオロギを見て思う。危機を逃れた彼は思うままどこにでも行ける。
――鳴けないオスは恋を歌えないが、でも、それが何だっていうんだ。
健太の初恋は今から十二年前。
ちょうど桜が満開になった頃のある日のこと、父親に使いを頼まれた健太は、軽く請け負ってある町工場に書類を届けた。
菜月に初めて出会ったのはその時。
菜月の顔を見たのも工場の入り口で出会わせた僅かの時間のことで、交わした言葉も多くはなかった。
いわゆる、一目惚れというものだ。
帰宅すると間もなく健太は体調の異変に気づく。
訳もなく頭がぼんやりとしていた。
夕食時には、箸を持つ手の感覚も料理の味もあやふやになってしまった。
――なんだろう、突然の不調を訝っていると不意に菜月の顔が頭の中に浮かんできて困惑した。
妙な動悸、胸の奥に何か詰まっているような感じがする。理解不能な息苦しさを感じた。
この時の不調の原因が、高校二年生の男子が年上の女性に抱いた恋心によるものだと認識出来たのは、いくつかの季節を経た後の日のこと。
健太は、街中で恋人に寄り添うように歩く彼女を見て気付いた。
――僕はあの人のことが好きだったんだ。
失恋して恋心に気付くなんて……健太は愕然としながら呆れていた。
もう己の不肖を嗤うことしか出来なかった。
こうして初恋は思い出に変わる。
健太は、菜月への想いをそっと心の奥にしまい込んだ。
――けれど。
数年後のこと、思いがけず健太の前に菜月が現れる。
菜月は当然の如く健太のことを覚えていなかった。
それでも菜月に再会出来たことが素直に嬉しかった。
もちろん、あの頃の想いは一方的な片想いだと自覚していたし、良き思い出として消化していた。
未練めいた感情は一切なかった。
あの人は幸せなのだろうか、あの彼とはどうなったのだろうか、今もまだ苗字が変わっていないのなら結婚はまだのようだけど……。
再会の時、健太は、初恋の女性の幸せな様子を思い浮かべていた。
それから数日が過ぎたある日のこと、健太は菜月の変化に気付く。
今の彼女はどこかおかしい。あの頃のキラキラとした輝きを失っているように見えた。
彼女はいつでもハツラツとして明るく振る舞っていたのだが――違うな、
それは上面だけだ。健太は、ときおり彼女の面差しに影が差すのを見逃さなかった。
気になると知りたくなる。いったい彼女に何があったのだろうか。
健太は不躾だと思いながらも調べ始める。
概要は意外なところから知り得た。
菜月が勤める会社の事情をよく知る父ならば、と当たりを付け、手始めに父の事務所を訪ねる。
すると父が子細について耳にしていたことを話してくれた。
要点さえ押さえれば後は苦もない。
調査は容易で、気付きから僅か数日後には知見を得て、健太は結論を導き出した。
首謀者は池上葵で間違いない。
胸の奥から止めどなく沸き立つ感情。
彼女を貶めた者を絶対に許さない。
彼女の境遇を一変させたい。自分が、自分こそが……。
その熱を一言で表すと正義感というものに近い。
だが、実際はそのように高尚な思いではないことを健太は承知していた。
これは、司法に携わる己を建前にしたエゴだ。
そして、あの子の為に生きると誓った自分が持て余している心の寄る辺なのだ。
健太は、せめて彼女の名誉だけでも何とか回復出来ないだろうかと父親に相談した。
父は快く背中を押してくれた。
彼女の力になりたいと思ったことに嘘はない。健太は立ち上がった。
――いいじゃないか、これは僕の役目だ。
気持ちを伝える必要なんかない。恋など必要はない。
「健太君、またここに来ていたのかい?」
「ああ、堀内さん」
「何をしてるんだい? 詩織ちゃんならもう帰ったよ」
「ああ、はい、知っています。……あ、えっと、その」
その場だけ取り繕えばいいのに、次の言葉が出てしまった。
「ん? 聞きたいのは、浅田さんのことかい? それとも、毎日のように見舞いに来てる菜っちゃんのこと?」
堀内陸が心を見透かすように笑みを浮かべる。
「あ、いえ、別に……」
遅まきながらに無関心を装った。しかし堀内には通じなかった。
彼は両の眉を軽く持ち上げながら、やれやれ、と呆れ顔を見せた。
「色々と奈々実から聞いているよ、そりゃもう力説でさ、うんざりするぐらいだよ。あと、君と詩織ちゃんの事情も聞いてる。悪いけどね」
悪びれて話す堀内の言葉に、健太は観念して笑みを返した。
「それにしても凄いよね、浅田さんって本当に凄いよ。ありゃ並みの体力じゃないな。驚くべき回復力だ。それに性根が違うね。一本の太い筋が通っていて気迫と自信がある」
健太と詩織の話になるのかと思ったら浅田の話をする。
それにしても、わざわざ浅田の良いところを並び立てて、いったいどういうつもりだ。
「そう、ですね」
脈絡を掴む事が出来ず、戸惑いながら肯定する。
「彼のことなら僕もよく知っています。立派な方だと思う」
「だから? だから、菜っちゃんを彼に独占されていてもいいと?」
言われて心がざわめく。胸が締め付けられた。
「彼は、菜月さんの命を救いました」
「おいおい、それで納得しちゃうのかい?」
「え?」
「まったくもう! 好きなんだろ? 菜っちゃんのこと」
堀内の直球を受け、ハッと顔を上げる。
「見ていれば分かるって、分かっていないのは、当の菜っちゃんくらいだよ」
「……」
だから何だというのか。どこに不都合があるのだろうか。
他人の気持ちを、自分勝手に想像して決めつけないで欲しい。自分は――。
「健太君さぁ、自分に嘘をつくのは誰の為にもならないよ」
「嘘なんて、そんなつもりは……」
「今のままでは全てが偽善になる。それは菜っちゃんに対してもそうだし、特に詩織ちゃんの為にはならない」
「僕は、別に何とも、それに詩織ちゃんのことも……僕は、多くを奪ってしまった。だから――」
「せめてもの償い、かぁ」堀内は困り果てた様子で口を噤んだ。
健太は無言のまま微笑みを返す。
「ま、いいけどね。でもね健太君、僕は、それは良い事じゃないと思うよ」
健太は何も答えず。大樹を見上げる。
堀内は、大きなため息のあと、仕方のない人だといって肩を落とした。
「ねぇ、健太君、今晩時間は取れるかい?」
「え、ええ、大丈夫ですけど」
「ちょっと話がある。ほら、前に君が言っていたことさ、その、菜っちゃんの名誉がなんとかって」
「あ、はい、それが何か?」
「詳しくは分からないんだけど、奈々実がそのことについて話があるって言ってるんだ」
「村山さんが、僕に?」
「話の中身は知らないよ、でもまぁ、君の助けになることじゃないかな?」
「はあ……」
「じゃあ、夜八時に、前に一緒に飲んだあの居酒屋でいいかい?」
「はい、わかりました」
堀内はニッと笑ってから、健太の肩をポンと叩いた。
去り際、彼は足下に目を落とし「おっと」と大袈裟に慌てて見せた。
「なんだ、コオロギかぁ、ビックリした。にしてもあれだねぇ、まだまだ夏みたいに暑いってのに、季節だけはちゃんとこうして移り替わってゆく。自然っていうのは大したもんだねぇ」




