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第15話 純白の朝顔

       -15-


八月十二日


 立秋は過ぎていたが、まだまだ暑い日は続いていた。『234日』毎度のごとく頭上に浮かんでいる数字は期限を示すもの。恋のイベントは残り三分の二を切っていた。それでも焦りはない。近頃はもう、目の前に浮かんでいるこの表示を気にすることもなくなった。私は今、それなりに前に進んでいるのだと思う。会社の人、家族、友人、周囲にあふれる人情に包まれ、守られ、心が少しずつ回復してきていることを実感していた。


 彼は「何も悪いことをしていない」と言い切った。――思えばあの時、そう、健太君が池上夫妻に無実を断言してくれたときが転機となったのかもしれない。


 あの日、居酒屋で聞いた突拍子もない話はとんと進展していないが、それでいいと思う。そもそも訴訟だの名誉回復だの、そのようなことは望んでいないのだから。


 平穏な日常。どこか心地よい健太君との会話。彼とは他愛のない話しかしていないのだが、その空間は私に安らぎを与えてくれた。ただし、彼との距離が近づくほど、見えてくるものがあった。

 ――彼が心の壁で遮り見えなくしていること。ちらつく影。彼は、いったい何を抱えているのだろうか。


 昼過ぎに降り出した小雨はすぐに止み、以降は晴れ。今夜の花火大会は予定どおり開催される。見上げれば、夕暮れ時の雨上がりの空がわずかに薄紫色を帯びていた。


 カランコロン、下駄が軽快に小道を打つ。小さく揺れる袖。きつく締めた帯が私をしゃんとさせる。会社のみんなと待ち合わせしているところまで、あと少し。


 浴衣などというものは、高校生のときに親にせがんで着せてもらって以来、着た記憶がない。あの頃は和装という大人びた装いに高揚感も持てた。……けれど、今はもう子供ではない。


 大人っぽいという言葉は子供の専売であり、大人すぎる私にはもう関係がない。むしろ近頃は、できることなら若返ってみたいものだとさえ思う。そう、私は押しも押されもせぬ三十路女なのだ。


 ――悩ましい。あの時点でなぜ断らなかったのか。後悔の言葉ばかりが頭を巡る。だけど、どうしてもと谷本さんに懇願され、衣装一式を胸に押し込まれれば断れなかった。


 会場へ向かう道すがら、遠く稜線を包む黄昏の空を見て、ふと結婚予定日の出来事を思い出した。

 ――思ったより冷めてたよねぇ、私。


 優斗があの場所に現れたことには驚いた。でも驚いただけ。あのとき彼は、私に近づき、私の名前を呼び、私のことを引き寄せ腕の中に収めた。それでも心は凪いだまま、私は彼の腕の中で首を傾げていた。少しは未練めいた感情が湧いてもよい場面なのに、熱もなく、わだかまりもなかった。あんなに好きだったのに……。


 待ち合わせ場所に着くと既に皆が集まり終えていた。

 ――あれ? そういうことだったの? 皆の姿を見て、気恥ずかしい気持ちと不安は払拭された。山本さんも、娘夫婦と子供達も、谷本さんの家族も、社長と奥様までもが皆揃って浴衣姿だった。その状況が私の気持ちを一気に和ませた。


 けれど、それも束の間のこと。私は、山本さんの目配せと、受けた谷本さんのニンマリとした笑みを見つける。さては何か企ているな。


「こんばんは、浅田さん」


 私は意気揚々と声を掛けた。そこには、私の心を弾ませた姿があった。一同の後ろの方で仏頂面をしている浴衣姿の浅田さん。


「すごく似合ってるよ浴衣。やっぱり作業着とは雰囲気が違うわね」


「お、おう」


「ん? どうしたんですか?」


「あーあ、こりゃダメだわ。菜月ちゃん、竜矢はね、菜月ちゃんの浴衣姿に見惚れてネジが何本も飛んじゃってるのよ」

 谷本さんが、したり顔でからかう。


「おい、しっかりしろよ竜矢ぁ、だらしがねぇなぁ」

 山本さんも、調子を合わせて発破をかけた。


「ちょ、山本さんまで、勘弁してくださいよ、もお」

 むくれた後に苦笑を浮かべる。浅田さんは困り果てていた。


「そいじゃ、皆さんお揃いのようだし、ぼちぼち会場へ向かうとするかね」

 山本さんが号令をかけた。


「あんたも、しっかりやるんだよ!」

 谷本さんが浅田さんの背中をポンと叩くと笑い声が沸いた。



 賑やかに川沿いを進む一行。私も皆の背を追って歩き始める。行列の最後尾、連れられるように浅田さんと二人並んで歩いていたのだが、その時、ふと彼の着ている浴衣の図柄に目が留まった。――私たちの浴衣って、もしかしてお揃い? 男物は少し控えめな柄で一見して解りづらいのだが、紺の生地に白い朝顔の図柄は同じ。これは間違いなく二枚一対で誂えてある。おそらく大切にしていた一品ではなかろうか。このとき、思い至ると同時に白朝顔の花言葉を思い出した。なるほど、このことか。私は谷本さんの企てを察した。どうやら私たちは、まんまと策略に嵌められてしまったようだ。


 少し歩くうちに日は暮れ辺りは暗くなった。期待を胸に賑わう人々の中を流れのままに歩く。普段は窮屈に感じる人混みも今夜は違う光景に見えるから不思議だった。

 そういえば、昔はよく行ってたのになぁ、と懐かしき高校時代に思いを馳せる。


「私、久しぶりなんだよね花火。浅田さんは?」

 高揚していたのだろうか。発した声が弾んでいた。


「ああ、俺は毎年来てるよ」


「へえ、そうなんだ」


「花見と一緒だよ、これも会社のレクリエーションみたいなもんだ」


 仕方ないと話しながら、浅田さんは上機嫌だった。家族のような付き合いをする社員たち。毎年の恒例行事を当たり前のように楽しんできた関係性が少し羨ましくもあり、そこに加われたことが嬉しくもある。


「しかしよう、今年にかぎってなんで浴衣なんだ。落ち着かねえったらねえよ」


「気付いてました? 私たちの浴衣だけお揃いなんですよ」

 言うと浅田さんが鳩が豆鉄砲を食ったようになった。


「マジ?」


「はい、マジです」


「あっちゃあ、もう、なにやってくれてんだよ。俺もなんか変だと思ったんだよ。いきなり浴衣なんか押し付けられて、着て来いって念を押されて。そうか、そういうことだったのか……」


「大丈夫ですよ、これは見る人が見ないと一見しては分からないですから。そこは粋ですよね」


「そうなの? ……なら、まぁ良いか」


「まぁいい?」


「あ、いやいや、そうじゃなくて、ほら、菜月が嫌じゃないなら俺はかまわない、って」


「かまわない?」


「あ、いや」


「冗談です。私も嫌じゃないですよ。大切な浴衣を貸してくれた谷本さんの心意気も気持ちいいし」


「ああ、まぁそうだな」


 顔を見合わせて笑ったその時、一発目の花火が打ち上がった。二人して空を見上げると漆黒の空に光の大輪が咲く。


「おい、竜矢ぁ!」

 一つ目の花火が燃え尽きると前の方から声が掛けられた。


「なんですか? 山本さん」


「俺たちは、孫やら何やらいるからさぁ、もうここで見ていくことにするよ。あっちに行けば、賑やかなもんもあるし、俺らに気ぃ遣うこたぁないから、向こうへ行ってきな!」

 山本さんの声は、どうやら谷本さんの作戦の第二弾のようだ。


「え、でも」


「いいから、いいから!」


 山本さんが戸惑いを見せる浅田さんに不器用なウィンクを投げる。その後、犬を追い払うように手を振り私たちを遠ざけた。


 谷本さんは、大切な浴衣を惜しげもなく仕立て直していた。山本さんも、さりげなく二人きりの場をお膳立てした。あの目配せと笑顔、二人の言わんとしていることは、私にも分かる。

 そういえば、実家でも、母が身支度をする私の様子を嬉しそうに見ていた。


「良く似合ってるわよ」


「母さん、私もう三十過ぎてるのよ、そんな歳じゃないわ」


「あら、歳なんて関係ないわよ、それにあんたの着ているそれ、一級品よ。貸して下さった方に感謝しなきゃバチがあたるってもんよ」

 母に言われて、紺色の浴衣に描かれた美しい純白の花に目を落とす。


「大丈夫、綺麗よ。せっかくなんだから楽しんでらっしゃい」


 声が明るい。たぶんこの母の言葉には含みがある。父が勘違いしていることが、おそらくは母にも伝わっているのだろう。顔を上げると、鏡越しに見る母の顔はどこか嬉しそうだった。


 これはあれか? 周囲の者が揃って、私たちのことを、そういうふうに見ているということか。だけど実際のところは、どうなのだろう。私と浅田さんは、私は浅田さんのことを……。


「どうする? 菜月」


「わたしは、どちらでも」


 曖昧に返した。――おい浅田竜矢、ここは女に尋ねる場面ではないぞ!


「わかった、じゃあ、あっちにもっと綺麗に見える場所があるから、そこまで行くか。飲み物やら食い物もあるし、どうせなら賑やかなところへ行こう」


 いつになく積極的な台詞を聞いた。どうしたんだ今日は、浅田さんにしては、などと考えていたら、私の右手が急に宙に浮いた。予期せず浅田さんが手をつないできたことに、心の準備ができていなくて驚いてしまった。


 黒い雑踏の中を歩く最中にも花火は上がり続ける。光に照らされる度に凜々しい顔が浮かび上がった。浅田さんが私の手を強く握りしめて歩く。人をかき分け前へ前へと進む。つながれた男の人の分厚い手の感触。安心感に包まれながら引かれていく私。 


 このとき不意に、イエローカードのことを思い出した。これも不幸にならされたからであろうか。気になりだすと、だんだん落ち着かなくなってくる。


 カードはいつ出るのか、どこで出るのかと考えると気が気じゃない。私の心は、求める安心と抱える不安の真ん中でフワフワと寄る辺を失っていた。


「着いたぞ、菜月」


 掛けられた声にハッとする。気付けば人込みから少し離れた所に出ていた。

 次々と打ちあがる花火、二人だけの光の世界。白朝顔が、花火の明かりに照らされて浮かんでは消える。白朝顔の花言葉は「固い絆」「あふれる喜び」……それは愛の言葉。


 しばらくすると、突然、弾かれるように繋ぐ手が解かれた。浅田さんは、私の視線に気付くことで我に返り、手をつないでいたことに驚いて手を放してしまったようだ。


「ご、ごめん、菜月、俺、はぐれちゃダメだって思って、つい……」

 浅田さんが苦笑いを浮かべた。――浅田竜矢、そこは謝るところではないし、言い訳もなしだ!


「全然大丈夫ですよ、謝らないでください」私は性悪を隠しつつ笑みを返した。

 その後も花火は続く。


「すごく綺麗……」


「ああ、そうだな」


 私は美しい光景に酔いしれながら安堵した。どうやら、イエローカードはもう出ないようね。

 隣の彼を見る。そこには嬉しそうに花火を見つめる笑顔があった。私は、微笑みながらと刹那の彼の横顔を見ていた。


 ――私は彼のことが好きなのだろうか。もちろん、好きだと思う。でも、それは恋なのだろうか。彼は私のことを……、彼に好意は抱いている。だけど、それははたして恋なのだろうか。


 私の心は、交錯する光と影のシルエットで揺れる。笑顔を見つめる。浅田さんは今、何を思いながらこの花火を見ているのだろうか。


 光の後の地響きが胸に響く。ほんの数秒だけ艶やかな姿を見せる花火。消える間際の余韻と終わりに近づいていく名残惜しさがどうにも切なかった。


 惜しむ私と過ぎる時間。心地よいひと時は、止めようもなく流れていった。そうして遂に、花火大会はフィナーレを迎えた。私は、洗われて軽くなった心に満足感と幸福感を詰め込んだ。


「終わったな」


「うん、終わったね」

 終わってしまったということに、どこか後を引くような物悲しさがあった。


「喉が渇いたな、俺、ちょっと行って買ってくるわ、何がいい?」


「ああ、私も行きたい」

 なぜかひとりになるのが嫌だった。


「そっか、じゃあ、一緒に行くか」


「うん」

 浅田さんがまた手をつないできた。今度もイエローカードは出なかった。


 露店の電灯まではまだ少し距離がある。私は到着までの道沿いに立つ外灯を数えた。ゆっくりとした足取りが時を惜しむ。花火大会の熱気を、心地よい風が和らげる。

 このまま、この身を、委ねてしまおうか、と思った時だった。私は、思いがけず、身を固まらせてしまう。

 ――健太、君?



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