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第14話 密やかな憎悪

       -14-


七月三日


 午後から降り出した雨が、その日の予定を台無しにするようで腹立たしい。このところ梅雨を忘れたようにずっと良い天気が続いていたのに、今日に限って間の悪い雨が邪魔をした。


 苛立ちながら化粧台に向かう。池上いけがみあおいは、恨めしく鏡面に映る空模様を睨みつけた。


 ルージュの乗りも悪く、髪のまとまりも悪い。気持ちも重い。これは、垂れ込める雨雲のせいか、低気圧不調のせいか。とにかく気持ちが晴れない。


 葵は誰にともなく「もう、イヤ」と不満を吐き出す。と、その時、佐藤菜月の顔が頭に浮かんだ。鏡の中の表情が歪む。――そうだ、全部あいつのせいだ。この不快は、すべてあの女の仕業だ。彼女はさらに気分を悪くした。


 この日、葵は会食に出掛ける予定だった。妊娠も安定期に入り、体調もめっきり良くなった。夫も接待で家を空けるとなれば気兼ねもない。久しぶりの会食に心を高揚させていたのに、不意の雨が水を差した。


「葵、どこー?」


「あ、はーい」


 葵は鏡に映した笑顔を愛らしく傾けたあと、身なりを確認し、階下で支度をする夫の元に向かう。

 葵は父親の会社のパーティーで夫の優斗と出会った。優斗は大学卒業と同時に起業したヤリ手の社長だと紹介された。


 直ぐさま、この男はどうか、と葵は値踏みする。学歴は悪くない。見た目も良い。何より興味を引いたのは、彼が馴染みのある御曹司らとはまるで違う種類の人間だったことだ。


 意気が盛んで、純粋で、真っ直ぐに人を見る。飾り気がないところが少々粗野であるが、そこがまた良い。


 その出会いは天からの賜物。葵は、まるで啓示を受けたかのように、一目見て池上優斗を気に入った。弾ませる会話の中で恋人がいることを知った――でも、それがどうしたというのか。葵はこのとき既に、目の前の男が伴侶になるのだと確信していた。


 その後、葵は父の勧める就職先を断り優斗を追う。父の力を借りて彼の会社に入った。そこには聞いていた通り優斗の恋人がいた。名は佐藤菜月――彼女は学生の頃からの彼の恋人。


 恋人の存在は百も承知であるが、端から問題にはしていない。手に入れることなど容易くできると思っていたし、事実できた。


 自分はできる人間であり、他者とは一線を画す。葵は有能を自負している。実際に己の才覚と実力だけで頭角を現し、直ぐにプロジェクトを任されるまでになった。なので地位も人気も簡単に手に入る――そう、思っていたのだが……、現実的には、人望を得ることだけはなかなか思い通りにはいかなかった。それは何故か。


 プランを思い通りに進めようとすると、いつも佐藤菜月が立ち塞がった。毎度決まり事のように彼女は葵の邪魔をする。プロジェクトの進行過程で何か問題が起これば出しゃばる。挙げ句に手柄を横取りしていった。部下を窘めるときも激励するときも自分だけ良い顔をする。あいつの、その振る舞いのせいで、いつも割を食わされ悪者の様に見られた。


 葵は、負けじと幾つもプロジェクトを成功させる。立案も実行も成果も、すべては葵の差配の結果であり、上からの評価も上々だった。しかし、周囲の者は皆、何かといえばあの女を慕って頼りにした。

 あいつのおかげで、部下を従わせることにどれだけ腐心せねばならなかったか。今思い出しても虫唾が走る。葵は佐藤菜月を人たらしの無能と評していた。人気取りの忌々しい女だと思っていた。


 ――だけど、それも今となっては過去のこと。目障りだったあの女を会社から追い出した時には心が晴れた。


「優斗、今夜は遅くなるの?」

 夫の身支度を手伝いながら訪ねる。


「いいや、そんなに遅くならないと思うよ。あそこの社長は夜が早いからね」


「そう、なら私も早く帰ってこようかな……」


「いや、構わないよ、僕のことは気にしないで。ゆっくりしておいでよ。でも身重なのだから無理はしちゃダメだよ」


 向けられた優しい眼差し。葵も夫に向かって微笑む。このとき、本心から喜びを感じていた……嬉しかった、けれど、どこか物足りなさを感じる。心が何かを渇望していた。


「わかった、でも、なるべく早く帰ってくるわ」


「そうだね、出来ればその方がいいかもね。葵にも赤ちゃんにも無理をしてほしくないから」

 夫を見つめる。疑う余地もなく今の言葉は信じられた。


「ありがとう。大丈夫よ、体調もいいし、赤ちゃんもすごく元気だから」


「そう、それならば、今日の気晴らしはママにも赤ちゃんにも良いことだね」


 優斗が嬉しそうに葵のお腹に手を当てる。葵は微笑んで見せた。元より何の不調もない。妊娠はこの上なく順調だった。当然、入院も狂言であったのだが、そんなことは夫には分からない。


 あの病院に入院した葵の本心など知りようもない。優斗は初めての子を心待ちにしている。無邪気に心配したり喜んだりしている。


 そんな愛しい夫の様子と胎動は、至極幸福を感じさせてくれた。ただし、わざわざあの病院に入院したことには満足できていなかった。


 せっかく幸せな姿を見せつけることが出来たというのに……思ったほど彼女を壊せなかった。

 動揺は見えた。しかし愉快な結果は得られなかった。それは何故か。


 確かに、退社の際は悲壮感を漂わせていた。なのにもう立ち直っているのはどういうわけか。しかも、男を連れて嬉しそうに歩いていた。浮かれるような顔をして、甘い雰囲気を醸し出しながら。


「……まるでゴキブリ並みの生命力だわ」

 小声の悪態。


 ――それにしても、佐藤菜月の横にいたあの男は何者なのだろうか。葵は、あの日の病院での出来事を思い起こす。


「ねぇ、病院で佐藤さんの横にいた男性のことなんだけど、あれって誰? 二人はどんな関係だと思う?」


「え? そんなこと聞かれても分からないよ」


「そうなの? 会社関係か、学生の頃の友人か、あなたも知っている方かと思ったんだけど」


「知らないよ、見たこともない」


「そう」

 佐藤菜月とその隣にいた男の話をしても、夫はさして関心を示さなかった。


「それにしても驚いたわね、もう別の男の人と一緒に、しかも産婦人科の前よ」

 言って葵はもう一度夫の顔色を窺った。


「もういいだろ、彼女のことは、僕たちには関係のないことだよ」

 優斗は素っ気なく応えた。どうやら嫉妬もしていないようである。


「そうね」


 逃げたと思えなくもないが追及しなかった。そのようなことよりも、今は優先して考えねばならないことがある。葵は甲斐甲斐しく支度を続けながら熟考し始めた。――気掛かりといえば……あの男は、なぜ反抗するような態度を見せたのか。


 質素な身なり、安物の眼鏡、何処をどう見ても、いかにも冴えない凡人に見えた。なのに……葵は戸惑った。そういえば……。


 佐藤菜月のことをストーカーといって蔑んだときのことだった。あの時、あの男が見せた怒りは何? それに挑戦的なあの目は? どういうこと?


 取るに足りない男のことだと思いつつも考える。――そうか、なるほどね。あの男はあれね。佐藤菜月のことが好きなのね。葵は男の心情を読み取り、挙動の意味を理解した。

 合点がいくと、葵の思考が回り始める。音を伴わない笑い声が口元から漏れた。


「私、見つけちゃった」


 これで報われた。わざわざあの病院に入院した甲斐があった。良い玩具を手に入れた、と葵は悦に入る。だが次の瞬間、葵の脳裏に男の別の顔が浮かぶ。


 あの男は、確かに、不敵に笑った。

 葵は、迂闊にも挑戦的な男の視線に苛立ち、相手のペースに乗せられて、うっかり口を滑らせてしまった。佐藤菜月を始末したと口に出してしまった。


 菜月の横で、葵の言葉を聞いた男は、下を向いて笑みを浮かべたように見えた。その時は、バカにされたような気がしただけだったのだが……どこか違和感がある。あの素振りは、まるであの女の無実を確信しているようだった。


 一見して取り柄の無さそうな男。表情に乏しく、顔を思い出そうにも印象が薄い。言葉にすれば凡庸という文字が如何にも相応しい。――だが、その立ち居振る舞いは、どこか芝居じみていたような気もする。


 葵のセンサーが敏感に何かを知らせる。本能は男を敵だと認知させていた……あれは、反抗よね。葵は肌に感じたことを思い出す。そうだ、今は判然としないが、あれは敵意に違いない。


 小者にしか見えない男。聡明さの欠片もないような貧相な男。仮に事の真相に辿り着けたとしても、何の力も持たない男に何が出来るものでもないが……それでも用心することに越したことはない。


 慎重に思考を巡らせる。葵は、向けられる敵愾心を見逃さない。それがどんなに些細な感情であろうと気付くことができる。そうやって子供の頃から敵対する者をすべて潰してきた。


 征服は帝王学のキモであり、手段は洗練されている。見つけた敵は倒す。支配することは自尊心を高め、葵に喜びを与える。


 弱い者いじめなど葵はやらない。それは低能な猿の行いである。そもそも弱者に関心などない。それよりも、倒す価値のある鼻つまみ者を屈服させる方が余程面白い。敵を壊し屈服させる。その後、適度に飴を与えて懐柔し従わせる。ゲームとしてはその方が余程愉しい。結果、葵は弱い者を救った英雄になり、周囲は自然と羨望の眼差しを葵に向けるようになる。そうして葵は自分の帝国を築き上げ女王となるのだ。


 ……それにしても、佐藤菜月はしぶとい。葵がいくら罠をかけ陥れようとしても、菜月を壊すことが出来なかった。入社時は、役席であるあの女に手出しすることが難しかったが、満を持すると、思いつく限りの手を尽くした。それでも、どれだけ画策してもあの女は直ぐに周囲に味方を作り窮地を脱してしまう。葵は苛立ちをつのらせる日々を送った。


 ――面白くないわね。なんで壊れないの。まだ足りないというの。


 未だにあの女を屈服させることが出来ていない。だが、次こそは仕留める。必ず堕としてみせる。その為にも、一からあの女の周囲を調べねばならない。隣にいたあの男の振る舞いは気になるが、それもどうせ杞憂に違いない。それよりも、あの男が色恋沙汰に関わるのならば面白いことになる。

 料理には万全の下ごしらえが必要。楽しみだ。手を掛けるほどに味には深みが増すものだ。


「さてと、これから何をどうしてやろうかしら」

 思い至った葵の心は喜びを感じていた。


「じゃあ、僕は行くね」

 夫の声にハッとする。それでも葵に油断はなかった。たとえ愉悦に浸っていても思惑が顔に出ることはない。


「気を付けてね。商談が上手くいくことを祈ってるわ」

 言って葵は両腕を夫の首に回した。


「ありがとう。あんまり遅くなっちゃダメだよ」


「わかっているわ。愛してる」

 葵は優斗と唇を重ねた。


「僕も、愛してるよ、葵」


 優斗の腕が優しく葵を包み込んだ。優斗……私、知っているのよ。あなた、あなた達が結婚する予定だった六月二十四日に、あの海の見えるレストランで佐藤菜月に会っていたでしょう。私、全部見ていたわ。いいのよ、あれはあなたのせいではないのだから……全部、佐藤菜月が仕組んだことなのよね。可哀そうに、あんな女にたぶらかされて。でも、大丈夫、今度こそ私がちゃんと始末してあげるから……愛しているわ、優斗。

 抱きしめる夫の胸の上で唇を動かす。葵は呪詛じゅそのように愛を呟いた。



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