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風音に導かれた由椰が連れて行かれたのは、大松の屋敷のそばにある泉だった。山の木々に囲まれた小さな泉から湧き出ている水には、魂を清める力があるらしい。
泉のそばでは、白衣に白の紋様の入った袴姿の風夜が、由椰のことを待っていた。薄闇の中に浮かぶ風夜の姿は、まばゆく美しい。
「お待たせいたしました。兄様」
「では、始めるか」
風音が頭をさげると、風夜が泉の周りを静かに歩き移動する。
これから、由椰は泉の中に身体を沈めて魂を清める。
由椰のように、現世に長く留まり過ぎた魂を泉の水が浄化するのにかかる時間は七日ほど。魂を清めるための儀式は夜明け前に行うことが通例で、風夜や風音の一族の者が、清められた魂が輪廻に戻るところまでを見届ける。
「由椰様」
風音に促され、由椰は泉の中に足を入れた。泉の水の温度は肌を切り裂くほどで、由椰の身体はつま先から冷えていく。
もう七日目になるが、泉に最初に足を踏み入れたときのこの感覚には未だに慣れない。
由椰は身体を震わせると、覚悟を決めてゆっくりと身体を水の中に深く沈めていった。
この小さな泉は、不思議なことに深さが一定していない。
足を踏み入れた瞬間は、由椰の足首がようやく浸かるくらいの浅さなのに、しゃがんで身体を沈めようとすれば、由椰の肩までどっぷりと浸かれるくらいの深さになる。
由椰が不思議な泉に身体を沈めると、風夜と風音が祈祷を始めた。
風夜の低い声に風音の高く透明感のある声が重なる。
それを聞きながら目を閉じると、由椰の身体は泉の中でふわふわと浮かんでいるような心地がした。
(私はこのまま、消えてしまうのでしょうか)
ぼんやりとしているうちに、少しずつ風夜や風音の声が遠くなっていく。
『お前は、死にたいのか?』
思考が鈍くなっていく由椰の耳に、ふと、烏月の声が蘇ってきた。
由椰としての人生の最期に思い出すのが、ほかの誰でもなく、たった一度会っただけの神様のことだなんて。
十六年に満たないほどではあったが、それにしても自分の人生はなんとも希薄なものだっただろう。
生まれたときから生贄として差し出されるまで、麓の村だけが由椰の世界だった。
生まれつき左右で色の違う由椰の瞳は、村の人たちに気味悪がられていて。村の中で由椰と口を聞いてくれたのは、母以外には村長の家族だけだった。
だがそれも、由椰の母が村長の娘だったので仕方なく……といった感じで。村長の家族は必要最低限限でしか由椰に話しかけてこなかった。
周囲の人たちの態度から、由椰は自分が母以外の人間からは疎まれているのだと理解していた。
由椰を大切に育ててくれた母だったが、そんな母も、異国の血が混ざった不気味な目をした由椰を身ごもって、奉公先から村に帰ってきたことで、村人たちから奇異の目で見られていた。
母と由椰が村の端の小さな家でひっそりと暮らすができたのは、母に村長の娘という後ろ盾があったからだ。
だが、それも母が亡くなるまでのこと。
十歳になる頃に母が病気で亡くなって以降、由椰の居場所はなくなった。
母と暮らしていた小さな家は取り上げられ、村長の屋敷で外の目から隠されるようにして暮らし、生き延びるのに最低限の食糧と引き換えに家事労働を強いられた。
夜は家畜の小屋で眠らされる由椰に、村長の家族たちは冷たかった。
村長の屋敷には、ときどき、身内だという由椰と同じ年頃の少年が遊びに来ていた。彼がたまに声をかけてくれる以外に、由椰が人と交流を持つことはなかった。
死にたいのか――?
烏月に真正面から問われたときは言葉に詰まったが、あらためて考えてみれば、由椰は死にたいのかもしれない。
どうせ初めから、由椰はいてもいなくても同じだった。
だから、自分の生き死になどどうだっていいのだ。
由椰としての生に少しも未練はない。
自分の存在ごと、このまま消してしまいたい。
ふわふわとした感覚に揺られた由椰の身体が、温かな光のほうにゆっくりと導かれていく。由椰がそちらに向かって手を伸ばそうとしたとき……。
ドロリと、急に足のほうから身体が重たくなって、冷たい水底へと引き戻されるような感覚がした。
(なに……?)
由椰の腕に、足に、身体に、冷たい鎖のようなものがまとわりつく。
『あなたの居るべき場所はそこではありません……』
由椰の耳に、高く澄んだ不思議な声が届く。
ハッとして目を開けると、由椰は初めと同じように小さな泉の中で座っていた。
目の前には、眉根を寄せたしかめっ面の風夜と困惑顔の風音がいる。
「おかしい。なぜ、消えない」
泉の中からぼんやりと見上げる由椰に、風夜が忌々しそうに舌打ちをした。