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 部屋を仕切る障子の向こうで、コツン、コツンと床を叩く音がする。

「由椰様、おはようございます。お清めの時間でございます」

 鈴を転がすような声に呼びかけられて、由椰は敷布の上でゆっくりと目を開けた。

 由椰に与えられた六畳の部屋には、小さな窓がひとつついている。その向こうにはまだ薄暗い紫の闇が広がっていて、朝の挨拶をするには早すぎる。

 由椰が神無司山の祠から烏月の屋敷に連れてこられて、今日がちょうど七日目。こうして夜明け前に起こされるのが、ここに来てからの由椰の日課となっている。

 だが、それも今日で終わりだ。

 七日目になる今日のお清めが終われば、由椰の魂は浄化され、人の世に戻ることができる。

 次に明けきらない夜の空を見られるのは、いつのことになるだろう。生まれ変わった次の世で、自分は誰かにとって価値のある何者かになれるだろうか。

 考えても意味のないことを思ってしまうのは、今日が由椰という人間としての最期の日だからかもしれない。

 らしくもなく感傷的になっている自分に自嘲の笑みを漏らすと、由椰は静かに体を起こした。

「すぐに参ります」

 障子の向こうの相手にそう言うと、由椰は長い黒髪をひとつに束ねて立ち上がった。そのとき、右側の金色の瞳が前髪でうまく隠れるようにすることも忘れない。

 簡単な身支度が整うと、由椰は寝るときに着ていた白の浴衣姿で部屋を出た。

「おはようございます、由椰様」

 障子を開けたその先で、由椰と同じか、もしくは少し年下かと思われる小柄な少女が、膝をついて、うやうやしく頭を下げた。

 大げさなくらいに頭を低く下げる少女の白衣の背には、烏月や風夜と同じように黒い翼が生えている。だが、烏月たちと比べれば随分と小さい。

 少女の名は風音(かざね)という。

 風音は風夜の妹で、由椰が烏月の屋敷に滞在するあいだの世話係だ。それだけでなく、風夜とともに由椰が人の世に戻るための手伝いをしてくれている。

 由椰が人の世に還るためには、神無司山の土地神であった伊世に与えられた加護を祓い、現世に留まりすぎて汚れた魂を清めなければならない。

 清めの儀式は、烏月の臣下である風夜と風音が行う。風夜の家は代々、二神山の土地神に仕える鴉天狗の一族なのだそうだ。

「おはようございます。風音さん。今日もよろしくお願いいたします」

 由椰が膝をついて頭を下げ返すと、風音が困ったように眉を下げた。

「おやめください。何度も申し上げておりますが、由椰様が私に頭を下げる必要などありません」

「でも……、風音さんにはお世話になっているので……」

「由椰様がここにいらっしゃるあいだ、身の回りのお世話をするのが私の仕事。私は烏月様や兄に命じられたことをしているだけです。ご準備が整っているようでしたら、向かいましょう」

 風音が立ち上がるのを見て、由椰もすぐに立ち上がる。

 烏月の屋敷は、二神山の奥深くにある大松の下にある。

 何百年も前に建てられたという大鳥居の内側にある屋敷は、烏月の神通力によってうまく隠されていて、外から来た人間には古くて小さな社にしか見えない。

 だが、実際には広くて部屋数も多く、各方面に伸びた廊下がいくつもあり、構造も複雑で、屋敷の奥にある烏月の部屋には簡単にたどり着けないように細工がされていた。

 烏月以外で屋敷の中を少しも迷わずに歩き回れるのは、妖力を持つ風夜と風音、鼻の効く泰吉くらいのもので、それ以外の者が不用意に歩き回れば、迷って屋敷から出られなくなる。

 何百年か前に、烏月が屋敷をそういう構造に作り変えたらしい。

「烏月様は、もう何百年も前から外の――、特に人の世との接触を絶っているのです」

 由椰がここに来て初めてのお清めを受けたとき、風音が烏月についてそう説明してくれた。

 烏月は天狗の中でも最も強い神通力を持つ大天狗で、千年以上も昔から二神山の奥にある大松の下の屋敷に住みつき、二神山の周囲に暮らす人々の生活を見守ってきた。

 天気を操り、時に人の前に姿を現し助ける。そんなことをしているうちに、烏月は人間から「神様」として慕われるようになり、大松の屋敷のそばには烏月を祀るための大きな鳥居が建てられた。

 そうやって烏月が人々の暮らしのなかに溶け込んで生活していたのは、何百年以上か前までのこと。

 あるときを境に、烏月は人との触れ合いをやめて、大松の屋敷と外の世界との門戸を閉じてしまった。

 風音の話によると、烏月はあまり人間が好きではないらしい。だから、だろうか。

 由椰は、ここへ来たときに会って以来、一度も烏月と顔を合わせていなかった。

 金色の目をした美しい土地神様は、一日も早く由椰が屋敷から消えることを望んでいるのだろう。

 対面して言葉を交わした時間は僅かだったが、屋敷のどこにいるかもわからない烏月のことを思うと、由椰はなぜか、切なく淋しい気持ちになるのだった。

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