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祠の前でしばらく泣いたあと、由椰は自分の部屋に戻った。炊事場の片付けが終わっていなかったが、泣き腫らした目を風音に見られればきっと心配されてしまう。
畳の上に仰向けに寝転がると、由椰は濡らした手拭いを小さくたたんで目の上にのせた。
濡れた手拭いが、まだ腫れぼったい瞼の熱をゆっくりと冷ましてくれる。そうしているうちに、由椰の頭は少しずつ冷静になった。
心を込めて用意した贈り物を受け取ってもらえなかったことが悲しくて烏月から逃げてしまったが、次に会うとき、どんな顔をすればいいだろう。何もなかったことにして笑えばいいのだろうか。
烏月の思いを知った以上、ここにも長くはいられない。これ以上余計な想いが募る前に、烏月のそばから離れなければならない。
だが、人の世に還るにはどうすればいいのだろう。もう一度、風夜と風音に泉で身体を清めてもらえばいいのだろうか。
でも、またうまくいかなかったら……。
ため息を吐きながら、着物の帯に両手をのせて指を組む。そのとき、由椰の指先に何かが触れた。
目の上の手拭いをとって見れば、小さな御守りの袋が帯からはみ出てきている。祭りの夜に、与市の生まれ変わりを名乗る男から渡されたものだ。
魔除けの御守りだと言うので、帯に挟んで身につけていた。由椰が何気なくそれを手に取ったとき、窓も開けていないのに、部屋の中に、ぞわりと冷たい空気が流れ込んできた。
不思議に思って身体を起こすと、カタリと音をたてて襖が揺れた。
「風音さん……?」
炊事場の片付けに来ない由椰のことを、風音が呼びにきたのかもしれない。立ち上がった由椰が襖の戸に手をかけると、誰かが外から戸を引いた。
襖の向こうに現れた人物の姿に、由椰の呼吸が一瞬止まる。
「ようやく迎えに来れた」
目の前の人物がそう言って、由椰に微笑みかけてくる。
そこに立っていたのは、与市の生まれ変わりだと名乗る男だったのだ。
「どうしてあなたがここに……?」
結界の張ってある烏月の屋敷に、ふつうの人間が忍び込めるはずがない。
この男はほんとうに与市なのだろうか。それとも、与市を名乗る別の者……?
警戒して後ずさる由椰だったが、与市のほうは少しの遠慮もなく部屋の中に足を踏み入れてくる。
「どうしてって、由椰が呼んでくれたんだよ。そのおかげで、結界を破ることができた」
「私が……?」
「そう。お前は烏月の弱点だ。烏月の守りの孤城は、お前を利用すれば堕とせる。それに気付いてから、お前に縁のある者を探していた。だが、まさか、こんなに早くうまくいくとは……」
ククッと笑う与市の唇が歪む。妖しい気配に、由椰は部屋の外へ出ようと襖に向かって駆けた。
(誰か……、誰か呼ばなくては……!)
だが、廊下へと出る前に強い力で後ろに引っ張られる。背中からひっくり返った由椰は、畳に強く頭を打った。
「せっかく捕まえたのに、逃すわけがないだろう。お前には、この敷地の中にある泉まで案内してもらう。そこで神の力を得た後で、ゆっくりと喰ってやる」
顔を歪めて笑う与市の手に額を押さえつけられ、由椰の視界がぐらりと揺れる。頭と身体が鉛のように重くなり、由椰の意志で動かせない。
与市がすっと手を動かすと、由椰の身体は操られるようにして起き上がった。
「泉へ連れて行け」
与市の声が由椰の頭の中で反響して、不快に響く。耳鳴りもひどく、命令に逆らおうにも逆らえない。
与市がもう一度手を動かすと、由椰の足が部屋の外に向かって動き出した。得体の知れない男の命令など聞きたくないのに、身体が勝手に男を泉へと誘導しようとする。
風音や烏月はどこにいるのだろう。泰吉や風夜は酒に酔い寝てしまっているのか。屋敷の中はやけに静かだった。
(屋敷の敷地で異変があれば、烏月様が気付かないわけがない。まさか、この男が皆さんを……?)
嫌な想像が頭を過る。音も立てずに後ろをついてくる与市に問い詰めたかったが、操られている由椰は自由に声を出すこともできなかった。
外に出ると、夜の空は雲ひとつなく晴れていた。空の高い位置に、金色の三日月がかかっている。
敷地内の気候は、烏月に寄って管理されている。空が穏やかに晴れているということは、今のところ烏月は無事で、与市の侵入にまだ気付いていないのかもしれない。
(烏月様……、ご無事であるなら、どうか気付いてください……)
烏月の瞳を思い起こさせる金色の月を仰ぎ見ながら、由椰は心の中で願った。




