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しばらく雲の中を飛んだのち、烏月が由椰を抱いて降り立ったのは、大松の屋敷の祠のそばだった。
どこか遠い場所へと連れて行かれるものだと思っていた由椰は、烏月にそっと地面に降ろされて目を見開く。
烏月の敷地内の上空は、大鳥居の外とは打って変わって、穏やかに晴れ、優しい風が吹いていた。
由椰が出ていく前に供物を包んで祠の横に置いた手拭いは、誰かが片付けたのかなくなっている。汚れた祠も、綺麗に掃除されていた。
「早く入れ」
由椰がぼんやりと祠を見つめていると、先に歩き出していた烏月が屋敷の扉を開いて振り返る。
何事もなかったように烏月が屋敷の中に由椰を招き入れようとするのを見て、由椰は胸に引っかかりを感じた。
「どうしてですか? 烏月様は私に、出て行けとおっしゃったではないですか」
由椰が少し尖った声で訴えると、烏月が僅かに目を細める。烏月の金色の瞳には、はっきりと不快感が滲んで見えた。
「だからと言って、本当に出て行く奴がいるか。今の二神山は、この大鳥居の中以外は完全な無法地帯だ。大鳥居の外に一歩でも出れば、妖力のないお前の命の保証はない。人の子の魂は、放浪あやかしの恰好のエサになる。油断をすれば、さっきの妖狐のようなあやかし共に喰われるぞ」
低い声で一方的に叱責してくる烏月に、由椰は少しだけ腹が立った。一度はよそ者の自分を拒絶しておいて、気まぐれに助けにくるなど都合がよすぎる。
「よそ者の私が誰に喰われようが、烏月様には関係のないことです」
由椰が強い口調で言い返すと、烏月の金色の目がつり上がり、カッと見開く。
「せっかくここにとどめてやっているというのに、お前は伊世に守られた命を簡単に捨てるつもりか。あやかしに喰われてしまえば、お前の魂は人の世に還ることなく消えてしまうのだぞ」
烏月の周囲で風が荒れ始め、由椰はほんの少し怯む。けれど、今さら神様の怒りに触れたところで引き下がるつもりはなかった。
由椰には由椰の意地がある。
「神様としての力を望まず、消えたいと願い続けているあなたに、そんなこと言われたくありません……!」
由椰が色違いの目でキッと睨みつけると、吹き荒れる風の音に負けないように叫んだ。
「なに……?」
「私にここにとどまれと言うのなら……。守られた命を捨てるなと言うのなら、烏月様も、あなた自身を大切にしてください。あなたも消えないで」
烏月の周りで吹き荒れていた風が、驚いたように、ぴたりと止んだ。
真っ直ぐに見つめてくる金色の瞳を、由椰もそらさずに見つめ返す。
「あなたがいなくなれば、人の世に還ることのできない私の居場所もなくなります。だから烏月様、あなたも消えたいなどと願わないでください。私と約束してください」
由椰のことを真顔でじっと見つめていた烏月が、やがて、ふっと表情を和らげる。初めて見る烏月の優しい顔に、思わず由椰の胸がドキリとする。
俄かに頬を赤らめた由椰に、烏月がふっと笑ってみせた。
「お前は、昔から変わらずおもしろいな」
「え……?」
首をかしげる由椰に、烏月が「いや……」と濁して首を横に振る。
「ともかく、中に入れ。ケガもしているだろう。風音に手当てをしてもらえ」
「待ってください、烏月様。私との約束は……」
はっきりと答えを返さないまま屋敷に入ろうとする烏月を由椰が呼び止めると、烏月が振り向いて眦を下げた。
「心に留めておく」
肩越しに振り向いた烏月の表情に、ふと、由椰の胸になつかしさが過ぎる。その理由を考えかけたとき、
「由椰様っ……!」
パタパタと廊下を駆ける音がして、風音が飛び出してきた。
「ああ、よかった……。ご無事だったのですね……」
「風音さん……」
風音に正面から勢いよく抱きしめられ、由椰は戸惑い固まってしまう。
「風音は、お前のことをとりわけ心配していた。お前も約束しろ。断りなく、大鳥居の外に出ていくな」
「はい……」
(それは、互いに約束を守れということでしょうか……)
風音に抱きしめられたまま、由椰は小さく頷いた。




