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長い間ずっと暗闇に閉じ込められて冷え切っていたはずの身体が、なぜかぽかぽかと温かい。凍り付いて動かすこともままならなかった手足に、ひさしぶりに力が入るような気がする。
「この娘は、伊世ではない」
まだ重たい瞼をあげようとする由椰の耳に低い声が届く。その声がなんだかとても心地よいと、まどろみの中で由椰は思った。
「やはり、狸の戯れ言だったか」
「戯れ言なんかじゃねーよ。烏月様、もう一度よくお確かめになってください。オレにはたしかに、この娘から伊世様の匂いを感じたんです」
「貴様の鼻がおかしいんじゃないのか」
「なんだって? もう一度言ってみろ」
「だから、貴様の鼻がおかしいのだろう。年で、そろそろ鼻が利かなくなってきているのではないか」
「ふざけんな。年なら、オレよりもお前のほうがくってんだろーが。クソ鴉」
「烏月様の御前で口が悪いぞ、老害狸」
「口が悪いのはお前もだろ、毒舌鴉!」
続けて由椰の耳に届くのは、先ほどとは異なるふたりの男たちの声。ひとつは落ち着いているが言葉の端々に少しの棘があり、もうひとつはやたらと感情的だ。
長い間ずっと無音の世界に閉じ込められていた由椰は、突如訪れた喧騒にピクリと眉を引きつらせた。
そろそろ目覚めなければ——。
そう思うが、長い間眠っていたせいか、由椰の身体はすぐには動かない。手足がゆっくりと弛緩していくのを待っていると、由椰の額になにかが触れた。わずかなぬくもりを感じるそれを、由椰はなぜかなつかしく思った。
「ふたりとも、つまらぬことで争うな」
やわらかな低い声がため息交じりに制すると、周囲が少し静かになる。
「申し訳ございません、烏月様」
ふたりの男たちの、謝罪の声が重なる。
「この娘はただの人間だ。だが、泰吉の言うように、わずかばかりの気配は感じる……」
「気配とは、伊世様のですか?」
「そうだ。それも、三百年前、伊世が姿を消す直前にまとっていた気配にとても近い」
「では、この娘は姿形を変えて戻られた伊世様なのでは……」
「いや。神といえど、一度消えた者は蘇らない」
「では、この娘はいったい……」
「考え得ることとして――、この娘は三百年前に伊世の加護を受けたのだろう。そのあと、なんらかの理由で祠の中で眠りについたまま放置されていたのを、この度、お前たちに発見されたというところだと思うが……」
「ではこの娘は、三百年もの間、姿形を変えずにあの洞窟で眠っていたということですか?」
「おそらく。これまでは伊世の加護で存在自体を隠せていたのかもしれないが、年月が経ちその力が弱まってきていて、泰吉が気付けたのだろう」
「そうでしたか……」
「気付いたのが泰吉で幸いだったな。もし、放浪者のあやかしに気付かれていれば喰われていたかもしれない」
真上で繰り広げられる男たちの会話の内容は、いまいち要領を得ない。彼らの声をぼんやりと耳に受け止めながら、由椰はゆっくりと目を開けた。
由椰が寝かされていたのは、畳の敷布の上だった。
ひさしぶりに目にする部屋の灯りが眩しい。目を細めながら体を起こすと、男たちの会話がピタリと止んだ。
見知らぬ場所で、三人の男たちからジッと凝視され、由椰は白の着物の袖をぎゅっと握った。
花嫁装束を着た由椰を見下ろす男たちは、それぞれに整った顔立ちをしており、由椰がかつて暮らしていた村の人たちには見られなかったような珍しい眼の色をしている。
なかでも、真ん中に立つ黒髪の男の瞳は輝く金色で、三人の中でもとりわけ美しかった。
金眼の男の背中には黒い翼が生えており、見た目は人に近いが、彼が人ならず者だということがわかる。
その両脇には、栗色の髪に琥珀色の瞳の男と、黒髪に紫の瞳の男が従者のように控えている。紫の瞳の男の背には、金眼の男と同様に黒い翼があった。
(随分と長い間待たされたような気がするけれど、ようやく私が勤めを果たせるときがきたのでしょうか……)
ぼんやりとそう思いながら由椰が頭を垂れようとすると、栗色の髪の男が喜びに目を輝かせた。
「その瞳の色、やはり伊世様……」
栗毛の男の言葉に、由椰はドキリとして、慌てて自身の右目を手で覆う。
初めて会う人間は、まずだいたい、由椰の瞳の色に驚く。
由椰の瞳は左右で色が異なっており、左側は異国人だったという父譲りの青色、右側は獣の目のような金色だ。
生まれてから一度も鏡を覗いたことのない由椰にはわからないが、右側の金眼はときどき鋭く光っているように見えるようで、村の人たちからは「呪いの瞳だ」と言われて不気味がられた。
幼い頃に病気で死んだ母は、由椰のことを可愛がり慈しんでくれたが、そんな母も、由椰のオッドアイについてはつねに気にかけていた。
『外に出るときは、なるべく右の目は隠しなさい』
母は由椰の金色の右目を前髪で覆うように隠した。
これは、人に見せてはいけないもの……。
幼い頃から、そんな刷り込みをされてきた由椰が、自ら右目を人前に晒すことはない。けれど、生贄として神無司山の祠に閉じ込められる前、化粧を施され、額を晒すようにして髪を結われため、今は右目を手で覆う以外に隠しようがなかった。




