【第315話:魔王の深淵】
鬼王の拳が唸りを上げて振り抜かれた。
山を砕くほどの怪力を持つその一撃は、空気を押し潰しながら一直線に魔王へと迫る。
だが次の瞬間、鬼王の表情が固まった。
魔王は片手を軽く上げただけで、その拳を受け止めていた。
力んでいる様子はまったくない。
ただ手を置いただけのような動作だった。
「……なに?」
鬼王の喉から低い声が漏れる。
全身の筋肉が膨れ上がり、腕の血管が浮き上がった。
鬼王はさらに力を込め、拳を押し込もうとする。
しかし魔王の腕は微動だにしなかった。
まるで大地そのものを押しているかのようだった。
クロナが静かに目を細める。
「鬼王の力を止めるとは…!」
魔王は小さく息を吐いた。
「少しは楽しめるかと思ったのだがな」
その声には嘲りすらなかった。
ただ事実を述べているだけのような口調だった。
それが逆に鬼王の怒りを刺激する。
鬼王は歯を食いしばりながらさらに力を込めた。
だが結果は変わらない。
力の差はあまりにも絶望的だった。
その時だった。
空気が変わった。
ドン、と重い衝撃のようなものが空間に広がる。
地面が沈み、周囲の岩が細かく砕け始めた。
遠くの森から魔物たちの悲鳴が響く。
クロナの瞳がわずかに見開かれた。
「これは……魔力か?」
だが普通の魔力ではない。
深い。
底が見えない。
まるで果てのない闇がその場に出現したかのようだった。
魔王の体から溢れ出す力は、空間そのものを押し潰す圧力となって広がっていく。
「今までのは挨拶だ」
魔王は静かに言った。
「本気を見ると言ったな。ならば見せてやろう」
魔王は鬼王の拳を離す。
解放された鬼王は反射的に距離を取ろうとした。
その瞬間だった。
魔王の姿が消えた。
「なっ――」
鬼王が振り向いた時にはもう遅かった。
背後に魔王が立っている。
気配も音も一切なかった。
魔王はただ一歩踏み込む。
そして軽く拳を振るった。
轟音が爆発した。
衝撃と共に鬼王の巨体が弾き飛ばされる。
大地を削りながら何十メートルも転がり、地面に巨大な溝が刻まれた。
鬼王はようやく体勢を立て直す。
しかし腕は痺れ、骨が軋んでいた。
たった一撃で身体の奥まで衝撃が届いていたのだ。
クロナはその光景を見て理解する。
鬼王は弱くない。
この世界でも最上位の怪物だ。
だがその鬼王が、たった一撃で吹き飛ばされた。
魔王はゆっくりと振り返る。
その瞳には感情がほとんどなかった。
怒りも興奮もない。
ただ底の見えない闇のような静けさがあるだけだった。
「次はお前だ」
クロナの影が足元で揺れる。
だが恐怖ではない。
むしろ口元がわずかに歪んだ。
「面白い。ようやく本気か、魔王」
影が地面に広がり、周囲を黒く染めていく。
喰影王の力が解放され始めた証だった。
魔王はそれを見ても動じない。
ただ静かに立っている。
その姿はまるで深淵だった。
底の見えない闇が人の形を取っているかのようだった。
遠くで鬼王が立ち上がる。
血を吐きながら笑っていた。
「はは……いいじゃねえか」
「これだ。こういう戦いを待ってた」
三つの怪物の力がぶつかり合う直前、空間そのものが軋み始める。
大地は震え、空は重く沈み込む。
誰もが理解していた。
この戦いはまだ序章に過ぎない。
そして今。
魔王の本当の深淵が、ゆっくりとその口を開こうとしていた。




