【第312話:極限の先にある視界】
魔将の刃が空間を裂いた瞬間、空気が遅れて悲鳴を上げた。
その軌跡は視認不能。
斬撃は既に通過しているのに、衝撃だけがあとから地面を抉る。
ティナは半歩だけ横へ滑るように移動し、その暴風を紙一重で回避した。
頬をかすめた風圧が、遅れて血を滲ませる。
速い。
だがそれは理解していた事実に過ぎない。
「……三度目ですね。同じ踏み込みは」
魔将は答えない。
姿は既に消えている。
否、消えたように見えるだけだ。
視界に映らない速度で移動しているだけに過ぎない。
右。
直後、左。
上空。
連続する衝撃波が大地を砕く。
ティナは最小限の動きで躱し続けるが、徐々に衣服が裂け、呼吸が荒くなる。
目で追うな。
音でもない。
風でもない。
軌道を読む。
「速さそのものは、有限です」
魔将の斬撃が真正面から迫る。
ティナはそれを受けず、あえて一歩踏み込んだ。
刃が肩を浅く裂く。
血が舞う。
だがその瞬間、彼女の瞳が僅かに細められた。
見えた。
魔将の足運び。
重心の偏り。
連撃の中に混ざる、わずかな“間”。
速度が速いほど、動作は単純化する。
余計な揺らぎは削ぎ落とされる。
ならば読むべきは残された必然だけ。
「あなたの限界速度は、ここです」
魔将が一瞬だけ動きを変えた。
それは初めての変化だった。
次の瞬間、衝撃はこれまでと比べ物にならない規模で炸裂する。
地面が爆ぜ、視界が白に染まる。
ティナは吹き飛ばされた。
背中から転がり、岩壁に叩きつけられる。
肺から空気が抜け、視界が暗くなる。
立てない。
足が震える。
それでも彼女は立ち上がった。
イエガンが倒れた光景が脳裏を過る。
血に染まりながらも、最後まで牙を貫いた姿。
自分は【目部隊】の部隊長だ。
記録する者であり、未来を繋ぐ者。
ここで止まるわけにはいかない。
「……まだ、終わっていません」
魔将が消える。
最大速度。
今までの比ではない。
世界が引き伸ばされたように歪む。
ティナは目を閉じた。
視覚を捨てる。
音も捨てる。
呼吸。
鼓動。
大地を踏む振動。
その全てを重ね合わせる。
速さは直線だ。
直線には始点と終点がある。
ならば、終点に立てばいい。
彼女は前へ踏み出した。
魔将の刃が振り下ろされる地点へ。
常識では自殺行為。
だが、計算は終わっている。
魔将が振り下ろす直前、僅かな減速がある。
力を乗せるための、ほんの刹那。
その“先”が見えた。
時間が伸びる。
刃の軌道。
筋肉の収縮。
地面のひび割れ。
全てが一本の線で繋がる。
「そこです」
ティナは最小の動きで半身を捻り、魔将の懐へ滑り込んだ。
刃は彼女の背を浅く裂くが、致命には届かない。
そして――
短剣が、魔将の胸部に深く突き立てられた。
速度を極めた者は、防御を捨てる。
その一点を、彼女は掴んだ。
魔将の動きが止まる。
初めて、止まる。
瞳が見開かれ、血が溢れる。
なおも腕を振り上げようとするが、力が入らない。
速度は失われた。
ティナは刃を押し込む。
全身の力を振り絞る。
「ばかな…!」
「これが……あなたの、終点です」
魔将が崩れ落ちる。
地面に膝をつき、やがて完全に沈黙した。
静寂が訪れる。
ティナはその場に立ち尽くす。
呼吸が乱れ、視界が揺れる。
限界を越えた反動が襲う。
脚が崩れ、片膝をつく。
だが倒れない。
遠くで激突する膨大な力の気配。
クロナと魔王の戦い。
まだ終わっていない。
彼女は血に濡れた短剣を握り直す。
「……次は、あなたです」
震える声。
それでも瞳は澄んでいる。
ティナは、速度のその先を見た。
そして、わずかな差で勝利を掴んだ。
戦場は、まだ終わらない。




