【第311話:閃光の外側で】
イエガンが崩れ落ちた衝撃は、地面よりも先に空気を震わせた。
その余波は砂塵を巻き上げ、戦場の輪郭を一瞬だけ曖昧にする。
だが、その曖昧さの中で、ただ一人だけ視界を澄ませている者がいた。
目部隊長、ティナである。
「……まだ終わっていません」
その呟きは誰に向けたものでもない。
自らの鼓動を制御するための確認だった。
目の前には、速度に特化した魔将が立っている。
長身の影は揺らぎもなく、余裕すら漂わせていた。
「仲間が倒れたぞ」
魔将の声は低く、そして軽い。
挑発というより、事実の提示だった。
「倒れただけです…倒されたのは、貴女のお仲間の方みたいですよ」
ティナは即座に返す。
感情を削ぎ落とした声音だった。
次の瞬間、魔将の姿が消えた。
爆ぜるような踏み込み。
音よりも速い移動。
遅れて、衝撃波だけがティナの頬を裂く。
血が一筋流れる。
しかし彼女は瞬きをしなかった。
視界の端に、わずかな歪みがある。
砂の動き。
空気の押し流れ。
「右上!」
言葉と同時に、身体が反転する。
刃と刃が激突し、火花が散る。
魔将は笑った。
「見えているのか?」
「いいえ」
ティナは刃を滑らせながら答える。
「見える前に、予測しているだけです」
再び消失。
今度は三方向からの同時圧迫。
残像ではない。
本体が高速で軌道を変えている。
常人なら視覚が追いつく前に絶命する。
だがティナは違う。
彼女の脳裏には、直前までの軌跡が線として残っている。
歩幅。
踏み込み角度。
重心移動の癖。
全てが記録され、即座に次の動きを導き出す。
「そこです」
短い踏み込み。
無駄のない斬撃。
金属音が連続して鳴り響く。
魔将の速度は衰えない。
だが、決定打も生まれない。
戦場の遠方で、黒と紅の衝突が閃く。
クロナと魔王の激突だ。
だがティナはそちらを見ない。
見る必要がないと判断している。
今は、自分の前にいる敵だけに集中すべき局面だ。
「興味深い」
魔将の声が背後から響く。
次の瞬間、首元に冷たい風が走る。
しかし、その刃は皮膚を裂く寸前で止まった。
ティナの短剣が、わずかに軌道を逸らしていた。
「速度は脅威です」
彼女は呼吸を乱さずに言う。
「ですが、軌道は必ず存在します」
魔将の目が細められる。
本気の色だった。
地面が砕ける。
音の壁を突破する踏み込み。
空間そのものが引き裂かれるような加速。
視界が白く染まる。
それでもティナは退かない。
彼女は目を閉じた。
視覚情報を捨てる。
代わりに、音と振動に意識を集中する。
刹那。
空気の裂け目が一つだけ不自然に沈む。
そこだ。
身体が滑るように動く。
刃が横薙ぎに振り抜かれる。
衝撃。
魔将の肩口から血が噴き出す。
初めて、明確な傷が刻まれた。
「……読んだか」
低い声。
「いえ」
ティナは淡々と返す。
「あなたが速いなら、私は速さの外側に立つだけです」
速度そのものを追うのではない。
速度が生む必然を捉える。
それが彼女の戦い方だった。
魔将の気配が変わる。
余裕は消え、純粋な殺意だけが残る。
次で決める気だと理解する。
ティナは静かに息を吸った。
イエガンが命を懸けて切り拓いた道。
その重みが、背中を押す。
「来なさい」
挑発ではない。
宣告だった。
魔将が消える。
世界が引き伸ばされる。
鼓動が一拍だけ遅れる。
その刹那、ティナの刃が閃いた。
閃光の外側で。
二つの影が交差する。
次の瞬間、どちらが立っているのか。
砂塵がゆっくりと落ち始めた。




